鼓動−第3章:未来−(1)

誰かが泣いてる。
暗闇の中で、誰かが泣いてる。
いや、違う。
泣いてなどいない。
あの子は泣くことすら忘れて、ただうずくまっているのだ。
自分を守ることも、庇うこともせず。
ただひとりで耐えているのだ。
世界はあの子にとって必要ではなくなった。
空も海も山も河も、何もかも。
人の温もりも、暖かい言葉も、優しい手も、何もかも。
何もかも必要じゃなくなったあの子は、ただ、ひたすらに心の目を閉ざしているのだ。
何も見ないように。
何も聞かないように。
あの子にとって、必要なものはただひとつだけだったから。

 

――――――烈火は、じっと暗闇の中うずくまっている小さな背中を見つめていた。
自分の為に立ち上がることすらしなくなった、小さな少年。
少年の周りには、永遠に降り続く雨の音が聞こえていた。

肉体を失ってから、ずっと気がかりだったのは、この少年の事。
誰よりも愛しいと思っていたのに。
あれ程に護りたいと思っていたのに。
誰よりも深く傷つけてしまった。
取り返しのつかない程、この少年の心を壊してしまった。

ずっと、ずっと、気の遠くなるほどずっと。
長い長い時間をかけて。
願っていたのに。
この少年が幸せになるように。誰よりも誰よりも幸せになるように。

「水凪……」
烈火がそっと少年の名を呼んだ。
「水凪……」

澄んだ湖のような瞳。木の葉色の優しい緑のその色を、どれほど自分は愛しただろう。
運命に導かれて、出逢ったあの瞬間から。
いや、もっとずっと以前から。
どれほど時を隔てても変わらない想い。
たとえ世界がどれほど変わろうと、この想いだけはきっと変わらない。

「水凪……」
もう一度、囁くようにそうつぶやいて、烈火はそっとそっと水凪の頬に触れた。
柔らかな肌。
もう二度と触れることはないと思っていた。
永遠に手にはいることなどないと、そう思っていた。
「水凪、解るか? オレだよ」
「…………」
「お前に逢いに来たんだ。水凪」
「…………」
「お前に逢うためだけに、此処へ来たんだ」
そう言って烈火は水凪の小さな背中に腕をまわし、そっとその身体を抱きしめた。
まわりにふわっと海の香りが広がる。
少しだけ抱きしめる腕に力を込め、烈火がそっと瞳を閉じた。
鮮やかに。
鮮やかに今も脳裏に蘇る。懐かしい緑の瞳。届かない人。
「烈火……?」
小さな声で水凪が言った。
「烈火……なの……?」
もう一度。
小さな唇が微かに動き、烈火の名を綴った。
「水凪……」
ようやく烈火が笑顔を見せた。

 

――――――「水凪……新しい生命の誕生の瞬間を覚えているか?」
「…………」
「お前がオレに教えてくれたんだ。生命は消えたりしないって。永遠に続いていくんだって。……お前の言葉だよ。ずっとずっと、魂は永遠に消えたりしないんだって」
「…………」
「オレは、鎧珠を手放したけれど、オレの想いは永遠に受け継がれていく。オレの心はいつだってお前を見守っているよ」
「烈火……」
「どんなに時が経っても。どれ程お前が変わっても、ずっとずっと祈っているよ。お前の倖せを祈っているよ。水凪」
「…………」
「だから……」
「…………」
だから。
どうか。
もう、哀しまないでほしい。
自分の心を殺してまで、うずくまっていないでほしい。
願っているから。
決して届かなかった想いを、嫌というほど解っていながら、それでも想わずにいられなかったあの頃と同じように。
ただ、あなたの笑顔だけを見ていたいから。

ふわりと水凪の手の中の珠が光を放ちだした。
柔らかな光の中に微かに仁の文字が見える。
「これはもう、オレの鎧珠じゃない。でも、オレの想いはこの中に存在している」
「…………」
「今まで生きてきた烈火の戦士達の想いや意志が全部詰まってるんだ。この中に」
「……うん」
微かに水凪が頷いた。

仁の珠。烈火の意志。
そうなのだ。消えたりしない。烈火は紛れもなく存在しているのだ。
烈火の意志も想いも此処にある。
何も失ってなどいない。何もなくしたりしない。
想いは続いている。永遠に。
遙かなる時を隔て、永遠に。
彼の人と共にある。

「解る。あなたが居る。あなたを感じるもの。暖かくって、優しくって。大切なものを護ってるの。いつも」
「大切なもの?」
「真っ白な生命。未来を見つめる瞳。……遼……」
「……遼……?」
「あなたが僕に託した生命」
「……」
「遼……優しい子だよ。人の心の痛みを知って、代わりに泣いてくれる。真っ白な心を持った優しい子」
「水凪……」
微かに烈火が微笑んだ。
「強くなったな……水凪」
「……烈火?」
「お前は、とても強くなった」
「……」
いつも自分の後を追ってきた水凪。
小さな手で、小さな足で、必死に烈火に追いつこうと走っていた水凪。
彼は、護るべき者を、自分の手で護れるほど、強くなった。
「……オレは、自分を傷つけることでしか強くなることが出来なかった。だけど、お前は違う。お前の優しさは、そのままお前の強さになる……強くなったな、水凪」
そっと愛しげに水凪の髪をすき、烈火がつっと立ち上がった。
「お前はもう、歩いていけるね。ちゃんと立ち上がって歩いていけるね」
「烈火……!」
水凪が不安気に顔をあげた。
「烈火……」
「お前が立ち上がるのこの目で見たら、オレは安心して眠りにつける」
「烈火!!」
烈火の着物の裾を掴み、水凪が叫んだ」
「何処へもいっちゃ嫌だ! 烈火! やっと逢えたのに……!」
「……」
「烈火が何処かへ行くのなら、僕もつれて行って……! つれて行ってよ……」
水凪の言葉が苦しげにかすれていく。
「……」
「……烈火……」
ついに大粒の涙が水凪の頬を濡らした。
「水凪、嘘をついちゃいけないよ」
静かに烈火が言った。
「嘘……?」
「そうだ。お前は、もう気付いているはずだ」
「…………」
「オレはお前をつれて行くために此処に来たんじゃない。お前が立ち上がる姿を見るために来たんだ」
「…………」
「お前を支えてくれる大切な仲間と共に、お前は歩いて行くんだ。これからも」
「……烈火…………」
「お前には、かけがえのない仲間がいる」
「…………」
「……一緒に笑いあえる仲間がいる。何も言わなくても理解してくれる仲間がいる。大切な護るべき仲間がいる。そして……」
「…………」
「お前のことをずっと見つめてくれる仲間がいる」
「烈火……」
「そうだね」
コクリと水凪が頷いた。
「お前はもう、オレが手を引かなくても歩いていける」
「……」
「……ほら、聞こえるだろう。みんながお前の事を呼んでる」
水凪が何かを探るように首を巡らせた。
「誰の声が聞こえる?」
「…………」
水凪は静かに目を閉じた。
「お前を呼んでるのは誰だ?」
「……鋼玉……?」
「それから?」
「夜光の声も聞こえる」
「それから?」
「……赤ん坊。大切な守るべき小さな生命……そして……」
「…………」
「そして……天城」
「…………」
「違う。当麻だ」
烈火がゆっくり頷いた。

水凪が瞳を開ける。
ゆっくり、ゆっくりと。
烈火がいなくなって、初めて水凪は立ち上がった。

「水凪」
烈火が言った。
「天城に謝っておいてくれないか」
「…………」
「辛い思いをさせて済まなかったと。本当に済まない事をした……と」
「烈火」
永遠に消えることのない記憶の中で、天空は何を想うのだろう。
繰り返される戦いの歴史のすべてを心に刻んで。
狂うことも、捨てることも許されなかった天空は。
「それでも天城はあなたの事、大好きだったよ」
「…………」
「僕と同じように、天城もあなたにもう一度逢いたいと思ってる。天城だけじゃない。夜光も鋼玉もみんな、もう一度あなたに巡り逢いたいと思ってる」
「水凪……」
「烈火……大好き!」
小さな両手を思いっきり伸ばして、水凪は烈火の首に抱きついた。
「ずっとずっと大好きだよ」
そう言って水凪はその澄んだ瞳で烈火を見つめた。

倖せに。
倖せになって下さい。
愛しい人。

あなたがもう二度と哀しみの海に沈まないように。
祈っているから。
心から祈っているから。

もう一度水凪の頬に手を触れ、烈火がそっと笑った。
烈火の黒曜石の瞳に映る自分の顔を、水凪はじっと長い間見つめていた。

耳の奥で波の音が聞こえる。
繰り返し繰り返し同じフレーズを詠い続ける。
幸せになるように。幸せになるように。
繰り返し。

 

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