キミの隣 (4)
「日向さん、オレ明日試験なんです」
「……えっ?」
鋭い目つきでそう言った若島津に、小次郎はビール瓶のケースを持ち上げたまましばらく微動だにしなかった。
「聞こえませんでした? オレ、明日」
「な…何度も言わなくていい。ちゃんと聞こえた」
「そう、ならよかった」
「…………」
入学願書を取りに行ってから試験までの数週間の間、若島津の顔の痣の数は一向に減ることはなかった。
ドンッと地面にビール瓶のケースを置き、小次郎はじっとボロボロになった若島津の顔を見つめていた。
「親父さんは何て?」
「まだ、ブツブツ文句言ってます。きっと春を過ぎても言い続ける気なんでしょうね」
「……若島津…お前…」
「兄さんも、もうすぐ試験らしいんですけどね。父さんが大反対してて、家の中ずっとピリピリしまくっててさ…」
「お前、それでいいのか!?」
小次郎が声を荒げた。
「そんなふうに家族の反対押し切ってまで行く理由がお前にあるのか!?」
「行く理由……?」
ひどく冷たい目で、若島津はそう言った小次郎を睨みつけた。
「……理由、聞きたいですか……?」
小次郎がゴクリと唾を飲み込んだ。
若島津はそんな小次郎を見て、皮肉そうな笑みを浮かべる。
「日向さん。オレには手放したくないものがあるんだ。だからそれを手放さない為になら何だってする」
「…………」
「これはオレが決めたことだ。親父になんか文句言わせない」
「手放したくないものって……それは何だ」
「オレの居場所です。この世でたったひとつの大切なオレの居場所です」
「…………」
「明日なんですよ、試験」
もう一度念を押すように若島津は言った。
「あんたは何も言ってくれないんですか?」
ギクリと小次郎の表情が強ばった。
「これが受験票。これ持って明日、東邦へ行くんです。だから……」
「だから……?」
「いちおう確認しておこうと思いましてね」
「か…確認?」
「オレ、邪魔ですか?」
「……!?」
小次郎が驚きに目を見開いた。
「あんたにとってオレは必要な人間ですか? それとも不必要な人間ですか? あんたの答え次第でオレはこれを破こうと思ってるんです」
そう言って若島津は手に持った受験票を小次郎の目の前でひらひらと揺らした。
「若島……」
「ここまで来るのに随分時間がかかった。親父はまだ納得してくれてない。でもオレは諦めない。オレはオレの居場所を確保するために本気で親父と戦うと決めた。だから、言葉が欲しい」
「…………」
「あんたの言葉が欲しい。」
「何言って……」
「オレ馬鹿だから、ちゃんと言ってくれないとわからないんですよ」
そう言って若島津は微かに笑う。
小次郎からの返事はなかった。
小次郎はギュッと唇を噛みしめて若島津を見つめ返していた。
「……わかりました」
しばらくの沈黙のあと、若島津がポツリと言った。
「どうやらオレは独り相撲をしていたようだ」
「……あ…」
「変なこと聞いて悪かった」
ゆっくりと若島津は両手を持ち上げ、小次郎の目の前に受験票を掲げた。
「これはオレにとって不要なもの……か……」
「若……!」
ビリッと若島津の手が受験票を引き裂こうとした瞬間、はじめて小次郎が動いた。
「よせ! 若島津!!」
若島津の腕を掴み、引き寄せて小次郎が思わず怒鳴った。
「何馬鹿なことしてんだ! オレと一緒に東邦へくればいいじゃねえかっ! オレにはお前が必要なんだから!」
「……今……なんて?」
「……っ…!」
小次郎が真っ赤になって掴んでいた若島津の腕を離した。
「今の…よく聞こえなかっ……」
「うるさい! 二度と言わねえぞ、オレは!」
耳まで真っ赤になって小次郎はぷいっと横を向いたまま、若島津と目を合わせようとしなかった。
「だいたいなぁ。こんなふうに試されるのは嫌いなんだ。お前、実は性格めちゃくちゃ悪いだろ」
「今頃知ったんですか? 呑気な人だ」
「てめえなあ!」
本気で腹を立てている小次郎は何故か若島津にはとても優しく見えた。
誰よりも強く。誰よりも孤独で。そして誰よりも優しい。
そっと手に持った受験票を大事そうにポケットにしまい、若島津はまだ横を向いたままの小次郎の浅黒い顔を見つめた。
「日向さん」
いつか自分は、もしかしたらこの人に追いつけなくなる日が来るかもしれない。
でもその日が来るまで、自分は必死になってこの人の背中を追いかけるだろう。
最大の友人であり、仲間であり、ライバル。出来うる限り長い間、そんな関係が続けばいいと思う。
だから、その為に自分に出来る最大限の努力をしよう。
「日向さん」
まだ振り返ろうとしない小次郎に向かって若島津はそっと言った。
「オレも二度と言いませんから、ちゃんと聞いてくださいね」
「…………」
「あんたの隣の位置が、オレの一番大切な場所です」
「…………」
「何物にも代え難い、一番大切な居場所です」
小次郎がようやくゆっくりゆっくりと振り返った。
明日は東邦学園中等部の試験の日。
空からはまた、白い雪が降り始めていた。FIN.
2002.10 脱稿 ・ 2004.3.13 改訂