キミの隣 (3)
「くそっ!!」
ガッと道場の壁を力任せに殴りつける。
気分がささくれだって仕方ない。自分が望むものと相手が期待することに食い違いが生じることくらい、長年、家の父親と兄を見ていればわかると思っていた。
だから、父親に反対されることなど、はっきり言ってどうでもよかった。
反対されることくらいわかりきっていたから。だから覚悟はしていた。どう対処すればいいか。そんなことはずっと考えていたし、いざそうなってみても何とかなると思えていた。
でも、まさか。問題がそんなところと全然違うところにあっただなんて。
そんなこと思ってもみなかった。
だから。あれは応えた。さすがに、冗談抜きで応えた。
「ったく。自分でこの世界に引きずり込んでおいて、状況が変わったらお払い箱かよ。いい加減にしろ……」
「荒れてるなあ、健坊。」
参考書を小脇に抱えたまま愁が呆れたように肩をすくめた。
「せっかくお前の中学受験の手伝いでもしてやろうかと誘いにきたのに、必要ないのかなあ?」
「愁兄…!」
「どうした。また、親父に何か言われたのか?」
「違う。そうじゃない。」
若島津は大きく頭を振った。
「父さんが何と言おうが、どれだけ反対しようが、オレ、自分の気持ち曲げる気なんかこれっぽっちもない。これでも一生懸命悩んだ末にだした結論なんだ。誰にも邪魔なんかさせない。そう思ってた……でも。」
「でも?」
タタッと駆け寄って、若島津は兄の腕にしがみついた。
「オレ……オレ……オレ、わかんないんだ。」
「……何が……?」
「……あの人はオレなんかいらないのかなぁ? オレ、こんなに必死なのに、あの人はオレのことなんか何とも思ってないのかなあ? オレなんかがそばに居なくても全然構わないって思ってんのかなあ?」
「…………」
「この間、あの人は、オレがサッカーが好きなら別に好きなままでいればいいって言ったんだ。なのにさ……」
「なのに……?」
「いざ、オレが東邦へ行くって言ったら反対するんだぜ。信じられない。何考えてるんだよ」
「ふーん。そうか。反対したか。やっぱり」
「やっぱり?」
驚いて若島津が顔をあげると、愁は、ポンポンっと軽く弟の頭を叩きながら、くすりと笑った。
「やっぱりって何だよ。愁兄」
「……なあ、日向君が何て言って反対したか当ててやろうか?」
「……えっ?」
「日向君、きっとこう言ったんだろう? お前、東邦がどういう所かわかってんのか? 私立なんだぞ。全寮制なんだぞ。そこんところわかって言ってんのか!? って、こんな感じ?」
にっと笑う兄を見て、若島津は驚いてあんぐりと口を開いた。
「しゅ…愁兄? なんで……」
「なんでわかるのかって? わかるよ。それくらい。あの子はそういう子だろうって思ってたから」
「そういう子って……」
何が何だかわからないといった表情の弟を見て、愁は声をたてて笑った。
「そうだなあ……例えばさ、日向君って自分が失敗とかした時でも、被害を被るのが、自分だけの時ってそんなに怒ったりしないんじゃないかなあ。逆に他人に迷惑をかけるような失敗は断じて許さなかったり……」
そうなのかな、といった顔で若島津は首をかしげた。
「不安なのはきっと日向君も同じなんだよ。でも、日向君の不安は自分に対しての不安じゃない」
「…………」
「今までだったらさ、お前がサッカーを嫌になっても、すぐ帰っていける場所があったじゃないか。もう辞めた、の一言でお前はいつでも空手に戻ることが出来た」
「オレ、そんなこと……!」
「もちろんお前がそんなこと言うとはオレは思ってないよ。でも、とにかく今までお前はいつでも軌道修正がきく場所にいられたって事だ。だけど、東邦に行ったらそうはいかない。お前にはすぐに戻っていける家はなくなるんだ。嫌が応でもサッカーを続けていくしかなくなる。日向君はそれが不安なんだ」
「…………」
「自分がさ、誘わなかったら、お前はサッカーを知らなかった。自分が東邦へ行くことにならなければ、お前は家を出ようなんて思うことはなかった。あの子は自分がお前の人生を縛り付けてるんじゃないかと思ってる」
「……そんな……」
「不安なんだよ。自分一人がつまずくなら、それは自分の責任でしかないが、お前に何かあったらあの子はその責任を自分の手で負おうとするだろう。自分の所為でお前が理想と違う道を進んでしまうことになったら、どうすればいいだろうって……」
「あの馬鹿……」
小さく若島津がつぶやいた。
「馬鹿だ。あの人は本当に馬鹿だ。本当にあの人が愁兄の言うような事を気にしてるんだったら、あの人は本当の大馬鹿者だ」
小さく拳を震わせる若島津を見下ろし、愁は穏やかな笑みを浮かべた。
「愁兄」
「……ん?」
「オレ、東邦へ行く。何が何でも行ってみせる」
「……ああ」
「絶対。何が何でも行ってみせる」
「そうか」
力強く愁は弟に向かって頷きかけた。
――――――真冬の厳しい寒さの中に突然到来したやけに暖かな日、若島津は姉の涼子についてきてもらい、東邦学園へ出向いた。
入学試験前の最後の日曜日。
本番で緊張しないように。また、もう一度自分自身を奮い立たせるために。
決意を新たに抱き直すために。
しっかりと、学園をこの目で見ておきたかったのだ。
小次郎は相変わらず、若島津の東邦学園進学について何もコメントしてこなかったが、それでも一向に構わない様子で若島津は入学試験の勉強に励んでいた。
「調子はどうなの?」
眼下に東邦学園の校庭を見下ろしながら、涼子が聞いた。
「うん。愁兄がつき合ってくれるから、随分と良い感じだよ。愁兄も大変なのに、長時間オレにつき合ってくれてさ」
「まあ、中学受験も高校受験も、やることは同じな部分が多いからね」
くすりと余裕の笑みを見せて涼子は言った。
「高校受験の入試に出てくるのは、何も中学時代に習った勉強ばかりじゃないじゃない。きちんと小学校からの基礎ができて初めて中学の勉強が出来るようになるんだから、愁もちょうどいい基礎勉強ができたって重宝してるんじゃないの? 健との時間は」
「そうなんだ」
感心したように頷いて、若島津はふと校舎の向側に見えるサッカーグランドを見渡した。
夜間でも使用できる見事な照明のついたグランド。
遠目で見ても芝生の手入れが隅々まで行き届いているのが見て取れる。
本当に、最高の環境なのだ。今までとは桁違いの。
「4月からは、あそこに立ってるのね。貴方は……」
少し感慨深そうに涼子はそう呟いた。
「何だか信じられないなぁ……」
「何が?」
「ほんのちょっと前まで、愁の後を付いて回ってばかりいた赤ん坊だと思ってたのに、健ちゃんは、いつの間にかちゃんと男の子になってたのね」
「涼子姉……?」
「私ね。愁は早いうちに家を出ていくだろうなって、漠然と思ってたの。愁の目指すべきものと父さんが望むものが違うのわかってたし。私は愁の生き方を好きだなって思ってたから応援してあげたかったし。なのに、愁より先に貴方が家を出るなんて、考えてもみなかった。油断してたっていうのかな? そんな感じ」
「愁兄は……」
ふと言葉につまって若島津は姉の横顔を見上げた。
愁が目指す医学校は、家から少し離れた場所にある学校だった。
その学校に受かったら、愁は毎日1時間以上かけて通わなくてはならないらしい。
でも、少しも億劫ではないのだと、愁は笑いながら弟に言った。
何故なら、健にとっての大切な居場所が東邦にあるのと同じように、自分にとっての大切な居場所は此処にあるのだと。だから、少しも嫌ではないのだと。
愁は少しの迷いもない目でそう言ったのだ。
「誰にだって大切にしたい場所がある。大切な人の隣で生きていきたいと思ってる。だから、愁兄は家を出ないんだって言ってた」
「愁が……?」
戸惑った表情で涼子は振り返った。
「愁ったら、そんなこと言ってたの……?」
「うん」
「そっか……そうなんだ……」
「愁兄は、涼子姉や加奈、母さん、そして、父さんも大好きだから、まだ此処に居るって。だからお前は安心して行ってこいって……」
「そう……」
つぶやいた涼子の横顔は何故かとても綺麗に見えた。
大切な場所。自分の居るべき場所。
それは、きっと、自分にとって誰よりも大切な誰かの隣の位置を意味するのだろう。
そんな気がした。
そして、自分が望む、一番大切な居場所はただひとつ。
その場所を確保するためになら、自分はどんな努力も惜しまない。
「ごめんね。姉さん。我が儘な弟で」
若島津の言葉に涼子は黙って首を振った。
とたんに確信する。
自分は本当にあの家を出ていくのだ。この暖かい家族のもとを離れるのだ。
若島津はゆっくりと息を吸い込み、ぎゅっと拳を握りしめた。
手のひらに食い込んだ爪の痛みが、そのままこれからの現実の厳しさを現しているようで、若島津はもう一度深く深く息を吸い込んだ。