キミの隣 (2)
トン……
手を離れたボールが地面でバウンドして再び手の中に収まる。
トン……
落ちたときの勢いそのままにボールは地面から跳ね上がる。
少し離れた壁に向かってボールを投げるとボールは壁を蹴り返すように胸元へと帰ってくる。
手に馴染んだサッカーボール。ほんの一年前は興味の欠片もなかったこの丸い球。
ボールを蹴って得点を奪い合うサッカーという球戯。
自分は一体これの何処に惹かれたのだろう。
蒼い芝生の匂いか、上がる土煙か、ボールが風を切る音か。
いや、違う。自分が惹かれたのは、この球じゃない。自分が惹かれてやまないのは、この球を蹴る一匹の虎だ。
縦横無尽にグランドを駆け回る風のようなあの姿だ。
雄々しくて力強くて、そして、時に驚くほど優しい表情をするあの人。
決して誰にも依存せず、真っ直ぐ前を見つめる瞳の光を見ていたいと思った。
あの人が何処までの高みに昇っていくのか、この目で確かめたいと思った。
追いつくことがかなわなくても、せめて後ろ姿が見えなくならないよう走り続けたいと思った。
「…………」
「若島津?」
「……!?」
耳慣れた声に振り返り、若島津は顔をあげた。
真冬だというのに、薄手のトレーナー一枚という、およそ見ている方が寒くなるような格好をして駆け寄ってきた小次郎は、相変わらず灼熱の太陽のように眩しく見えた。
「日向さんこそどうしたんです。こんな時間に」
「オレはバイトの帰りだよ。お前こそ何だ。こんな時間に自主練か?」
「ま、そんなとこ」
さっと若島津の手からボールを奪い取り、小次郎はその場でリフティングを始めた。
トントントン。
リズミカルな音が耳に心地いい。
「やっぱ、上手いもんですね。キャプテン」
「何言ってんだ。これくらいならタケシや沢木の方が上手いぞ。それにオレはもうキャプテンじゃねえんだから、そういう呼び方すんなよ」
わざとぶっきらぼうに答えるのは、一種の照れ隠しなのであろう。
くすりと笑い、若島津は改めて小次郎に向き直った。
「日向さん」
「ん?」
「今日、行ってきたんですよね。東邦へ」
「ああ」
「どうでした?」
「んー。デカかったなあ…」
トントンとリフティングを続けながら小次郎は答えた。
「学校自体もでかいし、裏側に並んで建ってる学園寮ってのがまたでかいんだよ。生徒も腐るほどいるみたいだし」
「へえ」
「初等部、中等部、高等部ってのがエスカレーター式になってるそうじゃねえか、あそこって。なんか頭良さそうな坊ちゃん顔した奴らがそこら中にいてさ。こいつらと4月から机並べて勉強するのかと思うと変な気がするよ」
「そんなの気にする玉じゃないくせに」
「まあ、オレは頭の良し悪しで入るわけじゃねえし、サッカーができれば文句ないんだから、何とかなるとは思うけど……」
思うけど。
その先は続けずに、小次郎はそこまで言って口をつぐんだ。
そして、トンっと一際大きくボールを蹴り上げると器用に胸でワントラップして地面へ落とす。
流れるような一連の動作のほんの一瞬だけ小次郎の顔が曇ったように見えたのは目の錯覚だろうか。
軽く足でボールを押さえ、小次郎はいつもの表情で若島津を振り返った。
「知ってるか? あそこって普通の学生寮とは別にサッカー部専用のクラブハウスまであるんだ。グランドもきちんと整備されてるし照明もついてるから夜でも自由に練習が出来る。小泉さんも言ってたけど、最高の環境ってああいうのを言うんだろうなって思う」
「…ですね」
最高の設備や環境。その中でこの人は更に何処まで進化するのだろう。
きっと一瞬でも目を離したら二度と追いつけない。
あっという間に突き放されて、背中すら見えなくなる。
「キャプテン!」
ふいにどうしようもない不安感と衝撃が身体を駆けめぐるのを感じ、若島津は必要以上に大きな声で小次郎を呼んだ。
「なんだ?」
「じっとしてたら身体が冷えるでしょう。ちょっとつきあってくれませんか」
「ああ」
いつもと同じように壁に背を向けて構える若島津に、小次郎は小さく頷いて再びトンとボールを跳ねさせた。
「暗くてよく見えねえだろうからって手加減はしねえからな」
「当たり前です。手加減なんかしたら御礼に跳び蹴り食らわせてやる」
「言ったな。てめえ」
薄明かりの中、小次郎がにやりと笑った。
とたんに間髪を入れず一発目のシュートが飛んでくる。
「……!!」
とっさに伸ばした指の先をかすめてボールは壁にあたり見事に小次郎の足下に跳ね返っていく。
「まず一点目」
「……なっ!」
言いながら小次郎は跳ね返ってきたボールを胸でワントラップしたかと思うと、それが地面に落ちる寸前に右足で蹴り上げる。
弧を描いたボールは若島津の頭上を越え、僅かにカーブして壁にあたった。
「くそっ!!」
跳ね返ったボールを今度はジャンプしてボレーシュートにもっていく。
相変わらずの見事なバランス感覚と判断力。強靱な足腰。
「このっ!!」
さすがにそろそろ何とかしないと自分自身があまりにも情けない。
地面を蹴って必死でパンチングをし、シュートを防ぐと、若島津はズザァっと勢いよく地面を滑って倒れ込んだ。
そうしているうちに、小次郎は明後日の方向に飛んで行きかけたボールに向かって高く高く飛び上がる。
「なっ!?」
多少崩れてはいるが、オーバーヘッドの要領で宙を飛んだ小次郎の足がボールの真っ芯を捉えた。
「でやぁ!」
「させるかぁ!!」
とっさに飛び起き、腕をめいっぱい広げて若島津はようやくボールを受け止め胸に抱え込んだ。
ザッと土煙が舞いあがる。
一発目に放たれたシュートから今までで全部で4発。時間にしたら1分あったかどうかという程の短い時間だったのに、全身に汗が噴き出してきているのがわかった。
心地いい緊張感とジンとなった指の熱さ。心臓はすでに早鐘を打っている。
この感覚が好きだと思った。
なによりも好きだと思った。
空手をやっている時のピリピリするような緊張感とも微妙に違うこの感覚。
ボールに触れたときの安堵感。充実感。
自分の居場所。
「オレ……」
無意識のうちに掴んだボールをギュッと抱きしめたまま若島津が立ち上がった。
「日向さん。オレ、このままサッカーを好きでいていいと思いますか?」
「え?」
「オレ、この場所に居ていいと思いますか?」
「…………」
しばらくじっと若島津を見つめていた小次郎は、やがて呆れたように小さく肩をすくめてみせた。
「若島津健ともあろう男が、そんなくだらないこと他人に聞いてどうすんだよ。だいたいお前みたいな奴が誰かに何かを無理矢理言われたからって、素直にはいそうですかって好きになったり嫌いになったりするわけねえじゃねえか」
「…………」
「ほら、早くボール貸せよ。それとも、もうお終いか?」
「まさか」
パンパンっと土埃を払い、若島津は小次郎に向かってボールを投げた。
トンっと小次郎の足下でボールが跳ねる。
「行くぞ、若島津」
「ああ。いつでもどうぞ」
しばらくの間、ふたりの間にはボールの行き交う音だけが聞こえていた。
――――――思い立ったら行動はなるべく早いほうが良い。
相談しても反対されることは目にみえていたから、行動を先に起こして事後承諾させる方向で考えた方が成功率は高いのではないか。でも、そうなると、怒りも更に増すのではないだろうか。どちらにしても2〜3発は殴られるだろうから、その覚悟だけはしておこう。
そんな事を考えながら若島津は、本気で東邦学園に入るための準備を始めた。
自分の居場所は自分で確保するべし。
誰に何を言われようと、望む物を手に入れるためなら、どんな努力も惜しまない。
そう若島津は思っていたのだ。
そんなある日。
「どうしたんだ。若島津。その顔」
小次郎が、いつものように明和FCのグランドに現れた若島津を見て驚いた声をあげた。
「その顔って?」
怪訝そうな顔をして若島津は眉をしかめる。とたんにズキンっとこめかみに痛みが走った。
小次郎は探るように若島津をじっと見ている。
それもそのはず。若島津の顔は、今、可哀相なくらい腫れ上がっていたのだ。
「怪我か? それとも誰かに殴られたのか?」
決まり悪そうに若島津は小次郎から顔を背ける。
「お前がそんなにやられるなんて、相手は誰だよ」
「別に誰でもいいでしょう」
「いいわけないだろうが! そんな顔して……」
「別に心配いりません。ちょっと親父とやりあっただけだから……」
「……親父さんと?」
すっと小次郎の顔が引きつった。
「なんで、親父さんと……?」
「何でも何も、オレが東邦へ行きたいって言ったらいきなりバコォって。まったくあの馬鹿力のクソ親父……」
「東邦? どういう事だ若島津」
「オレ、東邦学園を受験することに決めましたから。それで願書取りに行って……」
「ちょ…ちょっと待て。お前、東邦がどういうところかわかってんのか?」
若島津の言葉を慌てて遮りながら小次郎が叫んだ。若島津は不審気な目をそう言った小次郎へと向ける。
「どうって、この間あんたが話してくれたじゃないですか。でかくって、サッカー部専用のクラブハウスがあって…」
「そういうことじゃない! 東邦はな、私立なんだぞ! 全寮制の学校なんだぞ! そこんところわかってるのか!!」
必死な顔で小次郎はそう言った。
若島津は呆然としたまま、小次郎の顔をしばらく見つめ続けていた。