キミの隣 (1)

小次郎が母親と一緒に東京へ向かい、東邦学園中等部へのサッカー特待生手続きをすませた日、明和に初雪が降った。
高校サッカー等と違い、小学生は冬に大きな大会などもなく、練習に追われることもない。
なんとなく暇を持て余しながらも、それでもついつい明和FCサッカーグランドに集まってきた沢木と川越は天を舞う花びらのような雪を見上げ、ほうっと白い息を吐いた。
「見ろよ雪だぜ、雪。初雪」
「どうりで寒いと思った」
一足先にグラウンドに来ていた若島津健もつられて一緒に空を見上げる。
舞い降りる雪はよく見ないと埃か何かに思えるほど小さくて軽そうだ。
それにしてもいつの間に季節はこんなに変わってしまったのだろう。ついこの間まで灼熱の太陽のもと、汗を流しながらグランドに立っていたような気がするのに。
「今頃、日向さんは東邦学園だな」
思い出したようにぽつりと沢木が言った。
「いいよな。スポーツ推薦入学ってやつだろ。学費も一切免除だっていうし、なんたって設備の整った全寮制の私立校。夢のような学園生活」
沢木の隣で川越が大袈裟に両手を広げながらおどけた調子で肩をすくめた。
「でもさ、沢木。お前、そんなお坊っちゃま学校に通う日向さんって想像つかなくないか?」
「それは言えてる」
「だろう」
肩を叩き合いながら2人はなんだかとても楽しそうに顔を見合わせて笑った。
口では色々言いながらも、実はみんな小次郎の東邦学園進学を心から喜んでいるのだ。
昔からの夢であったというプロのサッカー選手になることを目指して、小次郎は確実に一歩一歩前進している。
父親が亡くなった時、一度は諦めかけた夢だ。
家のことを考え、自分だけが好きなことをするわけにはいかないと、そう言っていた小次郎は、今自分の力で再び夢に向かって歩きだした。
ずっと心配していた学費の事も、サッカー特待生という待遇を勝ち取り、気にしなくてよくなった。
小次郎は結局、自分自身の力でもって、まさに虎のように猛々しく己が歩くべき道を切り開いたのだ。
小次郎はきっと、もっともっと強くなる。
そんな小次郎が最初に立っていたスタートラインの場所に、一時期とはいえ、自分達が一緒に立っていられた事は彼等にとって誇り以外の何物でもなかったのだ。
「そういえば、若島津。お前はどうするんだ?」
ふいに沢木にそう訊かれ、若島津はハッとして顔をあげた。
「何? オレ?」
「そう。お前」
芝生の上に座り込んでいる若島津を見下ろす沢木の目が少し責めているように見えるのは気のせいだろうか。
「どうするって……」
「東邦学園の一般入学願書の受付って、確か今月中じゃなかったっけ?」
「…………!?」
若島津は目を丸くしてそう言った沢木を見上げた。
「一般入学……?」
「まさか考えてませんでした。なんて嘘つくなよ」
「……あ…」
考えていなかったわけではない。
むしろ、そのことばかり最近は考えていた。
空手とサッカー。自分が現在どちらに魅力を感じているかは、もう考えるまでもない。
ただ、サッカーを選ぶとしても、小次郎の居るサッカーと、小次郎の居ないサッカーとでは天と地ほども差があるのだ。
このまま小次郎が東邦学園に行ってしまったら、自分はどうするのだろう。
もともと小次郎に誘われて始めたサッカーである。小次郎のいるチームのゴールを護りたくて。敵陣に向かう小次郎の背中を見ていたくて。そこが自分の居場所なのだと心から信じて。
そうやって自分はサッカーをやってきた。
だから、今更、小次郎の居ないサッカーなど考えられない。
小次郎が東邦学園に入学するという事を聞いた時、嬉しい反面、心にぽっかりと穴が開いたような気持ちになった。ほんの僅か、他のみんなより喜んでいない自分がいた。
これは嫉妬でも、羨望でもない。
言ってみれば、恐怖だ。
今まで当然のようにあった日向小次郎という存在が、もしかしたら自分の前から消えるかもしれないという恐怖だ。
そうして、同時に自分のその感覚に愕然とする。
出逢って、まだ一年にも満たないというのに、自分はどうしてこんなふうになってしまったのだろう。
こんな、独りになることに耐えられないと思える程。
日向小次郎という存在がなければ、耐えられないかもしれないと思える程。
「何迷ってんのか知らないけどさ。オレがお前だったら、今頃必死になって親父さんを説得することにだけ時間を割いてるはずだ。んな悠長にしてていいのか?」
「悠長に……って」
「いいか、オレは別にひがんで言ってるわけじゃないから誤解すんなよ」
やはり責めるような口調で沢木は言った。
「お前はオレ達の中じゃ、一番日向さんに近い位置にいるんだ。才能の差かなんか知らないけど、確実に間違いなくお前が一番日向さんに近いんだよ。オレ達が1年も2年もかけて辿り着けなかった位置にお前はたった半年かそこらで辿り着いたんだ。その辺ちゃんと自覚しろ。バーカ」
「……!」
ほんの少し悔しそうに、沢木はくしゃっと顔を歪めた。
確かに彼等は若島津が小次郎に出逢うもっと前から一緒にサッカーをやっていたはずなのだ。
最初はただの新参者だった若島津が、こんな短期間でチームの要となるなど、誰が想像しただろう。
小次郎や吉良監督が認める本物の才能。若島津の力。
その能力はおそらく小次郎のそばにいることで、最高に輝きを増すだろう。
「……やっぱ寒いなあ。」
沢木のとなりで川越がポツリと言った。
「オレ、今日は帰るわ。お前も帰ってやらなきゃならないことやれよ」
「やらなきゃならないこと……」
川越の言葉をそのまま若島津はおうむがえしに繰り返す。
川越はそんな若島津を見下ろして、ニッと微かに笑った。
「オレ、思うんだ。オレもお前もサッカーを好きなことに変わりないんだけどさ。でも居るべき場所はほんの少し違うのかもしれないなって」
「居るべき場所?」
若島津は僅かに首をかしげた。
「オレ、日向さんに憧れて、日向さんの目指すサッカーを信じてきたこと間違ってるとは思ってないけど。でも、オレってディフェンダーだからさ。日向さんに付いていくんじゃなく、日向さんと渡り合いたいって思うんだ。明和東に行ってもっともっとサッカー頑張って、腕を磨いて。そして、いつか日向さんを止めたいと思ってる。ゴール前であの人の動きを止めることが出来たら最高に気持ちいいだろうなあって、そう考えてるわけ。わかる?」
「あ、ああ」
コクコクと若島津は頷いた。
「お前は?」
「……オレ?」
「お前はどうしたい? お前は、日向さんが背中をあずけて安心して戦える場所を作りたいのか? 真正面からあの人自身と戦いたいのか?」
「…………」
「それ、ちゃんと自分で解ってなきゃな」
ふと視線をはずした若島津を見て、川越はそれを了解ととったのか、軽く手を振ってグランドを立ち去った。
沢木も慌てて後を追う。
雪は少しずつ強さを増していっていた。

 

――――――結局、その日はなんとなく誰もグランドに居着かなかったため、若島津も沢木達が帰ったすぐ後に、家へと帰っていった。
多少重い気持ちで家に着き、玄関の扉を開けたとたん、若島津の耳に物の倒れる盛大な音が聞こえてきた。
「……!?」
音の聞こえた場所は玄関から程近い居間のようだ。
あそこには、健の兄である愁、そして父親が空手の大会で入賞したときの楯やトロフィーが置かれている棚がある。以前、若島津は中に飾ってあったトロフィーを落としてしまい、ひどく怒られたこともあった。
何があったのだろうと、慌てて居間にむかって廊下をダッシュした若島津の前に、突然姉の涼子が立ちふさがった。
「今は行っちゃダメよ。健」
「涼子姉? 何で?」
「私達が口をだしたら収まるものも収まらなくなるわ。これは愁の戦いなんだから」
「愁兄? 何、愁兄が……?」
普段滅多に争いごとなどしない兄。
どういうことなのだろうと若島津が首をかしげた時、これ以上ないというくらい不機嫌そうな顔をした父親が、ガラッと居間の扉を開けて出てきた。
思わず後ずさりしてしまう自分が情けない。
父親は帰ってきた息子の顔をちらりとみただけで、何も言わず奥の自分の部屋へと行ってしまった。
ふうっと息を吐いて涼子は手に持っていた救急箱を抱え直し、父親が出ていったあとの居間へと向かう。
若島津も慌てて姉の後を追って居間へと向かった。
居間では右頬を真っ赤に腫らした愁が畳の上にひっくり返っていた。
「愁兄!」
思わず駆け寄ってきた弟を見て、愁が恥ずかしそうに笑う。
「なんとか5発までは避けられたんだけど、最後の一発が強烈でね。こんなに吹っ飛ばされるとは思わなかった。油断したかな?」
「とりあえず冷やしておきましょうね。腫れ上がったら大変だから」
慣れた手付きで濡らしたハンドタオルを愁に手渡し、涼子があきれ顔で言った。
「他は大丈夫?」
「うん。さすが姉さん。オレが殴られるの解ってたみたいだね。処置が早い」
「そりゃ解るわよ」
くすりと笑って涼子は愁の顔を覗き込んだ。
「だって、今日だったんでしょ。入学願書の提出日」
「……!」
愁が驚いて目を丸くするのと同時に若島津は小さく息を呑んだ。
入学願書。
そうだ。
愁は常々、医学系の進学校に進みたいと言っていたのだ。
それはもちろん父親の望みではなかったし、手放しで賛成してもらえることでもなかった。
父親の承諾を得られないまま、それでも兄は決して諦めようとしなかったのだ。そして、今日、愁はかねてからの宣言通り自分が希望する高校への入学願書を自分の意志で提出しに行ったのだ。
「受かるかな? オレ」
ポツリと愁が言うと、涼子はふわりとした微笑みを浮かべた。
「先生方はどう言ってたの?」
「頑張れば合格圏内だって」
「じゃあ、頑張りなさい」
「うん」
コクリと愁は頷く。
「うん。頑張る」
もう一度。
「大丈夫。オレ、強くなるから」
「…………」
「ちゃんと強くなってみせるから」
力強くそう言って、愁はふと弟に目を向けた。
「なあ、健。勇気を持って一歩踏み出すことは、別に我が儘でもなんでもないとオレは思うぞ」
「……えっ?」
「自分の居場所は自分で決めろ」
「…………」
「オレにそのことを教えてくれたのはお前なんだからな、健」
「愁兄……?」
愁は何もかもを見通しているような目で、優しく笑った。

 

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