風の手紙 番外編 −海辺にて−
――――弘希が走る。弘希が笑う。ほんの一時のファンタジータイム――――
「……ったく。今頃海へ行こうなんて言うの、お前くらいだぞ。弘希」
無理矢理、弘希に引っ張られて行ってみた海辺。
もう、夏はとうの昔に終わり、秋の風がそろそろ冬の寒さに変わろうとしている頃。
オレは、ぶつぶつ文句を言いながら砂浜に座り込むと、波打ち際に立つ弘希の背中を見あげた。「ごめん。一度来てみたかったんだ」
長い髪を風になびかせながら弘希が振り向いた。
サラサラサラ…………
細い絹糸のような弘希の髪は、風に何の抵抗もなく揺れる。
髪……いつの間にか、もう弘希の腰のあたりまで伸びてきている。
いつ頃だったっけ? 弘希が髪を伸ばし始めたのは……?「拓巳! 走ろうよ!」
ぼんやりしていたオレを引っ張り起こし、弘希が明るく言った。
「競走しよう! 競走」
そう言っていきなり弘希は走りだした。
つられて一緒に走りだしたオレは、とたんに砂浜に足をとられ、よろけた。
走りにくいはずの砂浜を、弘希はいとも簡単そうに走る。
いつもなら、すぐに追いつくはずなのに、何故か弘希との距離は縮まらなかった。「弘希……! 待てよ!」
弘希の周りで、砂が踊る。まるで軽やかにステップを踏んでるみたいだ。
その時、一際大きな波が、近くの岩にあたって砕けた。「わっぷ……!」
弘希の長い髪に水飛沫が飛んだ。
「気持ちいい! ……拓巳、海ん中、入ろうよ」
「えっ!?…………ちょっ……弘希?」さっさと靴を脱ぎ、海に中に駆け出す弘希を、オレは呆然と見送った。
あいつ……今が何月か解っているんだろうか?
そりゃ、氷が張るほどではないが、充分入水自殺が出来るほど、水温は低いだろうに。そこで、オレの思考は途切れた。
弘希があんまり自然と一緒にいたから。
跳ね回る水の粒子が、光の反射でキラキラ輝きながら、弘希のまわりを包み込む。
なんだか、弘希がオレの手の届かない、遠くへ行ってしまうような気がした。
弘希の眼が光の加減でか、赤く光った。
とても哀しい色だった。
水はやっぱり冷たかった。
一度は入ろうとしたのだが、あまりの冷たさに、オレは音をあげ、また砂の上に舞い戻った。
弘希は相変わらず水の中。
膝のあたりまで水に浸かっている弘希の姿は、まるで海の神ネプチューンの使者のようだった。
水に濡れた弘希の髪が輝き、海と一体化する。
透けるような白い肌。
もともと白い肌の色が、海の碧に染まって、不思議な光を放っていた。
弘希の横顔。少し俯き加減。
風が弘希の髪を揺らめかせ、波をたてる。まるで、一枚の絵のようだった。
弘希と海。
深い深いブルーの絵。
このまま、この瞬間を切り取って保管しておきたいような…………「弘希……」
おもわずオレの口から声がもれる。
弘希が気付いて振り向き、少し笑った。「どうかしたの……?」
「何でもないよ」弘希が眩しく見え、オレは目を細めて弘希を見つめた。
海からあがり、弘希はオレの隣りに座りこんだ。
オレの目の横で、弘希の髪がサラサラと流れる。
弘希の髪。柔らかな髪。「なあ、弘希」
そっとつぶやく。
「髪……なんで伸ばしてる?」
ふと、心に湧いた疑問。
弘希が微かに目を伏せた。
髪が揺れる。
サラサラサラ……「……願かけてるんだ」
ぽつりと弘希がつぶやいた。
うつむいた弘希の横顔が儚げに揺らめく。
透き通った硝子細工のような弘希。
オレが触れたら壊れてしまうんだろうか。「願……ね。何かけてるんだ?」
「拓巳、こういうことは人に話したらダメになるんだよ」
「あ、そうなの?」少し微笑む弘希。
硝子細工に光があたり、赤く輝いた。「……翼が……欲しいな……」
聞こえるか聞こえないかくらいのとても小さな声で、弘希がつぶやいた。
「…………え?」
オレが聞き返しても、弘希はもう何も言わず、立ち上がるとゆっくり歩きだした。
波が寄せては返す。
子守歌のように。
光で銀色に透けて見える弘希の髪。
サラサラサラ……
弘希の髪。風が冷たかった。――――――
FIN.
1987.脱稿 ・ 2000.5.1 改訂