風の手紙(2)

家への挨拶もそこそこに、小池は弘希の家へと走った。
覚えていた弘希の家は、いつも明るい笑い声に包まれていたはずなのに、久しぶりに見るその建物は、とても静かで、なんだか入ってはいけない聖地のような気がした。
「本当によく来てくれたわね」
弘希の両親は、優しく小池を迎えてくれた。
以前より、少し痩せた弘希の母親は、弘希と同じ瞳で笑いかけてくれる。
「いつから、弘希、調子悪かったんですか?」
遠慮がちに訊いた小池の問いに、弘希の母親は、ぽつりと答えた。
「入院したのは、半年前よ。若かったから、病気の進行も早かったみたい。気がついたときはもう、手遅れで……」
「…………」
昔から、それ程丈夫な方ではなかったことは知ってる。
でも、あんなに元気に飛び回っていたのに。
「ごめんなさいね。全然報せなくて」
「……弘希が、報せるなって……そう言ったんでしょう?」
小池がそう言うと、弘希の母親は少し涙ぐんで、頷いた。
きっと、心配をかけたくなかったんだ。そんなことは解ってる。
でもな、弘希。
いきなり、こんな現実を突きつけられる方がよっぽど辛いんだって事、なんで解んなかったんだよ。
仏壇の中で笑っている弘希の写真を見ながら、小池は心の中でつぶやいた。

 

――――――「秀人!」
弘希の家の前で待っていた洋次が、小池の姿を見つけて嬉しそうに駆け寄ってきた。
「来てくれたんだ」
「久しぶり」
「……よかった……」
まだ、成長期にある細い身体で、洋次もこの数日間、必死で耐えてきたんだろう。
「よかった……来てくれて。僕、どうしようかと思ってたんだ。」
「…………?」
「僕じゃ、だめなんだ。僕の力じゃ、弱すぎて拓兄を支えきれない。」

“助けて欲しい”
そう言った拓巳。

「……拓巳……どうしてる?」
「ずっと、独りでいるんだ」
「……ずっと……?」
「うん……誰もそばへ寄せ付けなくて」
「…………」
「秀人。よくみんなで行ってた学校裏の土手、覚えてる?」
「……ああ」
「そこに、居るよ。拓兄は」
「…………」
「行ってあげて」
洋次が言った。

学校裏の土手。
みんなで授業をさぼってよく昼寝をした。
普段は、真面目なはずの弘希も、何故か此処だけはお気に入りだったらしく、率先して行こうと誘ってきた場所。
恐らく、小池と反町が東邦へ行き、拓巳達が中学へあがってからも、変わらずその土手は弘希のお気に入りの場所だったのだろう。
弘希の思い出と共に、拓巳はずっとその場所にいるのだろうか。
小池は、昔何度も通った道を走りながら、自分達がいなかった、この3年と少しの時間を思った。

 

――――――「悪かったな、いきなりあんな手紙だして」
拓巳が言った。
久しぶりに逢った為か、以前より少し大人びた顔の拓巳を見て、小池は自分がそんなにも長い間、此処に戻ってきてなかったという事を改めて感じた。
日に焼けた健康そうな肌。以前は身体中から有り余るほどのエネルギーを発散していたはずの拓巳の身体がやけに小さく見えた。
身長はあの頃よりかなり伸びている。筋肉もついている。
ただ、まるでそんな自分の身体を恥じてでもいるかのように、拓巳は苦しそうだった。

「何してたんだ? こんなとこで」
小池が訊いた。
「さっき、洋次に聞いたけど、ずっと独りでいるんだってな」
「独りじゃないよ」
空を見上げて拓巳が言った。
「…………?」
「解らないか? 秀人」
眩しそうに手をかざして、拓巳は空を見上げている。
ゆらり……と、拓巳の向こうに弘希の幻を見たような気がして、小池はおもわず目をつぶった。
「拓巳…………!」
小池は拓巳の腕を掴んで、無理矢理自分の方を向かせた。
「お前、何言ってるか解ってんのか?」
「…………」
「……拓巳……弘希は……」
「解ってるよ」
拓巳は自分の腕を掴んでいる小池の手をそっと引き剥がし、言った。
「解ってる。別に気が触れたわけじゃない。ちゃんと解ってるんだ」
「…………」
「ただ……」
「……ただ?」
「まだ……弘希が近くにいるような気がする」
「…………」
「オレの目の端に、弘希の髪が揺れてるのが見えるんだ」
細い、絹糸のような、柔らかい癖毛。
弘希が笑う度、弘希と一緒になって揺れていた髪。
「秀人、弘希が髪のばしだした理由、知ってるか?」
「……えっ?」
突然の拓巳の言葉に、戸惑いながら、小池は先程見た仏壇に飾ってあった弘希の写真を思い出した。
そういえば、正面からで、よく解らなかったけど、写真の中の弘希の髪は随分と長かったような気がする。
「……2年くらい前かな。あいつ、急に髪のばしだして、オレが理由訊いても言わないんだ。願かけてるんだって。それだけ。」
「願かけ……?」
「そ。結局あいつが何を望んでたのか、オレには解らなかった。あんなに近くにいて、オレはあいつに何もしてやれなかった」
「…………」
「入院してからも、自分の病気のこと知ってからも、あいつ、全然平気な顔して笑うんだ。大丈夫だよ……って」
「…………」
「欲しいものないか?って訊いても、何もいらないよって。居てくれるだけでいいからって」
いつもそうだった。弘希は、決して自分の方から、痛いとか苦しいとか言わない奴だった。
大丈夫だよ・・・・と、静かに笑ってそう言うのが口癖だった。

「弘希……さ。翼が欲しかったのかな?」
「翼……?」
「何処までも飛んでいける翼。もしかしたらそれが願いだったのかもしれない。いつも、羨ましそうに、お前達の活躍を見てたから」
「……それ、どういう……?」
「一樹はさ、飛べる人間なんだって。弘希に言わせると。……自分は飛べない人間だから、このままずっと地面に縛りつけられたままなんだな……って」
「…………」
「そういって、オレに謝るんだ。ごめんねって。オレに謝る必要なんか何処にもないのに、何度も何度もオレにごめんねって、謝って……」
「…………拓巳……?」
「そう言って、あいつ、一度だけ泣いた。後にも先にも、オレ、弘希があんな哀しそうな顔したの初めて見た。……弘希……さ。オレの前では、いつも笑ってたんだ。秀人も見たろ。仏壇の弘希の写真」
「ああ」
「あれ、入院する直前の奴なんだけど。良い顔して笑ってるだろ。……でもさ、あいつ、もしかして無理して笑ってたのかな?本当はずっと泣きたかったんじゃないだろうか。本当はずっと我慢してたんじゃないんだろうか。だとしたら、オレ、全然気付いてやれなくてバカみたいじゃないか」
「拓巳……」

 

「何言ってんだ。オレ、あんな良い顔した弘希、初めて見たぞ」
「…………!?」
突然の背後からの声に、小池と拓巳は驚いて振り返った。
「……か、一樹!?」
「よっ! 冷たいよな、2人共。オレだけ仲間はずれって、ちょっと非道いんじゃない?」
「お、お前……試合は?」
小池が険しい顔で反町に詰め寄った。
「ああ、キャプテンに言って、ベンチはずしてもらった」
「!?」
あんぐりと口を開けた小池の後ろから、拓巳が信じられないといった顔でつぶやいた。
「……何、バカなことやってんだよ、一樹」
「バカなこと言ってんのは、お前だろ、拓巳」
拓巳の言葉に、すかさず反町が切り返した。
「独りじゃ耐えられない時は、ちゃんとみんなを呼べよ。大勢いればそれだけ哀しみだって和らぐんだから。洋次も困ってたぞ。そばに居てやりたいのに、お前が拒むから、どうしてあげればいいのか解らないって」
「…………」
「小池。お前もお前だ。手紙もらったんなら、オレに話せよ。何も言わないで行っちまうなんて卑怯だぞ」
「……だって……それは……」
口ごもる小池を見て、反町が苦笑した。
「ごめんな。オレ、最近、試合のことではしゃぎすぎてたから……だから、言えなかったんだろ。解ってるんだけどさ」
「…………」
小池はバツの悪そうな顔をして俯いた。
言おうと思ってはいたのに、結局言えなかったのは、確かに、ひがんでいたからだ。
1人で先に行ってしまいそうな反町の事を、応援したい反面、悔しくて仕方なかった。
弘希が言ったように、反町は目に見えない翼を持っているんだと、心の何処かで思っていたのだ。きっと。
だから、後ろなんか振り向かなくてもいいと。前だけを見ていればいいのだと。

「大事な試合なんだろ。なんで来たんだよ。もう、いつ来たって弘希は戻ってなんか来ない。お前にとって大切なのは、取り戻せない過去じゃなく、目の前に広がってるチャンスなんじゃないのか?」
「だってオレ、今こっちに来なかったら、一生後悔すると思ったんだ」
拓巳の言葉に対し、きっぱりと反町が言い切った。
「オレ、サッカー好きだし、今回の試合はオレにとってすごいチャンスだったし、大事なものだった。でも、オレ、今はお前の事の方が大事だよ。……弘希は戻ってこないけど、お前を助けられるのは今しかないじゃないか」
「…………一樹」
「オレ、今はお前と一緒に居たいと思う。……あいつ、いつか独りで歩いて行かなきゃいけないって言った。でも、オレ、そのいつかが来るまでは、2人でも3人でも……オレ、大勢と歩いて行きたい……オレ、ガキだから……さ」
大事な試合を棒に振った後悔など欠片もない顔で、反町は笑った。

「変わってないな。お前」
拓巳があきれた顔で言った。
「だから、弘希もお前の事が好きだったんだ」
「……へ? ……弘希が?」
反町がきょとんとした顔をして拓巳を見た。
「あいつ、お前がでてた試合、欠かさず見てたんだぜ。去年の全国大会ン時なんて、本当、必死でテレビにかじりついてた。楽しそうに、嬉しそうに……お前がシュート決める度、自分の事のように喜んでた。……オレはそんな弘希を見る度、お前の持ってる翼で、弘希を連れて飛んでくれればな…って。オレに出来ないことがお前には出来るんだろうな……って。そう思って……」
「あのな、拓巳。勘違いすんなよ。弘希が好きだったのはお前だよ」
「…………?」
反町が自信ありげに言い放った。

「さっきさ、弘希ン家、寄ってきたんだけど、あの弘希の写真、拓巳が撮ったんだってな」
「えっ? そうなのか?」
小池が驚いて拓巳を振り返った。
写真の中の弘希の笑顔。
「オレさ……あんなふうに笑ってる弘希、初めて見たような気がして、おもわず『弘希ってこんな顔してましたっけ?』って言っちゃったんだよ。そしたら、おばさん、大量のアルバムをオレに見せてくれた」

『……中学にあがってから、拓巳君が写真に興味を持ちだしてね。うちの弘希を被写体に、たくさん写真を撮ってくれたの。おかげでこんなにたくさんの、この子の笑顔が私の手元に残ったわ。……本当に感謝してるの。拓巳君には。こんな素晴らしい宝物を私達に残してくれたんだから……』

そう言って広げられたアルバムの中で、弘希は幸せそうに笑っていた。
本当に幸せそうに笑っていたのだ。

「オレ、こんなふうな笑顔の弘希、見たことなかった。でも、それと同時に、その笑顔をオレはよく知ってるような気がしたんだ」
「…………」
「アルバム見てて、解ったよ。あの顔、オレの知ってる奴に似てる。・・・・顔形がっていうんじゃないぞ。そんなのは似ても似つかないんだけど、表情の種類が同じなんだ。・・・・本気で好きな奴のそばに居る時の顔。他の奴には決して向けられない、本当の顔」
「……反町……?」
「オレ、好きな奴いるよ。でもそいつはオレの前では、あんな顔はしない。あいつは、あいつが心から信頼するただひとりの男の前でだけ、本当の顔を見せるんだ。……悔しいけど、敵わない。ホント敵わないなぁって思ってる。あいつのその顔、写真の弘希とそっくりだったよ」
「…………」
「幸せだったんだよ、お前と居れて。……弘希は、たとえどんな一生だったとしても、お前と過ごした時間は、弘希にとって本当に幸せな時間だったんだと思うぞ、オレ」

幸せ……だったんだろうか。
少しでも幸せを感じてくれていたんだろうか……弘希は……
あの笑顔は、無理をした笑顔ではなかったと……信じていいんだろうか……

「弘希の願い事、オレ、何か解った」
小池が言った。
「欲しかったのは、自分の為の翼じゃない。お前の為の翼だよ。拓巳」
「…………」

弘希の言った“ごめんね”の意味。
あれは、自分の所為で飛ぼうとしない拓巳への謝罪の言葉。
望んだものは翼。
自分がいなくなった後、拓巳が飛べるように。
誰よりも高く、飛べるように。
きっと。

「そういう奴だよ、弘希って」

 

――――――その日の夜中、一面の星明かりの下に、4人の少年が集まった。
拓巳と反町。小池。そして洋次。
家からくすねてきた酒瓶を片手に、久しぶりの再会と、弘希への追悼の意味を込めて、紙コップで乾杯する。
「なんか、様にならねえよな、紙コップで乾杯なんて」
「仕方ないだろ。酒くすねてくるだけで精一杯で、あれ以上台所でガサガサしてたら、親父に見つかっちまう。」
拓巳が、父親のお気に入りのナポレオンを片手に言った。
「オレ、ナポレオンなんか飲むの初めて」
「オレも」
コポコポと紙コップに注がれる琥珀色の液体をのぞき込みながら、反町と小池が顔を見合わせて笑った。
さすがに中学生にナポレオンはまずいだろうと、ひとりオレンジジュースを手にした洋次が、匂いだけでもご相伴にあずかろうと、身を乗り出してくる。
「……弘希って、酒の味も知らずに逝っちまったのかな」
「今頃、悔しがってるぞ。」
目尻を少し赤くした拓巳がそう言って笑った。
あれ程、耐えられないと思っていた弘希の死を、少しだけ楽に話せる自分がいる。
一緒に哀しんでくれる友達がいる。
それだけでこんなにも楽になれるのだ
弘希が逝ってしまって、やっと拓巳は笑うことが出来るようになっていた。

 

――――――「そう言えば、反町君」
赤い顔をして、小池が反町の肩にのしかかってきた。
「さっき言ってた、好きな奴って……もしかして、あいつだろ」
「…………!?」
「オレ、ピンときたんだけどさ……わか……しま……」
「わ―――!!★▼∫∽@※£!!」
慌てて小池の口を塞ごうとした反町を、逆に拓巳が後ろから羽交い締めにした。
「何? 何? 一樹の好きな奴って…? 誰? 若…?」
反町の身体からサーっと酒が抜けていく。
「そっ! わかしまづ……だよな♪」
「……こ…こっ……こっ…」
「何、ニワトリになってんだよ。一樹」
ケラケラと拓巳が笑った。
「で、どんな奴なんだ?若島津って。可愛い子か?」
「うーん。可愛いっていうより、美人系かな。背もすらっと高いし」
「ほー、長身美人か」
「そうっ。反町より、10cmは高いよな」
「お前、それはあんまりじゃないか。どう考えても釣り合わないぞ」
「いい加減にしろ――――――!!!!!!」

もしかして、こいつにとんでもない弱味を握られたんじゃないだろうか・・・と、青ざめながら、反町は大声で2人の会話を遮った。

 

――――――初めて飲んだナポレオンの味は、美味しいというにはほど遠い代物だったけど、少しだけ背伸びをした彼らは、それでも充分満足そうだった。
「それでは、80年後の未来に、再び此処で弘希と再会することを約束して、もう一度乾杯しようぜ」
いきなり立ち上がって、そう叫んだ反町を見て、拓巳が呆れたように笑った。
「80年って。お前ね……」
「そん時まで、弘希、待っててくれるかな」
下手なウインクをして、反町が更に言う。
「……弘希が……?」
ふと、星空を見上げて拓巳も立ち上がった。
「…………」
「弘希!! 待ってろよ! 80年後、逢いに行くからな!!」
拓巳の声に答えるように、流れ星がひとつ、彼らの頭上をかすめて消えていった。

FIN. 

1987.脱稿 ・ 2000.5.7 大改訂

 

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