透明な鏡−第2章:砕けた硝子−(1)

「伸、今日は9時からのチャンネル権いただくぜ」
秀がそう宣言したのは、征士が咲耶と会った3日後のことだった。
「別にいいけど、何見るの?」
「いやぁ、この間一緒に映画観たろ。何か1本観たら他のも観たくなっちまってレンタルしてきたんだ」
「って、何? カンフー映画?」
「当たり前だろ」
借りてきたビデオのパッケージを見せて秀がにっと笑った。
パッケージのタイトルは『燃えよドラゴン』。かの有名なブルースリーの傑作だ。
「あれ? この間観たのってジャッキーチェンだったよね。確か…プロジェクトAだっけ? てっきりパート2でも借りて来たのかと思った」
「うん。最初はそのつもりだったんだけど、征士がジャッキーよりブルースリーのほうが観たいっていうから」
「へえ、征士も観るんだ」
意外そうに言って伸が笑った。
ここ数日、咲耶の事があって色々と元気のなかった征士が、娯楽映画とは。
恐らく秀が気を遣って征士をレンタル屋へ引っ張って行ったのだろうが、これは征士にとっても良い気分転換になるだろう。
「じゃあ、洗い物片づけたら、珈琲入れてくるよ。ミルクたっぷりがいいかな?」
「おう! わかってるじゃん」
ぐいっと親指を突きだして秀がニッと笑った。
ようやくいつもの日常が戻ってきたような気がした。
ただひとつ残っているわだかまりを別にして。
「征士は? ミルク抜き?」
「ああ。砂糖は1杯で頼む」
「了解」
「おい、伸。オレの分は聞いてくれないのか?」
征士の隣から当麻が身を乗り出して伸をちょっと睨んだ。
「…あ…ああ、ごめん。何?ブラック?」
「おうっ」
「わかった。じゃ、征士達のと一緒に持ってくるから待ってて」
ほとんど当麻と目を合わせないまま、伸はそう言って居間を出ていった。
当麻がほんの少し、考え込むように口を尖らせ、隣の征士に耳打ちする。
「なあ、何か伸の様子、変じゃねえ?」
「そうか?」
「ああ、あからさまじゃないけどさ。なんっか避けられてる気がする」
「また何かやったのではないだろうな」
「何もやってないよ。だから何でお前はいつもオレを悪者にするんだ」
「それは私に訊くより自分の胸に手を当ててみたほうがわかるのではないか?」
征士の言葉に心底嫌そうな顔をして、当麻は深々とソファに埋もれると手にしていた本を開いた。
2…3行読んだところで再び顔をあげ、当麻はふと居間の扉を振り返る。
「…………」
何がどうってわけじゃない。
いつからだろう。
そう、数日前から。
伸は当麻を避けている。
「…………」
今後こそ本当に理由がわからなくて、当麻は小さく首をかしげた。

 

――――――廊下を歩きながら、伸はついため息をついている自分に気付き、苦笑した。
まったく、何をやっているのだろう。
避けて通っているだけでは何も解決しないのはわかっている。
わかっていると言うのに。
「………!」
キッチンへ戻るとちょうど洗い物を終えた遼が笑顔で伸を振り返った。
「伸!洗い物終わったぜ。明日の朝の予定はパンだっけ?飯炊くんだっけ?」
「……………」
「…伸?」
「…あ、ああ、明日はパンが残ってるからご飯炊く必要はないよ。卵あったよね。それでスクランブルエッグか何か作るつもり」
「了解」
にこりと笑う遼の表情に心がズキンと痛む。
キッチンで振り向いた遼に、ほんの一瞬烈火の面影が重なった。
いや、違う。正確には遼の後ろに、遼を見守る烈火の姿を見たのだ。
烈火。
伸の心に、遙かな昔の烈火の言葉が蘇る。
烈火との約束。
あの人の最期の言葉。
他の誰も。それこそ天城の言葉さえも聞こえないほど、自分の中の全てを占めていた約束。
『この子を護ってくれるな。水凪。』
「………………」
『水凪……』
「伸? どうした?」
キッチンの入り口に立ったままぼうっとしている伸を見て、遼が僅かに首をかしげた。
「なんか元気ないぞ。具合でも悪いのか?」
「ううん。そんなことないよ」
無理矢理笑顔を作って伸はそう答えた。
「そうだ。秀と征士が今からビデオで映画観るって言ってたけど、遼は観るの?」
「ああ、ブルースリーだろ。オレ、前に一回観た奴なんだ。後でちょっと覗こうとは思ってたけど」
「そうなんだ」
「そうそう、征士と言えばさ、例の咲耶さん今度婚約するんだってな」
布巾で手を拭きながら遼が言った。
「今まで迷ってたんだけど、征士に逢って決心がついたって言ってたって聞いた。ちょっと意外だったな」
「……えっ?」
ほんの一瞬、自分の顔が強ばるのが伸にわかった。
「意外…かな」
「うん。まあ、これはオレの感想だけどさ」
「遼」
伸は遼のそばへ近づいて、ほんの少しためらうように口を開いた。
「過去の記憶にばかり捕らわれる必要は僕等にもあの咲耶さんにもないんだよ」
「……………」
遼がゆっくりと顔をあげ、伸に向き直った。
「過去は過去として存在するだけなんだから、それは僕等にとって必ずしも決定打にはなり得ない。遼が気にすることはない。咲耶さんは、きっと征士に逢って、自分の中に知らずに残っていたわだかまりを昇華出来たんだ。だから…」
「でも、お前は過去の記憶を昇華して消したいなんて思ってないだろ」
「………!」
「辛い記憶も、嫌な思い出も、全部含めてそれはお前達の財産になってる。記憶バンクの当麻を見てたらそれがよくわかる」
「…遼……」
「オレ、別に嫌味で言ってるわけじゃないんだぜ。逆に羨ましいって思ってるくらいだよ。だってさ……」
そう言って、遼はちょっと言葉を途切らせた。
「…………」
「だってさ……当麻って、秀が言ってたように、本当に物心ついた頃からお前のこと想ってたんだよな。オレが何も知らないで山梨で暮らしてた時も、当麻はお前のこと考えてたんだ。すごいよな。ホント。すごいって思う」
「………!」
駄目だ。
伸の心が悲鳴をあげた。
このままでは駄目だ。
このままの状態を続けたら、いつか遼から笑顔が消えていく。
自分達の記憶が、自分達の行動が、遼をどんどん孤独にしていく。
当麻の記憶の多さを感じるたびに遼の心が深い闇へ落ちていく。
遼の孤独は遼にしかわからない。
手をさしのべることも出来ない。
それは解ってる。
でも、せめて。
ほんの少しでも遼が楽になるために。
自分は。
『この子を護ってくれるな。水凪』
烈火。
『この子を護ってくれるな。水凪』
繰り返し、烈火の言葉が伸の心に響き渡る。
「遼…僕は…」
「………………」
「僕は……」
その先の言葉を続けることが出来ず、伸はそのまま俯き、じっと床を見つめた。

 

――――――「お、伸、サンキューな」
先程の約束通り、珈琲を3つ手にして居間に現れた伸を振り返り、秀が満足気に笑った。
「ナイスタイミング。今から観るんだけど、お前も観るか?」
「あ…うん。そうだね」
秀に珈琲を渡しながら気のない返事を返し、伸はソファに座っている征士にも持っていたマグカップを差しだした。
「はい、征士」
「ああ、すまないな、伸」
「いや」
言いながらくるりと居間を見渡して伸が探るように秀のそばへ寄った。
「あの…」
「当麻なら書斎だぞ」
伸の手に残っている珈琲を見て秀が言った。
「あ…書斎? また? さっきまで此処に居たのに」
伸が困ったというように僅かに眉を寄せた。
「さっきまで居たんだけどさ。やっぱ映画始まっちまうと集中出来ないから、書斎で本の続き読むって言ってたぜ」
「あ…そうか」
言いながら伸は手の中の珈琲を見つめた。
当麻の青いマグカップから並々と注がれたブラック珈琲の良い匂いがふわりとあがってくる。
「何? 持ってってやりゃいいじゃん。どうかしたのか?」
「あ、ううん。そうだよね。じゃ、ちょっと行ってくる。映画は先に観てていいから」
「おうっ」
ブンっとテレビのリモコンの音がして、画面が明るくなった。
「じゃ、征士、観ようぜ」
「ああ」
秀がポンッと投げてよこしたビデオテープを受け取り、征士がテレビの下のデッキにテープを入れる。
すぐに流れだすイントロの音楽を聞きながら、伸は浮かない顔で書斎へと向かった。

 

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