透明な鏡−第1章:遠い記憶−(8)

「お兄さまの婚約者を捜してるって訊いたんだけど」
運ばれてきた珈琲を飲みながら咲耶が征士に尋ねた。
「そんなに私に似た方だったのかしら」
「ええ」
真っ直ぐに咲耶を見つめ返して征士は頷いた。
「私は何度も兄に彼女の事を聞かされました。私の記憶の中には彼女の姿が今でも鮮明に焼き付いています。彼女は、兄が愛した最初で最後の女性です」
「最後のって…?」
「兄は先日亡くなりました」
「………!!」
あまりのことに、咲耶は思わず口元をおさえた。
「……な…亡くなった?」
「はい」
「そんな……ごめんなさい。そこまでは訊いていなかったものだから。……ああ、だから本人じゃなくて弟さんが逢いにいらしたのね。私もそこのところ察するべきだったわ」
すっと伏せられた睫毛に僅かに涙が滲んでいるのが見えた。それだけで、この女性がとても優しい人だということが解る。そんな咲耶の姿を、征士の紫水晶の瞳がじっと愛おしそうに見つめていた。
「あの…じゃあ、あなたはお兄さまの事を知らせたくて、その婚約者の方を捜しているのかしら」
「いえ…そういうわけではないのですが……」
「……では……」
「私はきっと貴女に逢いたくて此処に来たんです」
「私に? でも…私は……」
あなたのお兄さまの婚約者とは別人なのだ。そう言いかけて、咲耶は口をつぐんだ。
征士の視線があまりにも真剣に自分を見つめていたからだ。
「私は…貴女に逢いたかった。兄が愛した女性を一目でいいから見てみたかった。この目で。兄の目を通して見る貴女ではなく、私自身の目で見てみたかった」
「………………」
「私は一度もあの方には逢っていない。あの方は兄の世界の人で、私には決して手の届かない存在だった。彼女はとてもとても綺麗な方でした。兄の目を通して見ている分、よけいに綺麗に見えたのかも知れませんが、私が初めてあの方を見た時、この世にこれ程綺麗な女性がいるのだろうかと驚いたことを覚えています」
「………………」
「今、同じ事を私は貴女を目の前にして思うことが出来ました。私はそれだけで充分です」
「………………」
咲耶はじっと黙ったまま征士を見つめていた。
澄んだ瞳。引き締まった形のいい唇。透き通るような白い肌。
やがて、咲耶がそっと口を開いた。
「何だか不思議ね。私、貴方に初めて会ったような気がしないわ。何故かしら。ずっと昔から知っているような気がする。こういうの既視感っていうのかしらね」
そういってふわりと笑った咲耶の笑顔は、懐かしい、光のこぼれ落ちるような笑顔だった。
咲耶。懐かしい姫。
彼女は確かに夜光が愛した女性だ。
不思議なほどの確信を持って、征士はじっと咲耶を見つめた。
「ひとつだけ、貴女に答えて頂きたいことがあるのですが、訊いていただけますか?」
改まった口調で、征士が再び口を開いた。
咲耶は何も言わず、視線だけで、征士に続きを促す。
ほんの一瞬、眩しそうに目を細めて、征士はゆっくりと深呼吸するように深く息を吐いた。
「もしも…」
「……………」
「……もしも、生まれ変わって再び兄と巡り逢えたら、今度こそ、兄と添い遂げてくれますか?」
「………!」
征士の隣に座る当麻の表情がすっと強ばった。
かなり突拍子もない言葉だったはずなのに、咲耶は驚いた顔ひとつせず、そう言った征士を静かに見つめていた。
「兄はずっとずっと貴女を捜していました。本当に気の遠くなるほど長い時間を」
「……………」
「大切な人に、もう一度、巡り逢うために」
しばらくじっと征士を見つめていた咲耶は、やがて小さく微笑みを浮かべ、ゆっくり頷いた。
「いつか……そうね。遙かなる時の彼方。いつか再びお逢いできることを信じています」
「……………」
「必ずお逢いしましょう。そうお兄さまにお伝え下さい」
すーっと征士の瞳から涙がこぼれ落ちた。それは、夜光の流したものだったのか、征士が流したものだったのか、それは当麻にも解らなかった。

 

――――――ざわりと木の葉が鳴る。
咲耶と別れて家への帰路につきながら、当麻はそっと隣を歩く征士の様子を窺った。
「征士…あの…」
「私は、いつもお前が羨ましかった」
ぽつりと征士が言った。
「私の記憶はお前達のそれとは根本的に異なる。あの方の思い出も、禅の事も、すべて私にとってはただの記録映画を見ているようなものでしかなかった。私は夜光の想いを知っていたが、それはただ知っていたというだけに過ぎない。あの方への想いは決して私自身の想いではない。私は、兄の記憶をそのまま植え込んだクローン人間のようなものなのだ」
「征士…!」
「同じ知識と同じ記憶と、瓜二つの身体。私はまさに夜光のクローンだった」
「…………」
「覚えているのに。禅の笑顔も、暖かな腕も、炎の中に消えていった愛しい姫の顔も、何もかもはっきりと覚えているのに、その記憶は本当の自分のものではない。私の身体はただの器に過ぎなくて」
「………!」
小さく息を呑んで当麻はじっと征士の紫水晶の瞳を見つめた。
「不思議な感覚だ。まったく同じ記憶のはずなのに」
「…………」
「同じである分、どうしてこんなに遠いのだろう」
「…………」
「どうして、こんなにまで手が届かないのだろう」
「…………」
「私は、偽物のイミテーションだ。いつ仮面がはがれるか怯えて過ごしている」
「征士……」
「私は……きっと…私は秀に知られるのが恐いのだ」
「征士…!!」
「だから、私は秀に本当の事を話せないのだ」
思わず征士の前に回り込み、当麻はガシッと征士の肩を掴んで揺さぶった。
「征士…違う」
「……………」
「それは…違う。そんなことは決してない。今回のことはオレの失態だ。本当に悪かったと思ってる。オレは、お前に何度詫びても足らないほど酷い仕打ちをしたと思っている。だけど…」
「……………」
「今更こんな事を言っても陳腐な言い訳に聞こえるだろうが、オレは夜光と同じようにお前自身の事も大事だと思っている。もし、またオレ達が転生することになったら、オレは間違いなくお前を捜す。もう一度巡り会うためにお前を捜す。未来永劫、オレはお前の事を忘れない」
「……当麻……」
「お前は確かに存在している。お前自身として。夜光の記憶も紅の記憶も持った一個の人間として。ちゃんと存在している。決して偽物なんかじゃない」
「……………」
「偽物なんかじゃない」
悲痛に顔を歪めながら、当麻はそう繰り返して征士の顔を覗き込んだ。
「秀だって同じだ。秀はちゃんとお前を見ている」
「……秀…?」
僅かに征士の表情が硬くなった。
「秀は、幻を見るような男じゃない。あいつは、幻なんか通り越してちゃんと真実を見抜く目を持ってる。あいつが、本当に禅と同じ目をしてお前を見ているのなら、それは秀がお前の中に存在する紅を見つけたからだ」
「……………」
征士はうつむいて当麻から視線をそらせた。
「お前は紅に同調している。お前の中に紅がいるんだ。秀はちゃんとそれを知ってる」
「……………」
「あいつは勘のいい男だ。自分が見ている相手が誰かなんて事は解ってる。あいつは、お前の中の紅をちゃんと見ている。オレはそう思う」
「……………」
「あいつは、そういう男だ」
「……………」
ようやく視線をあげた征士の表情が次の瞬間凍り付いたように固くなった。
「征士…?」
不審気に眉を寄せ、征士の視線の先を窺うように振り返った当麻も小さく息を呑む。
「…………!!」
いつも自分達が乗るバス停のベンチに一人の少年が座ってぼんやりと空を眺めていたのだ。
秀だった。
「……秀……?」
2人の気配に気付いて秀が当麻達を振り返った。
「よう、2人とも。今帰りか?用事はすんだのか?」
「…あ…ああ」
偶然居合わせたのか、それともわざと時間を合わせて待っていたのか、秀の表情からは窺えない。
どうにか取り繕った笑顔を向け、当麻は秀の元へ走り寄った。
「用事はさっきすんだ。お前こそ、こんな時間まで何やってたんだよ」
「ちょっとな。で、どうだったよ、征士。ビックリするほど美人だったろう?」
ニッと笑って秀はベンチから立ち上がった。
征士は何とも言えない表情でゆっくりと秀のほうへ向き直った。
「確かに、美人だったな。だが、彼女は私の相手ではない」
「………?」
「私は夜光ではないのだから」
「征士!」
当麻が慌てて征士を振り返った。
秀は口をへの字に曲げて征士を見返し、何を言ってるんだと言うように眉間に皺を寄せた。
「やはり、自分自身の記憶とは違う。彼女はあくまでも夜光の想い人だったようだ。私には手の届かない女性だ」
「何今更当たり前のこと言ってるんだよ」
当然の事のように秀はそう言い放った。
「秀…?」
「あのな、征士。いくら鎧珠を受け継いでいるからっていっても、オレ達はずっと生き続けているわけじゃない。生まれ変わってんだぜ。そこんところ解ってるか?」
「……………」
「たとえ鎧の記憶があっても同じ宿命を背負っていても、生まれ変わってる限り、絶対同じ人間にはなり得ない。でなきゃ生まれ変わる意味なんてないだろう」
「……………」
ふっと笑顔を見せて秀は言葉を綴った。
「想いは続いてる。でもそれを今生で遂げられるかどうかは、その瞬間の生にかかってる。オレ達は、過去の繰り返しをするためだけに転生してるんじゃない。オレ達は未来へ向けて転生してるんだぜ。それを忘れてどうするよ」
「未来へ向けて……?」
「そうさ。言ったろう、オレにとって大事なのは過去じゃなくて未来だって。お前だってそうだろう。オレ達は、過去に囚われて前に進めないような奴になっちゃいけないんだよ。過去に傷ついた命を昇華して、新たな命になるためにオレ達は変化していくんだ。そうやって変化していくからこそ、オレ達は人間なんだよ」
「……秀……」
「手が届かないんじゃない。今のお前には手を伸ばす必要がなかっただけだろ」
「…………」
「遼も、伸も、当麻も、みんな少しずつ前と違う想いを持ちはじめてる。お前だけ足踏みしてるなんておかしいぞ」
目を見張って征士はじっと秀を見つめた。
「にしてもお前ってホント、根本は変わってないな。紅そっくりだよ」
「………!!」
「勝手に思いこんで、自分を不幸にしていく癖、ちゃんと治せよ。すぐ落ち込むところも、人の手を借りようとしないところも、褒め言葉を素直に受け取らないところも、ホント、紅の時とそっくり同じ。ちっとは変われ」
「……………」
「もう、我慢しなくていいから」
秀が微かに笑って、征士の瞳を覗き込んだ。
「……秀……」
「ゆっくり、少しずつでいいから倖せになろうぜ、征士」
禅そっくりの笑顔で秀はそう言った。
「ちゃんと、手貸してやるから。一緒に倖せになっていこうぜ」
「……………」
「次の世も、その次の世も」
「……………」
「なっ」
もう一度、秀はそう言って笑った。
そして、その時ようやく到着したバスに乗り込み、3人は仲間の待つ家へと向かった。

第1章:FIN.      

2001.7 脱稿 … 2003.3.29 改訂    

 

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