透明な鏡−第1章:遠い記憶−(7)

「なあ、本当にいいのか? 征士」
緊張の為か、さすがに表情の硬い様子の征士を気遣って当麻がそっと聞いてきた。
駅のそばの小さな喫茶店。
咲耶が指定してきた待ち合わせ場所に着いた2人は、硝子越しに中の様子を窺い、彼女がまだ来ていない事に多少の安堵感を覚えながら店の扉を開けた。
店内はまばらに客がいる程度の静かな所で、有線か何かなのか海外のアーティストの曲が小さく流れている。
全体的にクラッシックな雰囲気のする落ち着いた店内には、長いカウンター席と、4人がけのテーブルと椅子がゆったりと間隔を取って並べられていた。
「一応、指定されたのは店の一番奥のテーブルって事だから」
「ああ」
「じゃ」
言いながら店を出ていこうとした当麻を慌てて征士が引き留めた。
「ちょ…ちょっと待て。帰る気か?当麻」
「いけないか?」
「いけないも何も、私は彼女の顔も知らないのだぞ」
「大丈夫。見れば思い出すよ」
「…………!!」
不意に当麻の腕をつかんだ手に力がこもった。
見ると、征士は何故か少し青ざめた顔で、じっと唇を噛んでいる。
「征士?」
「彼女が…咲耶殿が覚えているであろう人物は私ではない」
「………………」
一瞬、当麻の顔が強ばった。
「あ…いや、あのな、征士。確かにそうかも知れんが、お前にだってわかるだろう」
「………………」
「それともコウは一度もあの姫さんの顔、お前に見せなかったっていうんじゃないよな」
「いや…」
低く征士がつぶやいた。
「何度も見た。初めて逢った時の幼い顔も、炎の中で息をひきとった瞬間も、何度も何度も繰り返し見た」
「………………」
「今でもあの光景は私の目の奥に焼き付いている」
「………………」
征士はうつむいて、何だか少し苦しそうな表情をしていた。
しばらくじっと征士を見ていた当麻は、おもむろに征士の腕を掴み返し、店の奥へ向かって歩きだした。
おかげで、今度は引っ張られる形になって征士が当麻の後に続く。
店の一番奥の4人がけのテーブルまで来ると、当麻はすっと征士の手を引きはがし椅子に座るように促した。
「ほら」
「……………」
「大丈夫。いなくなったりしねえよ。此処にいるから」
当たり前のように征士の隣に腰を降ろして当麻がふっと笑った。
征士はまだ少し不安気な表情でそんな当麻をじっと見つめ返す。征士の表情の意味を計りかねて、当麻が探るように征士の顔を覗き込んだ。
「なあ、何で急に逢う気になったんだ?どういう心境の変化なんだ?」
「どういうも何も、お前が逢わせたかったんだろう」
「そりゃそうなんだが。実はいろんな事がわからなくて、かなり戸惑ってるんだ。オレ」
「……………?」
「お前があそこまで拒否反応を示した意味も解らなかったし、秀に吐いた暴言の意味も解らない」
「暴言…?」
「お前だけはついてこなくていいと言ったろう。何で、あそこまで名指しなんだよ」
「……………」
膝の上で征士はギュッと拳を握りしめた。
「まあ、秀はあの通りの男だから特に気にはしてないだろうが、あの言い方にはオレも引っかかった。それなのに急に逢うと言いだした。理由は何だ?それがわからない」
「……………」
「逢いたがらなかった理由も解らないんだから、逢いたくなった理由もわかるはずないといえばそうなんだが……」
「理由というほどの事は何もない。ただ…」
「……ただ?」
「私は確かめたかったのだ。鏡の向こうの世界は、手を伸ばしたら届くものなのか、それとも永遠に届かないものなのか」
「……えっ?」
やはり意味が解らず、当麻はすっと眉を寄せた。
その時、ようやく店の入り口に待ち人の姿が現れた。
「………あっ」
相変わらずの見事な黒髪をそのまま腰まで垂らし、ロングスカートをはいた細身の女性。決して派手ではないはずなのに、自然と皆が振り返って見てしまうだろうほどの純和風美人。
「こんにちは」
当麻が声をかけると、咲耶はすぐに気付いて、軽く会釈を返してきた。そして、当麻の隣にいる征士に目を移し微笑みを向けると、慣れた様子で向かいの椅子に腰を降ろした。
「すぐわかりました?」
「ああ、大丈夫。趣味の良い店だよな、此処。貴女らしいって思ったから、すぐに解った」
「まあ」
くすくすと笑う咲耶からは大人の女性の香りがした。
姫がみまかった年から考えると5歳ほど年上だろうか。あの姫がそのまま年齢を重ねたら、間違いなくこうなるだろうと思われるほど、やはり咲耶は姫に生き写しだった。
そう思ったとたん、ザワリと征士を取り囲む空気が揺れた。
ハッとして、当麻が征士を窺う。
凍り付いた彫像のようにじっと動かないまま咲耶を見つめる征士の表情に一瞬懐かしい彼の人の面影が走った。
思わず当麻が目を見張る。
「……………」
征士の瞳を通して夜光が居るのが解った。
そして、その時初めて当麻は気付いたのだ。どうして自分が咲耶と征士を逢わせたかったのか。
その本当の理由を。

 

――――――「今頃、逢ってるんだよな。あの2人」
夕食の買い出しにつき合って、伸と共に商店街のスーパーへ向かいながら遼が言った。
「どんな話してるんだろう。つもりつもった昔話なのかな」
「それはないよ。少なくとも咲耶さんは僕達みたいに記憶を持ってるわけじゃないし。鎧珠の宿命に組み込まれているわけでもない」
「そっか…そうだよな。あの人は別に鎧珠を持ってるわけじゃないんだよな」
なんとなく感慨深そうに遼は息を吐いて空を見上げた。
「でも、そう考えるともっとすごいなって思う」
「……すごい…?」
「だってさ。あの人は、そんな普通の人だったはずなのに、こうやって同じ時代に転生を遂げてるんだぜ。偶然なんかじゃない。これは、間違いなくあの2人が望んだから実現した奇蹟なんだ」
「遼……」
「長い、長い年月をかけた想いが、こういった形で奇蹟を起こすんだ。凄いよ」
「……………」
すっと足を止め、遼は伸を振り返った。
「…オレも…」
「……えっ?」
「オレも、もっと早く伸に逢いたかったな」
刺すような真剣な眼差しで遼は伸を見つめていた。
「もっと早く逢いたかった……生まれる前に…さ……」
「……………」
「そうしたら…当麻より先にお前に出逢えてたら、オレ、お前の笑顔独り占めに出来たのかな…?」
伸は小さく息を呑んで遼を見つめ返した。僅かに身体が震えてくるのが解る。
「…遼…」
「嘘。冗談だから、そんな哀しそうな顔すんなよ、伸」
ふっと目を細めて遼は笑った。
違う。
伸は心の中で叫ぶ。
本当に泣きそうなのは、自分じゃない。遼のほうだ。
過去から続く絆。
烈火の記憶を持たない遼。
自分達がふともらす言葉を、いつも遼はどんな思いで聞いていたのだろう。
自分は今まで、どうしてこんなにまで考えなしに行動できていたのだろう。
あの人が護った命。真っ白な命。
それを護り続けることが自分にとって一番大切な事だと思っていたのに。
何処でずれてしまったのだろう。
この子の笑顔を見ることが自分の幸いへの一番の近道だと、そう信じていたはずなのに。
心の奥がズキズキと痛む。
呼吸が出来なくなるほど、ズキズキと痛む。
「遼…」
「…何…?」
「…ごめん…」
「……………」
「ごめんね」
謝る伸を遼はじっと見つめ、少し困ったように微笑んだ。
「何、謝ってんだよ。変だぜ、伸」
「うん」
「お前、何かオレに謝らなきゃいけないことしたのか?」
「……………」
何も答えられず、伸はすまなさそうにうつむいた。
遼はやはり困ったようにため息をついて、すっと伸のそばに歩み寄る。
「ちゃんと楽に笑っててくれよ、伸。でないと、オレ、どうしていいか解らなくなる」
「……遼………」
「…伸…あの…さ…」
「……………」
「…オレ………」
言いかけた言葉を途中で飲み込み、遼は照れたようにすっと伸に背を向けた。
胸の鼓動が早くなる。
そばにいるこの人への想いの所為で、身体中がじんと熱くなるのを遼は肌身で感じていた。

 

――――――「悪い」
いきなりガタンと音をたてて当麻が椅子から立ち上がった。
「当麻?」
征士が不審気な目を向けると、その目から逃れるように当麻はすっと顔を背ける。
「あ……あの……」
どうしていいか解らないというように髪をくしゃくしゃと掻き回し、当麻はテーブルから離れ歩きだした。
「お…おい!当麻!」
慌てて征士も立ち上がり、当麻の後を追おうと一歩踏み出すと、どうしたのかと目を丸くしている咲耶を振り返ってすっと頭を下げた。
「すいません。すぐ戻ってきますので」
「え…ええ」
「おい、当麻、待て!」
スタスタと歩いていく当麻を追って、征士は店の出口に向かって走り出した。
「当麻!」
ガランっと今まさに扉を開けようとしたところで、ようやく追いついて、征士は当麻の腕を掴み、店の扉を押さえた。
「どうしたのだ、当麻」
当麻は酷く苦しげな表情をして、征士を一瞬見ると、またすっと視線をそらす。
本当に何をどう言っていいか解らないと言ったふうに当麻は唇を噛みしめた。
「当麻…?」
「征士…オレは…」
ようやく当麻が小さく口を開いた。
「すまない、征士。オレはお前に酷く残酷なことをした」
「……………」
「オレ……自分が此処まで残酷な奴だとは思わなかった」
「……………」
「すまない、征士。………オレは、お前を利用しようとしたんだ」
「……………」
「オレは…お前を使って…」
「お前が夜光に逢いたがっていたことくらい最初から知っていた」
「………!!」
当麻が弾かれたように顔をあげ、征士を見た。
「お前だけじゃない。お前達は常に、もう逢えない人を想って胸を痛めている。それくらい、私は最初から知っていたんだ。お前が気にすることはない」
「オレだけじゃないって…それ……」
「…………」
烈火に逢いたいと言った伸。夜光の姿を追っている当麻。そして。
そして。
ふっと征士が自虐的な笑みを浮かべた。
「秀は…」
「……………」
「秀は時々、禅と同じ目をして私を見る」
「………!!」
驚きに当麻が更に目を丸くした。
「…秀…が…?」
征士の笑みはひどく寂しそうに見える。
「…そういう…ことか……」
ぽつりと当麻がつぶやいた。
「そっか…そういうこと…ですか…」
「当麻。戻るぞ」
意外な程はっきりとそう言って、征士は当麻を店の中へと押し入れた。
「征士」
「私は彼女にまだ訊きたいことがあるんだ」
「……………」
「その為に、私は今日、此処へ来たのだから」
一瞬振り返って征士を見ると、当麻は小さく頷いて、店の中へと戻っていった。

 

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