透明な鏡−第1章:遠い記憶−(6)

「…………」
ベッドの上に身を起こし、伸は大きくため息をついた。
カーテン越しにのぞく朝日が眩しくて思わず顔をしかめながら隣のベッドを見ると、秀はまだすやすやと気持ちよさそうな寝息をたてており、一向に起き出す気配はない。
自分の身体が酷く疲れているのを感じ、伸はのろのろと緩慢なしぐさでベッドから出て、着替えの服を手に取った。
気分が重い。
先程、起きる寸前に見ていた夢が伸の心をよぎる。
夢に出てきた人物は決して何も語りはしなかったが、彼が出てきたということだけで、伸にとってそれは充分意味をもつ夢である。
「解ってる…ごめんなさい」
誰にともなく伸はそうつぶやいた。
解っている。これは警告なのだ。
自分自身の行いへの戒めの警告。
気づかない内に、自分はどうしてこれほど傲慢になっていたのだろう。
考えてもどうにもならない。何とかする気があるなら、もっと気をつけなければいけないのだ。
自分自身の行動も、自分の想いの方向も。自分が本当は何を望んでいるのかも。
目先の幸せと、ずっと前からの願い。叶えなければならない約束。決意。
「本当、どうかしてたよ。僕は」
小さくつぶやき、ぶんっと軽く頭を振って伸はようやく立ちあがった。
時計を見ると、いつもより20分程遅れている。
今日の朝食は味噌汁とご飯。塩鮭を焼く予定だったのに、作る時間はあるだろうかなどと考えながら身支度を整えてキッチンへ行くと、一足先に起きていた征士がちょうど味噌汁の鍋に水を入れている最中だった。
「あれ?征士、おはよう」
「ああ、おはよう、伸。米は先程炊けたようだったから今から味噌汁を作ろうかと思っていたのだが」
「ごめんごめん。大丈夫。僕がやるからかして」
征士から鍋を受け取り火に掛けると、伸は棚の中からだしの素を取りだし、さっと鍋の中に振り入れた。
「今日はちょっと起きるの遅くなっちゃったから手抜きでごめんね」
「いや、そんなことは構わないが…」
言いながら征士がさっと伸の前に回り込み、顔を覗き込んできた。
「な…何?」
間近に近づいてきた征士の端正な顔にちょっとドキリとしながら伸はあわててさっと征士から目をそらした。
「ど…どうかした? 征士」
「いや…少し気になったもので」
「……?」
「伸、目が赤いのは寝不足の所為か?それとも具合が悪いのか?」
「……!!」
慌てて伸は自分の目をこすった。一目見て気づかれるほど、自分は酷い顔をしていたのだろうか。
「あ、うん。大丈夫。具合が悪いわけじゃないよ。強いて言うなら、ちょっと夢見がね…」
「嫌な夢でも見たのか?」
「ううん、そうじゃない。ちょっと…」
「伸?」
無理矢理作ったような笑顔を浮かべる伸に、征士はおもわず眉をひそめた。
「伸…いったい何の夢を見たんだ」
「大丈夫。ごめん。本当に大丈夫だから」
「……伸……」
「……わかってるんだ。どうしてあの人が突然現れたかくらい。僕は、ちゃんとわかってるんだけど。それでも、やっぱりね……」
「あの人?」
「今日ね…」
ほんの少し言いにくそうに伸は顔をくしゃりとゆがめた。
「今日、烈火の夢を見たんだ」
「……!!」
「あの人が夢に出てきたのなんて随分久しぶりだから、色々考えちゃって……」
「伸……」
探るような視線を征士は伸へ向けた。
「伸……お前は…」
「何?」
「今でもまだ、烈火に逢いたいと思っているのか?」
もう、2度と逢えないであろう烈火に。
そのことを解っていながら、それでも逢いたいと思っているのだろうか。
伸は、まっすぐに征士を見つめ、微かに笑った。なんだかとても寂しい笑顔に見えた。
「みんなには内緒ね」
「………」
唇に指を立て、少しおどけた様子で伸は征士を見上げたが、やはりその顔は寂しそうにしか見えない。
「…伸…?」
「誰にも言わないでね」
「………」
「いつも…いつも逢いたいと思ってるよ」
「……!!」
伸の答えは決して予想外ではなかったはずなのに、征士は一瞬言葉をなくして伸を見つめ返した。
「伸…それは…つまり…」
「おっはよー!!」
その時、二人の間の空気をかき消すような勢いで秀がキッチンに掛け込んできた。
「やべえ、寝過ごした!!伸、朝飯は?」
「今作ってる。とりあえず先に顔洗ってきなよ」
「了解」
「そうだ、あとの二人は?」
「遼はすぐおりてくると思うぜ。当麻は知らねえ。起こしてきたほうがいいんじゃねえか?あいつのことだし。お前が起こしに行きゃ、すぐ起きるだろ」
「あ……そ…そうだね」
秀の言葉に頷きながら、伸は何だか戸惑ったような視線を征士に向けた。
「あ…征士。当麻、起こしてきてくれると嬉しいんだけど」
「………?」
「あ…あの…お願いしていいかな?」
「ああ、わかった。行ってこよう」
当麻の名前を言う伸の態度が少しだけぎこちなく強張っている。
気にしなければどうってことはない微妙な違い。
しかも、いつもなら秀に言われるまでもなく、伸は自ら進んで当麻を起こしに行くだろうに。
それでも征士は多くを訊こうとせず、そのまま二階へと上がっていった。

 

――――――「あ、征士おはよう」
「おはよう、遼」
ちょうど階段を降りてきた遼とすれ違いざまに朝の挨拶を交わし、そのまま二階へ上がろうとした征士は、ふと立ち止まって遼を振り返った。
「遼…」
「何?」
「…元気か?」
階段の下から征士を見上げ、遼がにこりと笑った。
「うん…元気。大丈夫だよ。昨夜はごめんな。愚痴につきあわせちまって」
「いや…そんなことは…」
言いかけて征士はハッとした。
遼。烈火の珠を受け継ぎながら決して烈火ではあり得ない遼。
先程、伸が逢いたいと言ったのは、この少年ではないのだという事が、今更ながらに心に響いた。
逢いたい人。烈火。
どちらかというと、まだ正人に逢うほうが、伸にとっては烈火に逢うに近しい意味を持つのだろう。
「征士……?」
急に黙ってしまった征士を不審そうに見上げ、遼が首をかしげた。
「あ…いや、今日は皆起きてくるのが遅いようなので……そろそろ朝食が出来上がるだろうから、遼も急いだほうが良いと思うぞ。私も当麻を起こしたらすぐに行くと、伸に伝えてくれ」
「わかった。じゃ」
トントンと階段を降りていく遼の背中を見送って、征士は再びゆっくりと階段を上がっていった。
「………………」
伸は、烈火に逢いたがっている。
遼とは違う烈火に。
だから、内緒なのだ。誰にも言わないで欲しいと言ったのだ。
それは、せめてもの伸の心遣い。
烈火を求める心を気付かせたくないこの少年への、伸なりの心遣いなのだ。
では、秀は。
『一番逢いたい奴には逢えたから。』
秀の言う、一番逢いたい奴。
「………!!」
突然、背筋が寒くなった。
どうしようもないほど膝が震えてくるのが解る。
これは、何に対する恐怖なのだろうか。
「征士、どうした?」
ちょうど部屋から出てきた当麻が、廊下に立ちすくんでいる征士を見て眉をひそめた。
「どうとは…?」
「何かお前、今にも泣きそうな顔してるじゃないか」
「そ…そんなことはない。何を言っているのだ」
慌てて否定をして、征士は当麻から目をそらせた。
「私はお前を起こしに来たんだ。起きたのなら、早く顔を洗ってキッチンへ行け」
「…………?」
征士は我知らず唇を噛みしめていた。
何を考えているのだ。
駄目だ。
これ以上、このままの状態が続いたら自分がもたなくなる。
たとえどんな結果になろうが、このままの状態を続けるよりはましなはずだ。
「当麻」
意を決したように征士が顔をあげた。
当麻はまだ廊下に立ち止まったまま、じっと征士を見つめている。
「なるべく早い時期に、咲耶殿と連絡を取って欲しい」
「…………えっ?」
当麻が酷く驚いた顔をして目を見開いた。
「征士……?」
「私も、彼女に逢いたくなった」
「…あ…」
待ち望んでいた言葉のはずなのに、当麻は戸惑った表情で、じっと征士を探るように見つめた。
「どうしたんだ急に。お前、嫌がっていたんじゃないのか」
「……………」
「征士…?」
「私が逢いたいといっているのだ。何を気にしている」
「いや、気にっていうか…」
言いながら、当麻はじっと穴の空くほど征士の顔を凝視した。
「…………」
やはり、征士は泣きそうな顔をしているように当麻には見えて仕方なかった。

 

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