透明な鏡−第1章:遠い記憶−(5)

キッチンでの後かたづけを終え、二階へ上がっていった征士はそのまま自室の前を通り過ぎ、ベランダへと出ていった。
先程キッチンから見た月が更に大きさを増して宇宙に輝いている。
眩しそうに月を見上げ、征士は深くため息をついた。
心の中に蘇るのは、遥か昔の映像。
幼かった夜光が母と別れ、必死で落ち延びた深い山の中で出逢った不思議な少女。
人間とは思えないほどの美しさ。
さらりと流れる黒髪を見た時、森の精かとさえ思った。
飲ませてくれた水は、夜光にとって命の水となった。
遥か昔の、遠い、遠い記憶。
こんなに鮮明に思い出せるのに。
手を伸ばせば届くかと思うほど、近くに感じるのに。
どうして、この光景はこんなに遠いのだろう。
どうして、届かないのだろう。
ベランダの手すりに背中を預けて、征士はそのまま地面へと座りこんだ。

 

――――――夜中、1時をまわった頃、階下のトイレへと行った帰り、遼は居間にいる人の気配にふと足を止めた。
征士はとうに自室に戻っていたはずだし、秀も観ていた映画が終わったとたん二階へ上がって行ってしまったのを覚えている。だとしたら、そこにいるのはやはり。
「………………」
何となく気になってそっと居間を覗いてみると案の定、ソファのそばに座っている当麻が見えた。
当麻はソファの肘掛けに手をつき、床に座り込んでずっと本を読んでいるようだった。
何故ソファに座らず直接床になど座り込んでいるのだろう。
一歩、居間へ入りかけて遼はハッとなって立ち止まった。ソファには伸が眠っていたのだ。
秀と一緒に映画を観た後、深夜番組で見たいのがあるから、もう少し起きてるねと伸が言っていたのを、そういえば聞いた気がする。では、テレビを見ながらうたた寝でもしてしまったのだろうか。
すでにテレビが消されている事から、恐らく当麻が気付いて切ったのだろう。
では、当麻はそれからずっとああやって伸のそばに居たのだろうか。
そっと当麻が伸の髪に触れたが伸は一向に目覚める気配もなくずっと無防備に眠り続けている。
何となくもやもやした気分になって遼はついに居間に足を踏み入れた。
とたんに当麻が顔をあげて入り口を振り返り、何か用かと言ったふうな視線を遼へ向けた。すると、それに連動するように、先程まで眠っていた伸が目を開け、ソファの上に身体を起こす。
「あれ? 遼、どうしたの」
眠そうに目をこすりながら伸が小さく欠伸をした。
「どうしたのじゃないぜ。伸こそ、テレビ見るって言ってたくせに何そんな所で寝てんだよ」
「え…あ、そっか。いつの間に寝てたんだろう」
くるりと首を巡らし、居間の時計を見て伸が残念そうに舌打ちをした。
「ああ、時間過ぎちゃった。せっかく頑張って起きてたのに」
「そんなに見たかったんならビデオ予約しておけばよかったじゃないか」
横から当麻が口を出すと、伸は不満気に口を尖らせた。
「この時間に見るからいいんじゃないか。ビデオなんて邪道だよ。…って言うか、君、此処に居たんなら何で起こしてくれなかったんだよ」
「いや、お前の寝顔があまりにも可愛かったんで起こすのが忍びなくて……」
バコっと派手な音をたてて伸が当麻の頭を小突いた。
「……っ痛ってえなあもう」
殴られた頭をさすりながら当麻が愚痴をこぼす。
「何すんだよ、伸」
「君があんまりくだらない事言うからだよ」
「何言ってんだ。オレは正直な感想を述べただけだぞ。嫌ならあんな可愛い顔でうたた寝なんかするなよ」
「あのねー」
呆れて大げさにため息をつく伸を、当麻が面白そうに見つめている。
ズキリと胸が痛む。
なんでもない会話なはずなのに。いつもと変わらない会話なはずなのに。
どうして胸が痛むのだろう。
「じゃあ、オレ、もう寝るから」
軽く手を振って遼がそう言うと、慌ててソファから身を乗り出して伸が挨拶を返してきた。
「あ、うん。おやすみ、遼」
「おやすみ。伸。当麻」
「ああ、おやすみ」
もう一度2人へ笑顔を向け、遼は居間を出ると、ゆっくり二階へと上がっていった。
「……………」
トントンと軽かった足取りが段々と重くなっていく。
別に気にすることでもないはずなのに。
僅かに頬を染めて怒っている伸と、そんな伸を愛おしそうに見つめる当麻の姿が頭から離れない。
階段をあがりきった廊下の途中で、遼はとうとう立ち止まった。
振り返ると、居間からもれている明かりが目に入ってくる。
まだ、しばらくあの2人はああやって起きているのだろうか。いや、伸の事だから、明日も早いんだからと、当麻を叱りつけながら今にも二階へあがって来るかも知れない。
「……………」
居間でうたた寝をしていた伸。
遼が居間を覗いた時には、ソファの背もたれから見え隠れしている栗色の髪しか見えなかったが、伸は完全に安心しきって眠っているように見えた。
以前、伸はとても眠りが浅いほうなのだと言っていた。
小さな物音でもすぐ目を覚ますほうで、隣で誰か起き出すとすぐ気付いてしまうのだと。
確かに思い返してみても遼はあまり伸の寝顔を見た覚えはなかった。
さっきだって遼が入ってきたとたん、伸は目を覚ました。
なのに、当麻の前でだけ伸はその無防備な寝顔を惜しげもなくさらけだす。まるで、当麻だけが伸の寝顔を見る権利を与えられているかのように。
「…………!!」
何を考えているのだ。自分は。
おもわず遼は片手で自分の口を押さえた。
「……………」
言いようのない感情が沸き上がってくるのがわかる。
どうして、自分はこれほどに当麻に敵わないのだろう。どうして。
「遼?どうかしたのか。こんな時間に」
遼の気配を察してか、征士がうすく部屋の扉をあけて顔をのぞかせた。
「征士…」
「…………?」
「あ…何でもな…」
言いかけた遼の目からポロリと涙がこぼれ落ちる。
「遼!?」
驚いて征士が部屋から飛び出してきて遼のもとへ駆け寄った。
「遼?」
「何でもないよ。ごめん。何でもないから」
ごしごしとこぼれ落ちた涙を拭き、遼が顔をあげた。
「じゃ、おやすみ、征士」
そう言って背を向けた遼を慌てて征士が呼び止める。
「遼、眠くないなら、少し話でもしていかないか?私も今、目が冴えてしまって困っていたところなんだ」
「征士?」
「もちろんお前さえよければ、だが」
そう言って、征士は自室の扉を開け、中へ入るようにと遼を促した。
遼はしばらく考えた後、コクリと頷いて征士のあとに続いて部屋へと入っていった。

 

――――――征士のベッドに並んで腰を降ろし、遼は小さくため息をついて天井を見上げた。
以前にもこんなふうに征士と並んで当麻のいないベッドを見つめていた事があった。
あれは、伸が背中の傷の為、ずっと伏せっていた時。当麻の伸への想いをまざまざと見せつけられて、敵わないと感じたあの時。
「征士、オレ、いつも思うんだけど、当麻って本当すごいな」
「…………」
「記憶があるって事は、すごい事だと思う。そして、それをずっと忘れないって事は、本当に生半可な事じゃ出来ないだろうなあって」
「遼…」
「なあ、征士も昔のこと、どれくらい覚えてるんだ?」
「……えっ?」
一瞬、征士の顔がギクリと強ばった。
「どれくらい…とは…?」
「ほら、当麻は夜光の姫様の事、その女の人、咲耶さんだっけに会った時すぐわかったんだろ。征士もその姫様の事どれくらい覚えてるのかなあって思って」
「………………」
征士がすっと遼から目をそらした。
「オレ、想像出来なくてさ。オレには昔の記憶なんて全然ないし。みんながああやって話してる時、特に思う。オレは違うんだなあって。たくさんの思い出に支えられて今のお前等は存在してるんだなあって、そう思ったら、なんか…」
言いながら再び遼の目頭が赤くなってくる。
「さっき当麻と伸を見てたら、ひしひしと感じた。あの2人にはオレには入っていけない空間があるんだって。それは、あいつ等がもうずっと長い長い年月を過ごして育んできたものだから、オレはそれを壊しちゃいけないんだって」
「……遼……」
「過去、好きだった相手は、ずっとずっと好きなのかな?そんなに忘れられないものなのかな?そりゃオレだって誰もがそうだとは思ってないけど、でも、少なくとも当麻も征士も、もしかしたら秀だって、そんなふうに昔の気持ちっていうのをずっとずっと持ち続けているんだろう。長い時間をかけて蓄積された想いは、生半可な事じゃ壊れない。後から割り込もうと思っても、そんなことは不可能で……」
「……………」
「当麻の中にも伸の中にも大切な過去がある。伸の過去をわかってやれるのは当麻で、当麻の過去をわかってやれるのは伸なんだ。だから、伸は当麻の前でだけ、楽に休むことが出来るんだ」
どう答えていいかわからず、征士は話し続ける遼の横顔をじっと見つめていた。
「…それは、オレがどうやっても届かないもので。どうやっても理解できないもので。それを感じる度に胸が痛くなる。自分がどれだけ薄っぺらな人間かわかって、胸が痛くなる」
「……………」
「敵わないんだ。どうやったって。そして、自分自身に嫌気がさしてくる。自分の薄っぺらさが身に染みて、嫌になる。本当…オレって薄っぺらだよな。何もない。本当に何もない」
「遼…薄っぺらなのは、私も同じだ」
「……えっ?」
「遼だけではない。私だって同じなんだ」
「……………」
「きっと私達は鏡の向こう側の世界に憧れているんだ。同じようで、決して同じではない、もうひとつの世界に。手を伸ばしても届かないのは、遼だけじゃない。今更、遼が過ぎ去った日の事で思い悩む必要はない」
一瞬不思議そうな目で征士を見上げた後、遼はにこりと微笑んだ。
「ありがと、征士。なんかよくわからないけど」
「……………」
「ごめんな、変な愚痴こぼしちまって。この痛みはただのオレの我が儘だって、ちゃんとわかってるから」
「遼……」
「でも良かった。征士に話したらなんかスッキリした」
「遼……」
「伸には言うなよ。今の話」
伸の名前をだす時だけ、一瞬、遼の笑顔に無理が生じる。
「遼……伸が好きなのか?」
ふいにそんな言葉が征士の口から飛び出した。
遼は一瞬の沈黙の後、驚くほどはっきりと頷いた。
「ああ。好きだ」
「……………」
「……………」
「……遼…それは、恋なのか?」
「……………」
「お前の伸への感情は恋なのか?」
「……………」
柔らかな栗色の髪に優しい緑の瞳をした伸。
大切な、大切な、愛しい人。
遼は何も答えず、ただふっと笑みを浮かべた。

 

――――――バタンっと逃げるように自分の部屋に飛び込んで、伸はそのままずるずると床に座り込んだ。
薄く開いたままの扉からもれてきた征士と遼の会話。
聞くつもりなどなかったのに、足が動かなかった。
「どうしよう……」
小さな声でつぶやいて伸は頭を抱えた。
「どうしよう……」
胸の鼓動がやけに早くなって苦しかった。

 

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