透明な鏡−第1章:遠い記憶−(4)

「逢ってきた!? 例の女の人と?」
「そう」
伸の問いかけに頷きながら、秀は夕食の天ぷらをひとつ口の中に放り込んだ。
「よくもまあ、ずうずうしいというか好奇心旺盛というか」
「人間、気になることがあったらちゃんと消化しなきゃ食欲不振になって困るだろ」
「食欲不振の部分だけは君の場合あり得ないと思うけどね」
秀の目の前の器に天ぷら汁をつぎ足してやりながら伸は呆れた口調で肩をすくめた。
「だいたい先方に失礼だろう。迷惑がってなかった?」
「いんや、全然。結構興味深そうにオレ達の話聞いてくれたぜ。なあ、当麻」
「ああ」
「話?」
事情をよく知らない遼と伸が何の事かと小首をかしげた。
「なんだよ話って。だいたい当麻が声をかけた相手に秀が会いに行くって事自体どうかしてるよ。ただのお邪魔虫じゃないの」
「うん。オレもちょっとそう思う」
呆れて言った伸の言葉に遼も遠慮がちに頷いた。
「あのな、遼。別にお邪魔虫じゃねえぜ、オレ。だってあの人、別に当麻に関わりがある人じゃないんだし」
「………?」
ますます言っていることの意味が解らず、伸が眉間に皺をよせた。
「なんだなんだ、当麻って本当にお前に何にも話してなかったんだな」
「何もって…」
「小さな誤解が大きな諍いを生むって事、いい加減学習しろ。それにちゃんと話さなきゃ伸だけじゃなくて征士にも失礼だろうが」
「………えっ?」
一瞬、箸を運ぶ征士の手が止まった。
「征士が…何?」
「征士も逢ったのか?その人と」
伸と遼が同時に口をそろえて言いながら、意外そうに征士を見た。
「そうじゃない。あの人、夜光の姫さんだよ」
当麻の言葉に伸が持っていた箸を取り落とした。
「え…?」
「まあ、直接じっくり顔見たことあるのは、オレくらいだからみんなはあまり覚えていないだろうが、夜光が見初めた相手にそっくりだったんだ。あの人」
「…………」
食べかけの箸を置いて、征士がじっと当麻を見つめた。
「あ…そ…そうだったんだ」
「ああ」
「だから…昨日…」
「そ、ナンパじゃないってこれでわかったろ」
ニッと笑いかける当麻に冷たい視線を投げて、伸は落とした箸を拾い上げ、ちらりと征士を見た。
「…でも、だったら何で征士じゃなく秀が会いに行くの?それにその人って本当に夜光の相手の生まれ変わりなわけ?確証はあるの?まさかいきなり前世云々のことを持ち出して、確認したわけじゃないよね」
まだ、多少疑わしそうな視線を向ける伸に対し、当麻は開き直ったように胸を反らせて言葉を続けた。
「まさか、そんなこと言ったら、まっさきに精神疑われて病院送りになっちまう。案外常識人に見えたしさ、あの姫さん」
「………」
姫さんという呼び方に僅かに征士が反応する。
遥か昔。遠い遠い遙かな昔。
ふいに目の前に現れたあどけない顔。水を飲ませてくれた小さな手。光のこぼれ落ちるような笑顔。
まるで紗幕がかかったような現実感のない遠い記憶。鏡の向こうの世界。
無意識に前髪を掻き上げた征士の細い指の隙間から紫水晶の瞳が覗いた。
「詳しいことには触れないでさ、オレの親友の兄貴の婚約者がそっくりなんだって話をしたんだ」
「婚約者?よくもそんなデタラメを」
「半分はデタラメじゃないさ。コウとあの姫さんは結ばれたっておかしくない間柄だったんだから」
「………………」
「他人の空似にしてはあまりにも似すぎてるんで思わず声をかけちまったんだっていったら、すんなり信じてくれて、そう言うことなんだって笑ってくれたよ」
「…なるほどね」
ようやく納得したように伸が小さく息を吐いた。
「全部を作り話にすると嘘ってのはバレやすいけど、半分本当の事を交えて話をすると大抵の人は信じてくれる。姫さんもその例外じゃなかった。ちゃんと真剣に話を聞いてくれて、自分に出来ることがあったら協力したいってさ」
「協力?」
また、わからない方向へ話が向いたので、遼が口を尖らせて当麻を見た。
「当麻、ちゃんと順を追って説明してくれよ。協力って何なんだよ」
「ああ、悪い悪い」
素直に謝りながら、当麻は遼に向き直って説明を始めた。
「声をかけたきっかけの話はさっき言った通りなんだが、その親友、つまり征士の兄貴の婚約者の人は今何処に居るかわからないんだって言ったんだ」
「それって婚約を破棄したってこと?」
「まあ、言ってみればそうなるかな。オレ達はまだガキだったから詳しい事情は知らないんだけど、突然いなくなってしまったその婚約者の人が何処かで元気に生きているのなら逢いたいって、そう話したんだ。そしたら、顔が似てるってことは親戚の誰かである可能性もあるから従姉妹とかに連絡とって確かめてみてくれるってさ」
「……へえ」
当麻の話を身を乗り出すようにして聞いていた遼が感心したように大きく息を吐いた。
「本当に、わかるんだ。そういうの」
「そういうの…?」
「うん。だって、初めて会った時、ピンときたんだろ、当麻は。その姫様…だっけに関わりがある人だって。もしかしたら本人の生まれ変わりじゃないかってところまで」
遼の言い方が、ほんの少し寂しそうに見え、伸は気遣うような視線を遼へ向けた。
「いいなあ、オレも逢ってみたいなあ。征士も逢いに行くんだろ」
疑いもせずそう訊いてきた遼に征士は戸惑ったように僅かに首を振った。
「いや…私は…」
「なんだなんだ、逢いに行かねえ気か?こんなこと滅多とないチャンスだと思うぜ」
秀が呆れた口調でそう言った。
「突然、恋しい姫様が目の前に現れて怖気づくのもわかるけどさ。あ、なんだったらオレ、一緒についてってやろうか?」
「断る!」
意外なほどきつい口調でそう言った征士に、秀が驚いて目を丸くした。
「………?」
「お前がついてくる必要などない!もし逢うとしてもお前だけは、ついてこなくて良い!」
「お…おい…」
「あ……」
自分の失言に気づき、征士が慌てて椅子から立ちあがった。
「す…すまない、秀。別に悪気はなかったのだ。大声をだしたことは謝る」
「……別に謝ってなんかほしくねえよ。何か気に障ったんだろ。もう、いいよ」
「いや、よくはない。私は何もお前の好意を否定しているわけではないのだから…」
「だから、もういいって。別にオレもお邪魔虫になるつもりはねえから」
「そうじゃないんだ、秀」
「じゃあ、なんだよ」
「……………」
秀がじろりと征士を睨みつけた。
征士は秀の視線に絶えられず、再びすっと顔をそむける。
気まずい空気を打破しようと、伸はわざと明るく声をはずませた。
「さあ、おしゃべりばかりしてないで食べてよ。せっかくの料理が冷めちゃうの勿体無いし」
「そ、そうだよな」
伸の思惑に気づき、遼もことさら明るくそう答え、テーブル中央の皿に盛りつけてある天ぷらに箸をのばした。
「美味しいな。これ」
皿の中央に山盛りになっている掻き揚げをひとつつまみ上げ、遼が笑った。
「そう?良かった」
「あ、遼、お前さっきから、かきあげばっか食ってるじゃねえか。他のも食えよ」
「そういう秀こそナスばっか自分の皿にキープするなよ。意地汚いなあ」
「なんだと」
「そこの二人。子供みたいな喧嘩ばかりしないの」
なんとかいつもの賑やかさを取り戻した夕食の風景にほっと安堵の吐息をもらし、征士はゆっくりと伸の作った食事を口へと運んだ。
遼とふざけあいながら秀がもう一度ちらりと征士を見ると、征士はやはり少し浮かない表情のままうつむき加減で食事を続けている。
「……………」
淡い黄金色の髪から覗く薄紫の瞳。
スミレの花のような紅の瞳を思いだし、秀はふっと視線をそらした。
何故か胸がズキリと痛んだ。

 

――――――「秀、さっきはすまなかった」
「気にしてないって。別に」
そう言って秀は征士の隣でいそいそと布巾片手に夕食で使った皿を拭く作業に没頭していた。
いつも交代制でやる夕食の後片付け。本日の担当は偶然にもこの二人である。
何となくいつもより静かな秀の様子が気にかかり、そっと窺うように視線を向けた征士を見て、突然、秀が珍しく真剣な口調で口を開いた。
「…なあ、征士。ホントに逢わねえ気か?例の姫様に」
「…………!」
真っ直ぐ自分を見つめる秀の目に僅かに怯みつつ、征士は小さく首を振った。
「……わからない。…お前はどうすればいいと思う?」
「…………」
何とも言えない顔をして秀が大げさにため息をついた。
「他人に意見訊くなんて珍しいな。本当はどうしなきゃいけないかくらい解ってんだろう」
洗い終えた皿をふきんで拭きながら秀が言う。
「どっちにしても、このまま放っておけるような性分持ち合わせていないくせして迷った振りすんなよ。らしくないぜ」
「……………」
「それとも、そんなに逢いたくないのか?」
「逢いたい……のだろうか、私は」
本当に解らないといった表情で征士がつぶやいた。
「……征士…?」
「よく…わからないんだ。私は、あの人に逢いたいのだろうか」
秀がじっと食い入るように征士の横顔を見つめた。
「いや…きっと逢いたいと思うのが普通なのだろうな。それは解る。解っているんだ」
「……………」
「秀…お前も…か? お前も、逢いたい者がいるのか?」
つぶやくようにそう言った征士を見て、秀がふっと笑った。
「別に。オレはいいよ。もう、逢えたから」
「……………」
「一番逢いたかった奴には、もうちゃんと逢えたから。これ以上何もいらないよ」
秀の言葉が征士の心に突き刺さる。
征士はすっと秀から視線をそらせて苦しげに瞳を閉じた。
「でもさ、あの姫様は本物だと思うぜ。オレも まともに会ったことないから顔とかよく覚えてないんだけど、それでも何か、ああ、きっとそうなんだって思った。だから、これは偶然じゃないと思う」
「……………」
「遥か昔、誰のことも信用しなかったお前が、生まれ変わってやっと見つけた恋なんだから。このまま通り過ぎちゃまずいだろ、やっぱ」
そう言って秀は征士を見上げてニッと笑った。
「それにさ、すんげえ美人だったから、案外夜光の記憶なんかなくても一目惚れとかするかもよ」
「…………!!」
「いやーオレも初めて見たんだよ。お前の隣にいても見劣りしないだろう女の人って」
「…秀!」
思わず声を荒げて遮った征士にポンッと持っていた布巾を投げて寄越し、秀は更に明るい声で笑った。
「じゃ、オレ9時からの映画見たいからそろそろ居間に戻るわ。後頼んでいいか?」
たたみかけるようにそう言って、秀は征士の返事を待たずキッチンを出ていってしまう。
征士はしばらくじっと秀が去った空間を眺めたまま立ちすくんでいた。
「……………」
どうしたいのか解らない。
だが、どうしなければいけないかは解る。
征士は深く深くため息をついた。
「逢いたい…ですか…?」
独り言のように征士がつぶやく。
「この身体をもう一度あなたに与えられたら、私は迷うことなくあの方に逢いに行くだろうに」
ふわりと窓から入り込んだ風が征士の前髪を揺らした。
今日は満月がやけに大きく見える。
「…………」
しばらくの間じっと窓の外を眺めていた征士の耳にカタンっと微かな物音が聞こえた。
「…………?」
ゆっくり征士が振り返ると、キッチンの入り口に立ったまま当麻が確かめるように征士の紫水晶の瞳を見つめていた。
「…………」
「…いるのか…そこに…?」
「…………」
当麻の目はもう二度と逢えない彼の人を捜している。
征士は何も答えず、じっとそんな当麻を見つめ返していた。

 

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