透明な鏡−第1章:遠い記憶−(3)

「なあ、伸」
「ん?」
もうそろそろ寝る準備をしようとパジャマに着替えだした伸に向かって秀が思いだしたように話しかけた。
「今日の夕食前さ、何で征士の様子変だったんだろうな」
「………えっ?」
淡いクリーム色のトレーナー型パジャマに袖を通す途中で伸の動きが止まった。
「征士?」
「ほら、キッチンから戻ってきた時の征士さ、ちょっと妙な感じだったじゃないか」
「あ、うん。そうだよね。でも、その後の食事の時は何も変わらなかったじゃない」
「そりゃそうなんだけどさ」
確かに、キッチンから戻ってきた時の征士は、少し様子がおかしかったかもしれない。
なんとなく、心此処にあらずといった感じではあった。
でも、伸が当麻を連れて居間に戻ってきた時には、征士も皆もいつもと変わらなく見えた。
当麻の様子からもあまり深く詮索などしないほうがいいのだろうとの判断のもと、伸はそれ以上誰にも何も訊こうとしなかった。
秀も同じように、この場で訊くべきではないと判断してなのか、いつも通り明るく騒いでいたのだが、やはり秀は、微妙な征士の変化がずっと心にひっかかっていたらしい。
「変なの」
くるりと秀の方に向き直り、伸はベッドに腰掛けてくすりと笑った。
「何が、変なんだよ」
「だって、いつもの秀ならそんなことわざわざ僕に確認する前に当の本人に何かあったのか訊きに行くくせに」
「………!」
「何か今日、元気ないなあ。どうしたんだ、征士。何か困ってることがあるんだったら相談にのるぜ。くらい、いつも言ってるだろ」
「………」
「違う?」
「………違わない」
ポツリと秀は伸の言葉を肯定した。
本当に、いつも悩むより先に行動をというのが信条だったはずなのに、どうしたのだろう自分は。
よっと勢いを付けて立ち上がり、秀は照れ隠しのつもりなのか、ニッと伸に向かって笑いかけた。
「すまねえな、伸。お前の言うとおりだ。ちょっと訊いてくるよ」
「………」
「もしかしたらオレが気にするような事、何もないかもしれないもんな」
そうであって欲しいと願っているのか、ポツリとそうもらしながら秀は部屋を出ていった。
「………」
何かが、何処かで起こっているのかも知れない。
秀の勘は妙なところで当たっている可能性がある。
そんな事を思いながら、伸はパサリと自分のベッドに寝転がって、しばらくの間、向かいの空のベッドをじっと眺めていた。

 

――――――トントンと階段を降り、秀が居間へ行くと、もう既にそこには誰の姿もなかった。
当麻はこの時間、書斎だろうし、遼も先程、就寝前の歯磨きをしていたはずだ。
誰よりも規則正しい生活を心がけている征士が彼等より遅くまで居間にいるとは考えがたいはずなのに、どうして自分は階段を降りてきたのだろう。
征士と当麻の部屋は秀達の部屋の真向かいにある。普通ならそのまま向かいの部屋をノックすれば征士が返事を返すだろうに。
「………」
秀はそのまま明かりのついていない居間のソファに腰を降ろして両手両足を投げ出した。
何故か心がザワザワする。
嫌な予感だとか、危険な気配がするとかそういうのではないのだが、ただ心がザワザワするのだ。
「秀?どうしたのだ。明かりもつけないで」
「………!!!」
不意に聞こえた征士の声に、秀は転げ落ちそうになりながらソファから身を起こして居間の入り口を振り返った。
「せ……征士?」
「………?」
異常なほどの秀の慌てぶりに征士は目を丸くした。
「どうかしたのか?」
「あ、いや……その……ちょっとうたた寝してたところで声かけられたからビックリして」
「そうか、それは悪いことをした。だが、そんな所でうたた寝などするものではないぞ。風邪をひいたらどうする」
とっさについた秀の嘘を少しも疑わず、征士は素直にそう言った。
「悪い悪い。ちゃんと部屋に帰って寝るから」
「なら、いいが」
「じゃあ、おやすみ」
「ああ」
するりと征士の脇をすり抜け、秀は逃げるように階段を駆け上った。
再び心がザワリと鳴る。
「秀!」
階段のちょうど真ん中あたりまで来た時、突然征士が秀を呼び止めた。
「……?」
秀が足を止めると、征士はタタッと階段を駆け上がり、秀の立っている所から一段下の所で足を止め、秀を見上げた。
普段は征士の方が背が高い分、秀が見上げることの方が多いのだが、今は見事に視線の高さがいつもと逆になっている。いつもと違う位置から見下ろす征士は何だか少し印象が違っていて、一瞬、自分を見上げる征士の表情が、秀が決して忘れることのない一人の少年のそれと重なった。
「………!!」
思わず征士から視線を逸らして秀はぎゅっと力一杯手すりを握りしめた。
どうかしている。本当に自分はどうかしている。
秀を見上げていた征士がやがて遠慮がちに口を開いた。
「その…秀。ちょっと訊きたいのだが」
何故か征士も少し言いにくそうに言葉を濁して階段脇の壁に身をもたせかけた。
「どうした? 征士」
「あ、いや。その……当麻から聞いているか?今日のこと」
「今日の……?」
「その……街で会ったという女性の……」
「……」
何とも言えない顔で秀は征士を見下ろした。
まさか征士がその女性に興味を持ったとは考え難いが、これはどういう意味なのだろう。
しばらくまじまじと征士を見つめてから、秀は正直に何も聞いていないと答えた。
「オレは何も聞いてないぜ。すんげえ美人だっていうのは伸から聞いたけど」
「そうか……そうだよな」
「何かあるのか?」
「い……いや…そうではないのだが……ならいい。気にしないでくれ」
表情を悟られまいとしてなのか、うつむいたまま首を振って征士は秀の脇をすり抜けようとした。
やはり少し様子がおかしい。
そう思ったとたん、秀はとっさに征士の腕をつかんで引き寄せていた。
「………!?」
「あ、悪りい!!」
ビクリと秀がつかんでいた征士の腕を離す。
「ごめん」
「………?」
「いや…あの……」
所在なげに手を握ったり開いたりしながら、秀はぎこちない笑顔を征士に向けた。
「あの…め…珍しいよな。お前にしちゃ」
「………?」
「あんま女の人とかに興味もたない方だったのに、やっぱ美人っていうのは気になるのか?征士ほどの色男がさ」
不必要に明るく言う秀の誘いにも乗ってこず、征士は少し苦しげな表情で秀を見つめた。
「秀」
重い口調で征士が言った。
「な…んだ?」
「もうひとつ訊いていいか」
「………?」
「お前にとって大切なのは、過去か?未来か?」
秀が大きく目を見開いて征士を見た。
「………え?」
征士は自分の言った言葉を後悔しているのか、すっと秀から視線をそらせた。
「何、急に言い出すのかと思ったら……」
ポリポリと頭を掻いて秀は真っ直ぐに征士に向き直った。
「んなもの、未来に決まってんじゃねーか。馬鹿」
「………」
はっきりとそう言いきった秀を征士はじっと見つめ返した。

 

――――――「よっ、当麻!」
次の日の学校帰り、いつものバス停を通り過ぎ、商店街の角を曲がったところで突然声をかけられ、当麻は驚いて振り返った。
「おまっ、秀!? 何で此処に」
「いやな、オレもその例の美人に逢ってみたくてよ」
「美……って、伸に聞いたのか?」
「そうそう。まさかお前がナンパするほど女に興味持ってるとは思ってなかったけどさ」
「なっ………誰が興味なんか持つかよ。あれはそんなんじゃ………」
「…ないんだろ。わかってるよ。んなことくらい」
意外なほどあっさりとそう言って秀はニッと笑った。
「何かわけありだって事くらい想像つくさ。何?昔のオレ達に関わった人なのか?」
「……!?」
ずばり言い当てられて当麻が絶句した。
「何?」
「時々、お前のことが怖くなるよ。なんでそんなに恐ろしく勘がいいんだ」
「ははっ、お前みたいに頭でっかちに考えない分、野生の勘が働くんだよ」
「動物か、おのれは……」
そういえば、いつもこの金剛という男は並はずれた勘の良さを持っていた。確か、烈火の脆さをいち早く見抜いたのもこの男だ。この男の勘の良さに、自分達は随分と助けられてきたのだ。いつも。
なら。
それなら、秀には昨夜の征士の態度の意味も解るのだろうか。
単純に、だた逢わせてやりたいとだけ思って話したあの女性に対する征士の拒否反応の意味。
この男になら解るのだろうか。
当麻はちらりと秀を見て、すっと顔をあげた。
「なら、勘のいい秀、もうすぐ彼女が此処に現れるんだが、それがいったい誰なのか解るか?」
「………?」
教えられた住宅街のはずれの公園で立ち止まり、当麻はじっと前方を見据えた。
秀は当麻の問いに腕組みをして真剣に考え込む顔つきになっている。
「誰なのかって言われてもな……オレ達の中の誰に関わりがある人なんだよ」
「征士だ」
「……!」
予想していたとはいえ、すっと秀の顔つきが引き締まった。
「征士?」
「ああ」
「なら、何で奴を此処に連れて来ない?」
「本当は連れて来ようと思ってた。奴に話すまでは」
「………どういう事だ、それ。征士が来たくないって言ったのか?」
「……」
当麻は秀の問いに答えず、すっと前方を指し示した。
「ほら、あれだ」
「……!?」
見ると、向こうから長い黒髪の、遠目に見てもかなりの美人とわかるスーツの女性がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
さらさらの見事な黒髪。それだけでも充分目を惹くだろうに、その髪の長さにひけを取らないほどの均整のとれた体つき。細身なのに、つくべき所にはきちんと肉がついており、歩き方や物腰にもなんとなく優雅さを感じる。
まさしく純和風美人。
伸の命名はかなり的を射た表現だったのだと、改めて秀は思った。
「なるほどね。あんだけ美人だったら確かに誤解もするわな」
「……!」
秀の独り言に当麻がピクリと反応した。
「いるんだな。こんな目の保養になる人。今でも」
「………ああ」
「で?あれ、誰?」
「……」
「当麻……?」
「あれは……夜光の姫さんだ」
「……!!」
バッと当麻を振り返り、秀が目を剥いた。
「夜光の………?」
「ああ」
「本当に……?」
「おそらく間違いはない」
「……」
複雑な顔をして、秀はもう一度こちらに歩いてくる咲耶を見た。
咲耶の方も当麻達に気付いたようで、一瞬足を止め軽く会釈をすると、足早に駆け出した。
「夜光の……姫……?」
いつも陽気な秀にしては驚くほど重い口調でそうつぶやき、秀は食い入るように咲耶を見つめていた。
夜光。澄んだ薄紫の瞳をした光輪の戦士。紅の生まれ変わり。
遥か昔。誰のことも信用しなかった紅は、生まれ変わってあんな綺麗な女性と恋をしていたのだ。
一生をかけた恋をしていたのだ。
忘れていたわけではないはずなのに。
決して、忘れていたわけではないはずなのに。
秀の心に湧いてきた感情は、自分でも説明のつかない何とも言えない感情だった。

 

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