透明な鏡−第2章:砕けた硝子−(2)

書斎へ行くと、案の定当麻は積み上げた本になかば埋もれるようにして座り込み、読書の真っ最中であった。
「当麻、珈琲」
声をかけると当麻は読んでいた本から顔をあげてふっと嬉しそうに顔をほころばせ、パタンと本を閉じて立ち上がった。
「サンキュー、伸」
湯気の立つマグカップを受け取り、当麻が美味しそうに一口珈琲を飲んだ。
コクリと喉が鳴る。
何度も見慣れた仕草だ。
伸はやはり少し浮かない顔をして、小さくため息をつくと、くるりと当麻に背を向けた。
「じゃあ飲み終わったらカップそのままにしておかないで洗いなよ」
そう言って出ていこうとした伸を慌てて当麻が引き留めた。
「お…おいおい、そっけない奴だな。そんな急いで出て行かなくてもいいじゃないか」
「……………」
「伸?」
振り返った伸の表情が硬い。いつもと違う雰囲気の伸の態度にようやく当麻が表情を引き締めた。
「伸? お前…」
伸は一歩後ろに下がって当麻との距離を保ったまますっと顔をあげた。
「何か用なの?僕に」
「……用っていうか…食後の珈琲くらいつき合ってくれよ。独りで飲んでも美味くないじゃないか」
「どうして?」
「どう…?」
「僕が君の相手をしなきゃならない義務はないよね」
戸惑った顔で、当麻は伸を見た。
「あの…」
無理矢理素っ気ない態度を取ろうとしているのが手に取るようにわかる。
いったいどうしたんだろう。
思わず一歩当麻が伸に近づこうと足を踏みだすと、伸は一瞬表情を強ばらせ、すっと後ろへ下がった。
結果、同じだけの距離がお互いの間に存在したままである。
「オレ、またお前の気に障るような事、何かしたか?」
「別に」
伸が当麻から視線をそらせる。
「…………」
カタンと持っていた珈琲をデスクに置いて、当麻は今度こそはっきりと伸の方へ歩み寄った。
伸は慌てて再び当麻と距離を置こうと後ずさる。トンッと伸の背中が壁に当たった。
「何か、変だぞ。お前、どうしたんだ」
「…………」
「伸?」
「何もないよ。気にしないで」
当麻の言葉を遮って伸が顔をあげた。
「とにかく用事がないなら僕もう行くね」
「伸!!」
くるりと踵を返そうとした伸の腕を思わず当麻が掴んで引き戻した。とたんに傍目で見てわかるほど、伸の表情が変化する。
「どうしたんだよ、伸。何かあったんなら言ってくれよ」
「だから、何でもないって言ってるだろ」
「何でもなくてそんな急に態度が変わるわけないだろ。オレが何かしたんだったら謝るから」
「何もないよ。僕の事なんてそんな気にしないでいいから」
「ムチャ言うな。自分の好きな奴の態度がおかしいのに気にしないでいられるわけないだろうが」
「…………!!」
ビクリと顔をあげ、伸は掴まれていた腕を振りほどいた。
「……伸?」
「当麻。頼みがある」
「…………?」
「もう、やめよう」
「……えっ?」
何のことか解らず、当麻が眉をひそめた。
「やめるって……何を?」
「だから…もうやめて欲しいんだ」
「…………」
「もう……そういう事、言わないで欲しいんだ」
「そういう事?」
「僕の…僕のこと好き…だとか……そういうの…」
苦しげに瞳を伏せ、伸は絞り出すような口調でそう言った。
「……………」
「……………」
まじまじと伸の顔を凝視した後、当麻がぽつりとつぶやいた。
「理由は?」
「……………」
「オレがお前のこと好きなのは今までだって何度も言ってる。何故、今更突然そんな事言い出すんだ。伸」
「……………」
「もう一度訊く。理由は?」
「理由なんか…ない」
「……………」
「……大体、変だよ。そんな事言うの。普通に考えておかしいじゃないか」
「おかしい?」
「そう、当麻はきっと勘違いしてるんだよ。友情と恋愛を取り違えてるだけなんだ」
「……………」
「もっと冷静に考えれば僕のこと好きだなんて思わなくなるよ」
「何を言ってるんだ。お前は」
鋭い当麻の声に伸がビクリと口を閉じた。
「お前は今までオレの何を見てきたんだ?オレは自分の気持ちを間違いだ等と思ったことはない。お前への気持ちが間違いだっていうなら、オレにとって正しい事なんて何一つない」
伸が目を見開いて当麻を見上げた。
「どうして…!!」
「……………」
「どうしてそんな事言うんだよ。どうかしてる…!!」
「……………」
「どうかしてるよ……」
そのまま崩れ落ちるように伸は床へ座り込んだ。
「オレは自分に嘘はつきたくないだけなんだ。それが何故いけない」
「やめろよ」
必死で当麻の言葉を遮り、伸は大きく頭を振った。
「…別にいいじゃないか。そんな事言わなくったって。仲間なんだから。それだけで充分だよ。僕だって君を特別扱いする気はないんだから」
「……………」
「そうだよ。僕は別に君のこと何とも思ってない。仲間として出会ったんだからそれなりには大切に思ってるけど、それはあくまでも友達として、仲間としてであって…決して君だけ特別なんじゃない」
「……………」
「だから…だから、君にそういう態度をとられると迷惑なんだよ!」
「………………」
「………………」
「……迷惑……?」
ぽつりと当麻がつぶやいた。
「迷惑なのか? お前にとってオレの気持ちは迷惑でしかないのか?」
「………………」
「何も望まないと言った。振り向いてくれなんて言ってない。それでも…」
「………………」
「それでも…迷惑…か? オレがお前のことを好きだって思うことすら迷惑なのか?」
「…………!!」
弾かれたように伸が顔をあげた。
「お前の気持ちがオレに向いてないことはよくわかった。だが、オレは自分の気持ちを抑える術なんて知らないし、知りたくもない」
「当麻…」
「ずっと…ずっと逢いたかったお前が、こうやってそばにいるのに、何でもないふりをして嘘をつくことなんか、オレには出来ない」
「何で…何でそういう事言うんだよ。それが迷惑だって言ってるのがわからないのか、君は?君のそういう態度の所為でまわりがどんな気持ちになってるか考えたことある?そんなだから遼が…」
「遼が?」
「……!!」
伸が息を呑んで口を閉じた。
2人の間を気まずい沈黙が流れる。
「……………」
「お前がそんなことを言いだした原因は遼か?」
「……………」
「遼が何か言ったのか?」
「何も…」
「…伸」
「何も言ってない……何も……」
まるで心の中を見透かされるのではないかと思えるほどの当麻の視線に耐えきれず、伸は怯えたように顔を背けた。
『オレ、もっと早く伸に逢いたかったな』
そう言った時の遼の表情が頭から離れない。
約束したのに。あの子を哀しませることがないように。自分の全てをかけて護るのだと。
そう、約束したのに。
「……そんなに遼が大切か? 伸」
押し殺した声で当麻が訊いた。
「他のどんなものより遼の事が大切か?」
「………………」
「お前自身の想いも何もかも犠牲にしても遼の事の方が大切なのか?」
「僕は……」
伸の顔が苦痛に歪んだ。
「お前の倖せは、遼の笑顔の上にしか成り立たないものなのか!?」
「その通りだよ!!」
自分でも驚く程きっぱりとした口調で伸はそう叫んでいた。
そして。
そのとたん、当麻の中で何かが音をたてて崩れた。
「…………」
「……!?」
次の瞬間、当麻はものすごい力で伸の腕を掴み、床へ引きずり倒していた。
「なっ…!?」
突然の事に伸はそのまま、したたかに身体を床へ打ち付けられ呻き声をあげる。
「痛っ……!」
そばに積んであった本が振動でバラバラと床へ散乱した。
「当麻…何すっ…!」
伸の言葉を遮るように次の瞬間、当麻はきつく伸の腕を掴んだまま捻りあげ固定すると、伸の身体の上にのしかかり唇を重ねてきた。
「……!!」
伸の瞳が驚きに見開かれる。
「うっ…!」
逃れることを許さない力強い当麻の腕が、伸の身体を羽交い締めにしている。
伸は混乱した頭のままで、何とか掴まれた腕を振りほどこうともがいたが、当麻の力は一向にゆるまず、更にきつく伸の腕を捻りあげた。
「とう…やめっ…!」
当麻から逃れようと力一杯伸が身をよじると、シャツのボタンがちぎれて飛び、ころころと床へ転がった。
「……………!」
そのまま伸のシャツの襟元を引き裂き、当麻が伸の首筋へ唇を這わせる。
ビクンっと伸の身体が反応して反り返った。
すると、当麻は伸の身体の上に体重をかけ、再び伸の唇に自分の唇を重ねた。
無理矢理口腔をこじ開け、当麻の舌が伸の中へと侵入してくる。
「…や…だっ……」
「……………」
「…や…め…」
「……………」
「と…当麻…!!!」
当麻の腹を下から思いっきり蹴り上げ、伸はようやく当麻の腕から逃れて壁際へ飛び去った。
まだ、何が起こったのか判断出来ないほど、頭が混乱しているのがわかる。
荒い息を吐きながら、伸は壁伝いに手をついて立ち上がった。
「二度と…」
「……………」
「二度と僕に触れるな」
押し殺した声でそう告げると、伸は逃げるように書斎を飛び出した。

 

――――――そのままわき目もふらずに外へ飛び出した伸は、柳生邸の裏の林の中へと駆け込んだ。
わざと道ではない所を選んで奥へ奥へと突き進む。
何処でもいい。とにかく少しでもこの場から離れたかった。
途中、棘の生えた草や蔓草が頬や手を引っ掻いたが一向に気にも留めず、伸は固く唇を噛みしめたまま走り続けた。
「……!!」
どれくらい走っただろうか。
足元も見ずに草を掻き分けていた伸は、地面に伸びていた草に足を取られ、派手な音をたてて地面へとすっ転んだ。
「……痛っ……」
倒れたひょうしにすりむいた腕がズキズキと痛む。
気がつくと唇にも血が滲んでいたが、これは転んで出来た傷ではない。さっき、力任せに当麻の舌を噛んでやろうとした名残りだ。
それを思いだしたとたん、伸の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
ポロリと伸の頬を伝った涙が地面に落ちて草の上で弾ける。
伸は、乱暴に涙をぬぐい去ると、膝を抱えたまま地面に座り込んだ。
「何…泣いてんだろう…僕は…」
つぶやく先から涙が頬を伝う。
必死で声を殺したまま、伸はその場にうずくまり、泣き続けた。

 

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