透明な鏡−第2章:砕けた硝子−(3)

「当麻、伸知らねえか?」
秀がけたたましい音と共に書斎に飛び込んで来たのは、すでに時計が12時をまわっていた頃だった。
「一緒に映画観るって言ってたのに結局顔出さなくてさ。お前んとこに居るのかと思ってたんだけど、こんな時間まで……」
言いながらぐるりと書斎を見回した秀は、当麻の姿に目を止め、おやっと眉をひそめて口を閉じた。
「どうした? 当麻」
床に座り込んだ体勢のままうつむいている当麻の顔色が紙のように白い。尋常でない様子に、秀はゆっくりと当麻に近づいてそばにしゃがみ込んだ。
「当麻? 何があったんだ?」
当麻は何も答えず、ただうつむいたまま顔をあげようともしない。秀の顔にさっと緊張が走った。
「当麻、答えろ。伸がいなくなった原因はお前か?」
「……!」
ビクリと当麻が反応した。
「……お前……」
やはり顔をあげようとしない当麻を見下ろす秀の目つきが更に鋭くなった。
「当麻。拗ねるのもいい加減にしろ。お前いったい…」
「どうだ? 秀。伸は…」
書斎に入ってきた遼と征士が中の様子に一瞬足を止めた。
「………?」
「遼、悪いけど伸を捜してきてくれねえか?また、こいつが何かバカやらかしたらしい」
「えっ?」
驚きに目を丸くして、遼が秀の肩越しに当麻を覗き込んだ。
当麻は必死で遼と視線を合わせまいと、顔を背け両手で頭を抱え込んでいる。
心配気に遼の眉が寄せられた。
「伸、やっぱり家の中にいないのか?もしかして、飛び出したまま戻ってきてないのか?いつから居なかったんだよ。当麻、お前、伸と何かあったのか?」
「……………」
やはり当麻は何も答えず、きつく唇を噛みしめたままである。
「とにかく遼、今は伸を捜そう。何か嫌な予感がする」
「………でも…」
「いいから、行くぞ」
「…あ…うん」
納得のいかない表情のまま、遼が頷いた。
「じゃあ、オレと遼は外探してくるから、征士は此処で待っててくれるか?」
「わかった」
秀と共に書斎を出ようと扉に手をかけたところで不意に遼が当麻を振り返った。
「当麻、本当に何があったんだよ」
当麻はやはり何も答えようとしない。
そんな当麻の態度に多少苛立ちを覚えて、遼はじろりと当麻を睨みつけた。
「…当麻、何があったか知らないけど、お前が伸を傷付けたなら、オレはお前を許さないぞ」
鋭い口調でそう言って踵を返すと、遼は大股で書斎を出ていった。
「オレも遼の意見に賛成だな。何が原因か知らねえが、あんまバカなことすんなよ、当麻」
秀もそう言ってすぐに遼の後を追って書斎を出た。
2人がバタンと玄関の扉を閉める音が大きく響くと同時に当麻が深くため息をついて前髪を掻きあげた。
「いったい何があったのだ当麻。このまま黙りを続けられると思っているのではなかろうな」
征士の言葉にも当麻は答えようとしなかった。
ただ、ひたすらきつく唇を噛みしめていた。

 

――――――「伸…?」
背後で草むらを掻き分けるガサリという音と共に秀が顔をのぞかせた。
「良かった。こんな所に居たのか。随分捜したんだぞ」
「……秀…」
「おーい、遼!伸がいたぞー!!」
ほっと安心したように息をついたあと、大声で遼を呼ぶと、秀がたたっと伸の元へ駆け寄ってきた。
「お前らしくないな、伸。何も言わずにこんな時間まで帰って来ないなんてよ。ただの痴話げんかにしちゃ当麻の様子も変だったし、何かあったのか?」
「………!」
当麻の名前に伸がビクリと反応して顔をあげたが、秀は伸の表情の変化には気付かなかったようで、にこりと笑みを浮かべながら伸に向かって手を差しだした。
「ま、とりあえず帰ろうぜ。当麻にはちゃんと謝らせるから。ほら」
そう言って何気なく差し出された秀の手が伸の身体に触れたとたん、伸がビクッと身体を硬直させ秀の手を払いのけた。
「……!?」
予想外の伸の行動に秀の動きが止まる。
「……伸?」
「…………」
その時はじめて、秀は伸の表情が異常なほど強ばっているのに気付いた。
夜目にも真っ青な顔をして伸は秀を見上げている。
「……伸、お前…?」
「あ…ごめ…ごめん…その…」
「…………」
「急に触られたから…ビックリして…」
不自然に逸らされた伸の視線に、秀の表情がすっと険しくなった。
伸は心の動揺を隠そうとしてか微かに震えている。
「……………」
しばらくの間、じっと伸を見下ろしていた秀は、おもむろに地面に膝をつき、伸の顔を覗き込んだ。
近づいてきた秀の顔に、思わず伸が身を引く。
「伸…お前、ずっと泣いていたのか?」
「……………」
「目が赤くなってる。それに何でそんなに震えてるんだ?」
言いながらのばされた秀の手を再び伸が払いのける。
「……!?」
「あ…あの…」
間近で見た伸の瞳に一瞬浮かんだのは、恐怖の光か、嫌悪の色か。
ふと、秀は伸の胸元のボタンが引きちぎられたような形でなくなっていることに気付き、小さく息を呑んだ。
よく見ると、引きちぎられたのはボタンだけじゃなく、シャツの生地自体も襟元から肩のあたりにかけて大きな裂け目が出来ている。
「お前…そのシャツ…」
「………!!」
慌てて伸が大きくはだけたシャツの胸元を合わせた。
おかげで、手首に残っている赤い痣が秀の目にとまる。
「……………」
秀の背中がざわりと総毛立った。
「…何…された?当麻に」
低く秀が訊いた。
「……………」
「何、されたんだ。伸」
「あ……」
伸は何も答えることが出来ず、じっと秀を見上げていた。
「……そういうことか?」
独り言のようにつぶやき、秀がすっと立ち上がった。
秀の目の奥に静かな怒りの炎が揺らめいている。
「あいつが…お前を、そんなふうに傷付けたんだな」
「…秀…!」
口を真一文字に結んで、秀が突然家の方向に向かって駆け出した。
「秀!!」
慌てて立ち上がろうとした伸が、そのままよろめいて再び地面にしゃがみ込んだ時、ようやく遼が伸の元へ駆けつけた。
「伸!」
「遼!! 秀を止めて!」
「えっ?」
「お願い! 秀を止めて!!」
突然の事に驚きながらも、遼は言われるままに秀の後を追って駆け出した。
「秀! 待てよ!! どうしたんだ!?」
「……当麻……」
小さくつぶやき、伸もふらつく身体をおしてようやく立ち上がると、家へ向かって駆け出した。

 

――――――バタンっとものすごい勢いで扉を蹴り開けて家に戻ってきた秀は、そのまま一直線に書斎へと向かった。
「秀、伸は見つかったのか?」
征士が声をかけたのにも反応を返さず、秀は無言で当麻の元へと歩み寄る。
「………!?」
「征士! 秀を止めてくれ!」
玄関口から聞こえた遼の声に当麻がハッとして顔をあげるのと、秀が振り上げた拳を当麻の顔面へ振り下ろすのがほぼ同時に起こった。
「……!!!」
「秀!!」
殴り飛ばされた当麻の身体が後ろの本棚にぶつかり数冊の本がバラバラと床へ散らばった。
「秀! どうしたんだ!?」
慌てて征士が秀の身体を後ろから羽交い締めにする。
「秀!」
「離せよ! 征士!! こいつは一発殴ったくらいじゃ収まらねえんだよ!」
「秀!!」
暴れる秀の身体を必死で押さえ込み、征士が叫んだ。
「いい加減にしろ! 秀!!」
「………!!」
征士の喝にビクリと秀の動きが止まった。
「お前らしくないぞ、秀。何を怒っているのか知らんが、いきなり殴りつけることはないだろう」
「…なんで…」
「………?」
「なんでよりによってお前がこいつを庇うんだよ、征士」
「秀?」
「お前が…!!」
ぶるぶると震える拳を握りしめ、秀はもう一度床に崩れ落ちている当麻を睨みつけた。
「見損なったぜ、当麻。てめえなんか、もう友達でも何でもねえよ」
吐き捨てるようにそう言って、秀は征士の手を振り払い書斎を飛び出すと、そのまま二階へと上がって行ってしまった。
「秀!!」
ようやく書斎に駆けつけた遼は、二階へと駆け上がっていく秀を見送って、戸惑ったように視線を当麻へ向けた。
「何だよ。いったい。全然わからない。いったいどうしたんだよ」
遼の声に当麻がゆっくりと顔をあげた。
遼は苛立ちと戸惑いの入り交じったような目で、当麻を見つめ返している。
ふっと当麻の顔に自嘲気味な笑みが浮かんだ。
「もう……駄目かもな」
ぽつりと当麻が言った。
つっと切れた唇の端に血が滲む。
「当麻……?」
「オレは、もう駄目なんだ」
「……………」
「どんどん自分が抑えられなくなる」
「……………」
「昔はひとめ会えればそれでいいと思ってた。あいつが無事に転生してくれていたら、それ以上は何も望まない。それさえ確かめられたら充分だって」
「……………」
「なのに、出逢っちまうともう駄目だ。早く仲間として知り合いたいって、そばに居てやりたいって思って、毎日毎日指折り数えてあいつと巡り逢える時を待ち望んでいる自分がいた」
「……………」
「今は、あいつと巡り逢えて、共に戦って。それだけで満足するべきだったのに」
「……………」
「駄目なんだ。もう。そばに居るだけじゃ耐えられない」
「……………」
「あいつが欲しい。欲望が抑えられない。気が狂いそうだ」
「……………」
「いいや、もうとっくに気が狂ってるのかもな。オレは」
「……………」
ざわりと心がざわめく。
どうやったら。
どうやったら、此処まで一人の人を想えるのだろう。
自分にはない、長い長い当麻の過去の時間を思い、遼はじっと当麻の深い宇宙色の瞳を見つめていた。

 

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