透明な鏡−第2章:砕けた硝子−(4)
遼と秀に遅れてようやく家に辿り着いた伸は、静かに玄関の扉を開けた。
「…………」
家の中の空気はピリピリと張りつめた感じがして、そうでなくても高ぶっている神経に突き刺さる。
なるべく音をたてないようにと気をつけたにも関わらず、すぐに伸の帰宅に気付いて書斎から遼が飛び出してきた。
「伸…!!」
「……あ……遼……」
「…………」
「…あの…秀は?」
伸の問いに一瞬立ち止まり、遼はすっと二階を指差した。
「秀は、二階へ行っちまった。当麻を殴りつけて」
「…………!!」
「大丈夫。征士が止めたから、そんな大事にはなってない」
「…………」
秀が当麻を殴った。
ズキンと胸が痛む。
この痛みは何の痛みだろう。息が出来ないほどに苦しく感じるこの胸の痛みは何の意味を持っているのだろう。
「……伸……」
ゆっくりと伸のいる玄関口まで歩いてきて、遼はじっと伸の姿を上から下まで凝視した。
「…………」
「…伸…お前、当麻に乱暴されたのか?」
「…………!!」
伸の顔色がさっと青ざめる。
「……あ…」
「…………」
「………あの……そんな……乱暴されたってほどじゃないよ。ちょっとした喧嘩の延長線みたいなもので…」
「…………」
「…だから…その……そんな…心配するほどの事じゃ…ないし…」
しどろもどろの言い訳に遼の目がすっと細められる。
「……そこ…」
遼が伸の頬に手をのばした。ビクリと伸が後ずさる。
「血が…」
「あ…これは、さっき外で…草で切ったんだよ」
「じゃあ、その唇の血は? それも草か?」
「…………!」
「シャツが裂けてるのは?それも…それも草の所為か?」
「…………!」
いたたまれない様子で伸は遼から視線を逸らした。
「…あ…ごめん…伸…オレ、別に責めるつもりじゃなくて…」
「…………」
やはり、伸は遼と視線を合わせられないまま俯いていた。
「…濡らしたタオル持ってくるよ。顔の泥、ふかなきゃ。待ってて」
ポツリとそう言って、遼はキッチンへと消えていった。
――――――「伸…何処へ行ったかと思った。ビックリするじゃないか」
キッチンから戻ってきた遼は、玄関口にもう伸の姿がないことに気付き、慌てて二階へと駆け上がって来た。
伸は自分の部屋の前の廊下にしゃがみ込んだまま膝を抱えていたが、遼の姿を見て、力無い笑顔を向けた。
「ごめん。ちょっと秀の事が気になって」
「……秀は?」
「駄目。鍵かけて中へ入れてくれない」
「そうか……はい、これ」
遼が差しだしたタオルを受け取り、伸はずっと顔にこびりついたままだった血を拭った。
「……ごめんね」
「何でお前が謝るんだよ。お前は何も悪いことしてないだろ」
気を遣ってほんの少し遼は伸から距離をおいて膝をついた。
引きちぎられたシャツのボタン。裂けたシャツの襟元から伸の白い肌が覗いている。
遼はどうしていいか解らないといったふうに、じっと伸を見つめていた。
ただの喧嘩の延長線。伸はそう言った。
伸がそう言ったなら信じるしかない。
でも。
少なくとも当麻が何かを思って伸に手をのばしたのは事実だ。
当麻が伸を欲していたことは、紛れもない事実なのだ。
「………………」
ザワリと遼の背中が総毛立った。
改めて見ると伸の肩の線がやけに細いことに気付かされる。
伸の肌の白さが目に眩しく映る。
目のやり所に困り、遼はすっと立ち上がった。
「……なあ、秀」
そして、立ち上がった遼は、秀のいる部屋のドアに向かって声をかけた。
「秀、出て来いよ。秀、お前がそんなでどうするんだよ。当麻だって…」
「オレは謝らねえぞ。絶対」
遼の言葉を遮って部屋の中から秀が叫んだ。
「当麻だけじゃない。お前だってそうだ。もしこれ以上伸に何かしてみろ、まとめてオレがお前等をボコボコにしてやるからな」
「……………」
「絶対、絶対、謝らねえ。オレは許さない。あんなこと…絶対…」
「……………」
「もう…絶対…嫌だ…」
「秀」
静かに遼が言った。
「オレも謝る必要はないと思う。当麻がしたことは酷いことだと思う」
ビクリと伸が身を固くした。
「許せない。そう思ったはずなのに……」
「……………」
「…………でも、変なんだ。オレ、お前みたいに怒れない。どうしてだろう」
「……………」
「オレ、怒れないんだ。………当麻の気持ちがわかるから」
「……………」
伸がゆっくりと顔をあげて遼を見上げると、遼は部屋のドアに額をつけて、苦しげに瞳を閉じていた。
「征士が言ったんだ。相手の気持ちを考えずいきなり力に任せるのは愛情でもなんでもないって。そうやって相手の心を壊しても、お前は何も手に入れることは出来ないって」
「……………」
「オレも一瞬カッとなってお前みたいに当麻を殴りつけたい衝動に駆られた。でも、同時にぞくっとしたんだ」
「……………」
「ぞくっとした。当麻の気持ちがわかるから………オレも伸が好きだから」
「……………」
「……耐えられないって言った当麻の気持ちがわかる。どうしようもないんだよ。本当に」
「……………」
「好きだから」
ドアに額をこすりつけたまま、遼は白くなるほどギュッと拳を握りしめていた。
「好きだからどうしようもない。好きだから。こんなに好きだから…触れたくなる。抱きしめたくなる。そう思うのはいけないことか? 秀。お前だって、そんなふうに誰かを好きになったことあるだろう」
「……それは、本当に傷ついた奴を見たことない人間の傲慢な言いぐさだ」
秀が押し殺した声でそう言った。
「そうかも知れない。オレ、甘ちゃんだから。きっとわかってないことたくさんあるんだ。でも、オレ……オレの中の男の部分が嫌って程当麻に共感するんだ」
「……………」
「なあ、秀」
それは、秀に聞かせている言葉なのか、伸に聞かせている言葉なのか。
それとも遼自身に言い聞かせている言葉なのか。
遼は言葉を切って、低く息を吐いた。
その時、トントンと足早に階段を駆け上がってくる音が聞こえ、征士が二階に姿を現した。
「遼、当麻はこっちにあがってきたか?」
「……えっ?」
驚いた顔で振り返り、遼が頭を横に振った。
「来てないぞ。お前と一緒に書斎に居たんじゃないのか?どういう事だよ」
「実は、秀に殴られた所為で切った口の血が止まらなくてな。さすがに見るに見かねて手当てしてやろうと救急箱を取りに行ったのだが、戻ったときには奴の姿が何処にもなかったんだ」
「当麻の奴……」
「下の部屋はひととおり捜したのだが、何処にもいない。こっちに来ていないのだとしたら外へ行ったのか……」
考え込むように征士が腕を組んでため息をついた。
「仕方がないな。捜しに行くか」
「何でお前はそうやって当麻をかばうんだよ、征士!」
バンとドアを開けて秀が廊下へ飛び出してきた。
「オレなんかより、お前の方がよっぽど怒って当然なのに、なんであんな奴をかばうんだ!」
「……………」
「忘れたのか?お前は?!そんな事ないよな。お前があのことを忘れられるわけないよな!!」
「忘れたことは一度もない」
征士が言った。
「……………」
「でも、私は行くぞ。秀」
「……征士……」
「私は…私達の変化していく未来を歩くために行く」
「……………」
「お前になら、この言葉の意味は解るだろう」
「……………」
「お前が私に教えたのだぞ、秀。私達は変化していくからこそ人間なのだと」
何とも言えない顔でじっと立ちすくんでいる秀を見つめ、ふと顔をほころばせると、征士は伸へと目を向けた。
「伸。少しいいか?」
「え…あ…うん」
「遼、少しの間、伸を借りるぞ」
伸が立ち上がるのにさっと手を貸すと、征士は伸を連れて一階へと降りていった。
――――――「征士…その…」
「確かに、私は秀の言うとおり、少し当麻に甘いのかもしれないな…」
ふっと笑って征士が伸を振り返った。
「大丈夫か? 伸」
「……うん」
コクリと伸が頷く。
「そうか、なら良かった」
「……………」
「伸、私が言っても詮無い事だが、すまなかった」
「……征士」
「私も全面的に当麻を庇うつもりは毛頭ない。さすがに、今回は少々行為自体が目にあまるものだったとは思っている。だが、私はお前達2人の関係がとても好きだから。壊れて欲しくないと、そう思っているのも事実だ」
「……………」
「だから、当麻を捜しに行く前にひとつだけ確認しておきたい」
「……………」
「伸。当麻を許せるか?」
僅かに伸の表情が硬くなる。
「せ…征士…」
「大切なのはお前自身の気持ちだ。お前が当麻の行為をどう思っているかということだ」
「……………」
「当麻を…許せるか?」
「僕は…」
ぽつりと伸が言った。
「僕は、初めて当麻を恐いと思った」
「……………」
「……当麻の真剣さが…とても…恐いと思った………」
「……………」
『伸。好きだよ。』
いつも冗談のようにそう言っていた当麻。でも、そう言った当麻の目はどんな時も真剣で、決して冗談などではなかった。
冗談などではなかったのに。
胸が痛い。痛くて痛くて息が出来ない。
当麻の、あの酷く傷ついた深い宇宙色の瞳を思い出す度、苦しくて息が出来なくなる。
「征士」
そっと伸が聞いた。
「さっき言ってた、あのことって何?」
一瞬だけ征士の顔が曇る。
「あ、ごめん。言いたくないことなら訊かないから。その…」
「これは、当麻にも詳しくは話したことのない事なのだが」
「……え?」
「秀は、今でも紅が心に負っていた傷を忘れられないのだ」
「………………」
伸がいったいどういう事だと言ったふうに首をかしげた。
「紅の?」
「ああ」
「…紅って…確か…」
「お前が癒しの手を持った斎の巫女だった時代の話だ。禅と出逢う前、紅の身に起こった出来事なのだが」
「………………」
「紅は、昔、食べ物を得るために自分の身体を売ったことがある」
「……えっ?」
一瞬征士の言葉の意味が理解できず、伸は驚いて目を丸くした。
「身体を…売った……?」
「彼は飢えていた。とてもひどく飢えていたんだ。だから、何でもするとその男に言った。そう言った結果、自分がどんな目に遭うか、それすら理解していないまま」
「そんな……」
「その事があってからずっと彼の心を占めていたのは、自分の行った行動に対する自責の念。行為に対するどうしようもない嫌悪感。吐き気を催すほどの自己嫌悪。犯されたときの恐怖感。ありとあらゆる負の感情が紅の心と身体を蝕んでいた」
「………………」
あまりのことに、伸は知らずごくりと唾を飲み込んでいた。
「秀は…禅は、ずっとそれを見てきた。触れることすらできないまま、そばでじっとそんな紅を見てきたんだ」
「触れることが出来ない…?」
「さわれないのだ。紅の身体に。微かに手が触れただけで紅の身体が拒否反応を起こすんだ。身体の震えが止まらなくなって、酷い場合は吐いてしまった時もあった」
「………………」
「背中をさすってやることも、肩を抱いてやることも出来ない。何もできないまま、禅は真っ青な顔をして、紅のことをじっと見ていた。だからかな……?」
ふっと征士が唇の端に笑みを浮かべた。
「秀は今でも私にだけ、少し距離を置いて接しようとしている」
「…そ…そうなの…?」
「ああ。この間も突然謝られてしまった。腕を掴んだだけだというのに」
「………………」
それほどに。
無意識のうちに謝罪の言葉を口走ってしまうほど。
秀は今でもこだわっているのだ。
「伸、私は当麻を捜しに行く。お前は、秀を頼む」
「征士」
「秀を頼む」
そう言って、征士は深々と伸に向かって頭をさげた。