透明な鏡−第2章:砕けた硝子−(5)

「じゃあ、行って来る」
そう言って征士が玄関に向かって歩きかけた時、二階から遼が駆け下りてきた。
「征士、オレも行く」
「遼?」
「オレも、当麻を捜しに行くよ」
そう言って、遼は真っ直ぐに伸に向き直った。
「いいかな、伸」
「遼……」
「オレはお前の意志を一番尊重したい。お前が、しばらく当麻に会いたくないって言うならそれを当麻に伝えに行く。お前が当麻に戻ってきて欲しいって思ってるなら、首に縄付けてでも引っ張って連れ帰ってくる」
「遼……」
「オレも、ちょっと頭が混乱してる。何をどう考えていいかわからないってのが本音なんだけどさ。でも、やっぱり、オレ、お前の事も当麻の事も好きだし。だから…」
「…………」
「…オレ、お前の望みが一番大事だから」
戸惑った顔で伸は遼を見つめ返した。
「遼…あの…」
「オレ、お前が好きだから。お前が笑えなくなるのは嫌なんだ。だから、お前の望みを一番に叶えてやりたい」
「…………」
「お前は…どうしたい?」
優しい、優しい口調で遼は伸にそう聞いた。
「……………」
「お前が当麻を好きなら、オレ、ちゃんとお前の所に当麻を連れて帰ってきてやる」
「遼…!」
ふっと笑って、遼は伸の方へ近づき、ささやくように言った。
「知ってるか?お前って当麻といる時、一番倖せそうな顔してるんだ。怒ってても拗ねてても、すごい倖せそうなんだ。オレ、ガキだからそれが悔しくてさ。オレは、伸にあんな顔させられないから」
「……………」
「だけど、悔しくても、やっぱり、オレ、お前に倖せに笑ってて欲しい」
「……………」
「お前の倖せな笑顔が見たい。だから、その為に当麻が必要なら、オレは当麻を連れて帰ってくる。お前の元に」
「……………」
「……ちょっと…いや、かなり悔しいけど、オレ、当麻と居るときのお前の顔がすごく好きだな」
「……遼……」
「本当…すごく…好きだな」
「…遼……僕は……」
「……………」
言葉を途切らせる伸の顔を、遼は何も言わず覗き込んだ。
大切な烈火との約束。護るべき人。笑顔。
本当に大切なことは、誰かの犠牲の上に成り立つべきものではない。
「僕は……」
望むべきもの。失いたくないもの。
本当に、自分達はいつの間にこんな、まるで綱渡りでもしているような微妙な関係になってしまっていたのだろう。
遼を中心に、戦うこと以外何も考えられなかった頃の方が、もしかして楽だったのだろうか。
あの頃は、自分がこんな気持ちになるなどと思ってもいなかったのに。
でも、今のこの胸の痛みは。
どうしようもないくらいのこの胸の痛みは。
「…ごめんね」
「……伸……?」
伸がそっと顔をあげて遼を見つめた。
「ごめんね、遼。……僕は、当麻に逢いたい」
「……わかった」
小さく頷き、遼は伸に背を向けた。

 

――――――「ほら、伸」
暖かなココアを差しだして、秀が笑いかけた。
「あ、ごめん」
先程だしてもらった新しい服に着替え直した伸は、素直に秀の手からココアを受け取った。
「悪いな、さっきは。部屋から閉め出して。ちょっと頭に血が上っちまってたから」
「ううん」
コクリと飲んだココアは少し苦い味がする。
伸はココアを喉に流し込んで、ほうっと息を吐いた。
「伸…大丈夫か?」
「うん」
くすりと笑って伸は顔をあげた。
「そこまで気を遣うことないよ、秀。大丈夫。そんな言うほど何かされたわけじゃないし。ビックリしただけだから」
「そうなんだけどさ」
「……それでも、許せないと思った?」
「まあな」
ポリポリと頭を掻いて、秀が苦笑した。
「なんつーか、身体中の毛が総毛立った感じがした」
「………………」
「オレ、当麻がお前のこと好きなの知ってたし、別にそれを悪いことだなんて思ってなかった。むしろ応援してやりたいって思ってた。でもな、ああいうのは嫌だ」
ふと言葉を切って秀はじっと伸を見つめた。
「さっきのお前さ。初めて逢った頃の紅と同じ目をしていた。怯えて、震えて、自分の周りにバリヤを張って。それ見たら、オレ、自分でもわけが解らなくなるほど怒りに我を忘れちまった」
「秀は優しいね。本当に」
「んなことねえよ」
「そんなことあるよ。とても優しい」
「そうじゃないよ。目の前で吐かれたら誰だって、いい気はしない。それが忘れられねえだけだ」
「………………」
秀の目は、遠い昔を想っている。
この手で護りたかった大切な大切な宝物のような少年のことを。
綺麗なスミレの花の瞳をした硝子のような少年のことを。
「秀…僕は大丈夫だよ」
そっと伸が言った。
「もう大丈夫。それに、悔しいことに僕は当麻を嫌いになれないらしい」
「……伸……」
「自分でもかなり驚いてるんだけどね」
くすりと伸が笑った。
「だから、もう大丈夫。何考えてんだよ、このバカって言って頭小突いてやって、それで終わりにしたい」
「…………」
「それに、紅の場合とは違う。紅の行為には心はなかった」
秀が僅かに目を見開いた。
「でも、当麻は違う。それだけは解る」
だから胸が痛むのだ。
当麻を。あの当麻をそこまで追いつめてしまったのは、他でもない自分なのだから。
当麻の優しさに無意識に甘えようとしていたのは、自分なのだから。
気付くべきだった。
もっとちゃんと向き合うべきだったのだ。
自分の気持ちと。
「お前は、強いな」
秀がそう言って、おずおずと伸に向かって手をさしのべた。
「伸」
「何?」
「触れても大丈夫か?」
「…………」
伸はゆっくりと頷き、目の前に立つ秀を見あげた。
「ありがと。秀」
安心したように顔をほころばせ、秀は伸の首に手を回して抱き寄せる。
「良かった」
伸の髪に顔を埋め、秀がささやくような声でそうつぶやいた。

 

――――――当麻を捜しに外へ行った遼と征士が柳生邸へ戻ってきたのは、もうそろそろ朝日が昇ろうとしている夜明け前の時間帯だった。
よほどあちこち探し歩いたのか、ゼイゼイと肩で息をしながら、遼が申し訳なさそうに伸と秀に告げる。
「ごめん。何処にもいないんだ。当麻」
「何処まで捜しに行ったんだ?」
秀が訊いた。
「とりあえず、家の周りをくまなく捜して歩いて、その後バス通りの方へ行った。遼にはそのまま道路を下へくだってもらい、私は山の方へと行ったのだが、何処にも奴の気配が感じられない」
さすがの征士も疲労の色を隠せないようで、言いながらトンと壁に背をもたせかけた。
「そっか……ったく、あのバカ。何処へ行ったんだか…」
言いながらしばらくの間思案顔で腕を組んでいた秀がおもむろに顔をあげた。
「なあ、征士。長い梯子ってあったっけ」
「梯子?」
「ああ」
「倉庫に二段梯子があったと思うが」
「持ってきてくれるか?」
「構わないが、それが……まさか、秀!」
征士がハッとして秀を見た。
「そういうことか?」
「そ、きっと奴はあそこにいるぜ」
ニッと笑って秀が言うと、征士は承知したと小さく頷いて、倉庫へと走った。
「あそこって……何処に居るんだよ、当麻の奴」
「あそこはあそこだよ。ほら」
そう言って秀は天井を指差した。
「なに?天井?」
遼が不思議そうに上を見あげると、可笑しそうに笑いながら秀が首を振った。
「天井よりもっと上。屋根の上だよ」
「屋根?そんな近くに居たのか?あいつ。どうりで下を捜しても見つからないわけだ」
遼が天井を見あげて不満そうに口を尖らせた。
「でも、なんでそこに居るって思うんだよ。秀」
「あいつさ。ガキの頃からかくれんぼする時って必ず屋根の上に隠れてたんだよ。今、思いだした」
「かくれんぼ?」
今度こそ呆れたように遼ががっくりと肩を落とした。
伸もそんな遼を見て小さくつぶやく。
「なるほど。何とかと煙は高いところを好むってわけか。あのバカ当麻」
「………!」
ようやくいつもの毒舌が戻ってきたらしい伸の言葉に、遼が思わず顔をあげた。
「何?遼」
「いいや。何でもない」
嬉しい反面、ほんの少しだけ寂しい気がする。
チクリと心に突き刺さった痛みを隠し、遼は伸へ笑顔を向けた。
「なんか、伸、ちょっと元気になったみたいで嬉しい」
「……………!」
「秀、持ってきたぞ。ベランダから上がろう」
肩に二段梯子を抱えて現れた征士は、そのまま中央のベランダへと向かい、屋根の端にそっと梯子を立てかけた。
「静かに上がらないとな。気付かれてまた逃げられては元も子もない」
征士までもが段々獲物を捕獲する猟師のような口調になってきている。
伸は何とも言えない表情でじっと屋根の上を見あげた。
「んじゃ、オレが行って来るよ。奴と話しもしたいし」
「秀…」
やはり少し不安そうに遼が秀を引き留めようとすると、秀は遼を振り返ってくいっと顎を屋根へと向けた。
「心配なら一緒に行くか?そのかわり、音たてるなよ」
「秀」
「伸はオレが呼ぶまで此処で待っててくれるか?」
「わかった」
伸が頷いたのを見て、秀はさっさと梯子を昇って屋根の縁に手をかけた。
そして、見事な身のこなしで音をたてずに屋根の上に飛び乗ると遼に上がってこいと合図をする。
遼も秀に負けない身のこなしで屋根の上に上がると、2人はそっと音をたてないように広い屋根の上を見渡した。
「ほら、やっぱり」
「……………」
秀の指差した方角に、見慣れた青い髪が見えた。

 

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