透明な鏡−第2章:砕けた硝子−(6)

「何やってんだよ、こんなとこで」
いきなり後ろから声をかけられ、文字通り当麻は飛び上がって振り向いた。
「し…秀!」
「オレもいるぞ、当麻」
横から遼も顔を出す。
両側から睨みつけられ逃げ場を失った当麻は情けなさそうに頭を抱えた。
「逃げるなよ、当麻。今度逃げたら、秀の代わりに、オレがお前をぶん殴るぞ」
そう言って、遼はすねたように口を尖らせた。
「ったく、ガキの頃からちっとも変わってねえなあ、お前はよ」
秀も頭を掻きながら呆れたようにため息をつく。
「……………」
「征士や遼が下でお前のこと捜してたの気付いてないわけねえだろうに、無視するってかなり根性曲がってる証拠だぞ」
「…………」
なんとも言えない顔で当麻は秀から視線をそらす。
そんな当麻を見下ろして、怒りを隠そうともせず、秀は腕を組んだ。
「大体、お前がしたことは征士にかばってもらえるような事じゃない。征士が甘いのをいいことに我が儘とおすのも大概にしろ。伸にだって、ちゃんと謝ってねえだろうが」
「………!!」
やはり伸の名前には極度に反応するらしく、当麻がビクッと顔を強ばらせた。
「他の事はともかく、伸にだけはちゃんと謝れよ」
「でも…伸は…」
「伸はお前に逢いたいって言ったんだ」
秀の隣で遼がこれ以上ないくらいせいいっぱい不機嫌そうな顔をして当麻を見下ろした。
「オレがどうしたいって伸に訊いたら、伸はお前に逢いたいって言った。オレはそれを伝えにきたんだ」
「……伸が…オレに…?」
「オレはな、当麻」
秀がぽつりと言った。
「オレは自分がそんな了見の狭い男だとは思ってない。ガキの頃からのお前を知ってるからなおさらだ。お前がどんなバカなことやっても大抵許せると思ってた。でも、ああいうのはごめんだからな。だから、お前を殴った事、謝る気は更々ない」
「…わかってる」
「だけどさ、オレ、わかんねえんだよ。お前、今更何焦ってんだ」
当麻のそばにしゃがみ込んで秀が言った。
「今までだってずっと長い時間かけてきたんじゃねえか」
「……………」
「オレだって征士だって知ってる。お前がどれほどの長い時間を、そうやって過ごしてきたのか。ちゃんと知ってる」
「……………」
「焦って壊して。お前はいったい何をやってんだよ」
「…そうじゃない……オレは……ただ…」
「ただ…?」
秀が小首をかしげた。
「オレは、ただ嫉妬してただけなんだ」
そう言って、当麻は遼へ目を向けた。
「自分でもバカなことしてるという自覚は充分ある。でも、駄目なんだよ、遼」
「………………」
「……オレの中の醜い心がどんどん前面へ出てきているのも、自分がどんどん最低な奴になっていってるのもわかってる。でも…わかっていても駄目なんだ。本当に。あいつの口からお前の名前が出る度、自分の中で抑えが効かなくなっていく」
「………………」
「オレは嫉妬してるんだ。お前に。あいつの心の大半を占めているであろうお前の存在に、ひどく嫉妬しているんだ。遼。すまない」
「………………」
「オレはあいつに見返りを求めてる。こんなのは恋でも愛でもない。オレは、ただの卑怯者だ」
「…そんなこと…ない」
ぽつりと遼が言った。
「お前は伸を好きなだけなんだろ。だったら卑怯者でもなんでもない」
「………………」
「それに……オレにだってわかるよ。どうしようもなく伸を好きな気持ちくらい」
そう言って僅かに唇を噛んで遼は俯いた。
やがて、当麻のそばにしゃがみこんだままだった秀が、ひとつため息をついて、さっと立ち上がった。
「ま、とにかく伸を呼んでくるから、ちゃんと謝れよ当麻。伸はお前を嫌ってないらしいから」
「…えっ?」
驚いた顔で秀を見あげる当麻にふっと肩をすくめてみせると、秀がもう明るくなりだした空を指差した。
「もし、伸が本気でお前のこと嫌ったり、許せないと思ってたら、今頃どしゃぶりの雨が降ってる。そう思わないか」
「…………」
「見事な朝焼けだよな。当麻」
朝日に照らされた顔で、秀がそう言った。

 

――――――「……本当か?伸」
秀に呼ばれて入れ替わりに屋根に上がってきた伸に向かって、おずおずと当麻が訊いた。
「秀の言ったことは本当か?」
一言一言確かめるように当麻が言葉を綴る。
当麻が凍えたような怯えた表情をしているのは、朝の少し冷たい風の所為だけではないのだろう。
「秀が…何?」
ささやくような声で伸は当麻に問い返した。
「何か言ったの?秀は」
「雨が降ってないのは、お前がオレのことを嫌ってない証拠だって」
「雨が…?」
言われて伸はゆっくりと朝日の昇る山の上を見あげた。
見事なほどの朱に染まった空の色。澄んだ空気。
確かに雨の降る気配は何処にもない、雲ひとつない晴天になりそうな朝の空だ。
小さく息を吐き、伸は当麻へ向き直った。
「君の所為で破けたシャツ、弁償して欲しいんだけど、いいかな?結構お気に入りのシャツだったんだよね。あれ」
「………悪かった………」
バツの悪そうな顔で当麻は伸から視線をそらせた。
「それから、僕の事ももちろんだけど、その所為で、秀や征士に嫌なこと思い出させた責任もとってもらわなきゃ」
「秀と征士の…?」
「過去の思い出をずっと抱えているのは、君だけじゃないってこと。智将のくせに、そういうところかなり抜けてるんだよね、君って。その自覚ある?」
「……………」
「このバカ当麻」
当麻が顔をあげると、伸はすっと当麻に背中を向けて再び空を見あげた。
「昨夜言った事は取り消すから」
「……………」
「だから……元に戻ろう」
「元に…?」
それは、どれくらい元にだろう。
出逢った当初だろうか。これ程まで自分の気持ちが抑えられなくなるその前だろうか。
「伸…元に戻るというのは…つまり…そういう意味か?」
「……えっ?」
すっと当麻が立ち上がると、伸がビクリと振り返った。
と、その時、突然、屋根の上を突風が吹き抜ける。
「……!?」
とたんに斜めになっている屋根の斜面で伸の身体がぐらりと揺れた。
一瞬の焦りの所為か、戸惑いの所為か、伸は此処が屋根の上だと言うことを忘れて、段差のあるところに足を乗せてしまったらしい。
「うわっ!!」
「伸!!」
バランスを崩して屋根の上に手をつきかけた伸は、思わず当麻の服の袖を掴み、当麻は伸を支えようと反対側の腕を伸ばす。
結果、2人はもつれ合ったまま、屋根の上を滑り落ちた。
「うわぁぁ!!」
絶対落ちる。地面へ激突するかも知れない。
そう思ってギュッと目をつぶってしまった伸の身体は、何故か地面へ激突することもなく、屋根の途中で停止した。
「……?」
恐る恐る目を開けると、当麻が精一杯腕を伸ばし、足を踏ん張って、屋根の上で身体を固定していた。
此処の家の屋根が広くて良かった。
本心からそう思って、伸は安堵の息を吐いた。
とたんに耳の横から当麻の戸惑った声がする。
「悪かった」
「……………」
「本当に悪かったと思ってる。ごめんな、伸」
思わず当麻の方へ顔を向けた伸は、次いであまりの至近距離に声を失った。
今にも触れそうな程近くに当麻の顔がある。
しかも、自分は今当麻の腕の中にいて、身動きがとれない状態なのだ。
少しでも動こうものなら、今度こそ一人で屋根から地面へと落ちてしまうだろう。
「…あ…」
伸の心の動揺を感じたのか、当麻がすっと伸から顔をそむけた。
とたんに何故か伸の胸がズキンと痛む。
「…当麻…?」
「悪い。ちょっとだけ我慢してくれれば、すぐ離れてやるから。そして、もう二度と触れないよう気をつけるから」
「………えっ……?」
ゆっくりと体勢を立て直し、当麻は伸の身体を支えたまま屋根の中央に突き出ていた煙突に手をかけ、身を起こすと、なんとか滑り落ちない場所まで身体を引き上げた。
『もう二度と触れないよう気をつけるから。』
当麻の言葉が伸の頭の中を駆けめぐる。
とたんにズキンと胸が痛む。どうしようもないほど胸が痛む。
苦しげにひそめられた当麻の形のいい眉。
少し長めの前髪から見え隠れする宇宙色の瞳。
伸の身体を支えてくれている細いくせにやけに力強い腕。
伸は自分でも気付かないうちに、当麻にしがみついている腕に力を込めていた。
「伸……?」
安全な場所まで身体を引き上げたのに離れない伸に、ようやく当麻が不審気な目を向けた。
「…伸…?どうした?……もう離れても大丈夫だぞ」
「………………」
「伸?」
伸がすっと顔をあげて当麻を見た。
「……一応言っとくけどね。僕は本当だったら君みたいなタイプ、絶対友達に選ばないはずなんだ。我が儘で自己中心的で共同生活ってものをわかってなくて」
「……………」
「朝はいつまでたっても起きないし、食事の用意は当番制にしようとか言いながら結局僕にばかり押しつけるし、手伝ってもつまみ食いばかりして全然役にたたないし、人の仕事の邪魔ばかりするし、頭良いくせに人とのつき合いってものわかってなくて、常識がなくって、何言ってもマイペースで」
「……………」
「ホント、絶対近づきたくない人種のはずだったのに」
「……………」
「なのに……」
「……………」
「それなのに、なんで僕は君みたいな奴、好きなんだろう」
「……!!」
当麻が驚いた顔で息を呑んだ。
「なんで、こんなに好きなんだろうね」
「…伸……」
「…もう、いいから」
「……………」
「だから…もうしばらく、こうしてて…」
そう言って、伸は当麻を抱きしめた。
思いがけない伸の行動に当麻の身体が硬直する。
「…伸…オレは……」
抱きしめられた腕からは、懐かしい、優しい海の匂いがふわりと香っている。
「…伸……」
そっとそっと腕をのばし、当麻はおずおずと遠慮がちに伸の身体を抱きしめ返した。
「オレは、お前を好きでいていいのか?」
当麻の腕の中で微かに伸が頷いた。
「…これからも、ずっと…ずっと好きでいていいのか?」
微かに伸が笑みをこぼす。
「伸……お前はオレのこと、少しは好きでいてくれるのか?」
「少しじゃないよ、当麻」
そっと身体を離して当麻を見つめる伸の瞳は、いつもの優しい澄んだ緑の瞳だった。
朝日が、伸の髪の間から光の粒を覗かせる。
今にもこぼれ落ちそうな光の粒子をすくい取りたくて、当麻がそっと伸の髪に触れると、伸はくすぐったそうに小さな笑い声をたてた。
そんな伸の笑顔が眩しくて、当麻は思わず伸の髪を絡め取り、もう一度伸の身体を自分の方へ引き寄せた。
ほんの一瞬唇が触れ合う。
「………!」
驚いた顔で伸は当麻を見上げたが、もうその手を引きはがそうとはしなかった。
本当に、どうして此処まで惹かれるのだろう。
柔らかな栗色の髪。澄んだ緑の瞳。優しい海の匂い。
誰よりも誰よりも愛しい人。
「…何て顔してんだよ…バカ」
「伸……」
「………………」
「もう…駄目だ」
「……え?」
「オレ…お前がいないと生きていけないらしい…」
「…とう………」
伸の言葉は、再びおりてきた当麻の唇に遮られた。
「…んっ…」
伸の喉が鳴る。
唇から漏れる今まで聞いたこともないような甘い吐息に、当麻の身体の奥がジンと熱くなった。
そっと舌を絡め取ると、僅かに伸の手がピクリと反応を返す。
とろけるような甘い感覚の中、ようやく唇を離すと、伸は僅かに上気した頬をして当麻を見つめていた。
「…いきなり…何するんだよ…当麻…」
掠れた声がやけに艶めいて聞こえる。
「言ったろう。もう駄目だって。……嫌なら心おきなく屋根の上から突き落としてくれ」
「…そんなこと、出来るわけないじゃないか」
おもわずそうつぶやく伸が愛おしくて、当麻は再び伸の身体を抱きしめた。

 

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