イカロスの翼 (5)

自室のベッドの上で、所在なげに頭を掻く秀を見下ろし、伸は呆れたように腕を組んで壁際にもたれると、冷たい視線を投げた。
「なんというか、君のその底知れない体力には敬服するけど、どうして子犬を助けて全身ずぶ濡れになった君がピンピンしてて、一緒に居た征士の方が熱出して寝込むわけ?」
「んなことオレに言われても解るわけないだろ。それにそう言うんだったら何でオレまで部屋に閉じこもってなきゃいけないんだよ。征士の具合が悪いんなら見舞いにくらい行かせてくれよ」
「征士は今面会謝絶。君は後先も考えず馬鹿なことをした自分の行動をしばらく反省してなさい」
ピシャリと冷たく言い放って伸は部屋を出ていった。
夜もだいぶふけてしまった頃、ようやく家に辿り着いた秀と征士は、玄関口に飛び出してきた遼に子犬を渡すとそのまま廊下に倒れ込んでしまったのだ。
子犬を助ける為とはいえ、この寒い中、寒中水泳をするという常軌を逸した行為をした秀と、そのせいで濡れネズミになってしまった秀に自分の上着を貸してやり、火もない寒い駐車場で長時間過ごすはめになってしまった征士。
具合が悪くなって当然である。
秀に関しては、暖かい部屋と暖かい食べ物ですぐ良くなったのだが、征士のほうは食べ物も受付けないくらい消耗しており、そのままベッドに直行することとなった。
むちゃをした秀にひとしきり説教をして、伸がしぶい表情のまま部屋を出てくると、ちょうどその時、遼も征士の部屋から出てきた所で、伸の姿を見つけると笑顔で駆け寄ってきた。
「秀の様子はどうだ?」
「あれは大丈夫。寒中水泳しようが、雪の中で我慢大会しようが、南極でかき氷食べようが、風邪菌のはいる余地は何処にもないね」
「良かった」
素直に喜ぶ遼にふっと微笑み返し、伸は先に立って1階へと階段を降りはじめた。
「征士のほうは? まだ熱高かった?」
「ああ。呼吸は随分楽そうになったけど、まだちょっとな。でもさっきようやく薬が効いてきて眠ったんで、このまま一晩暖かくしてれば大丈夫じゃないかな。なんか気持ち良さそうに寝てたし」
「そっか。ならいいけど。本当にむちゃするからな、二人とも」
「別にむちゃするのは二人だけの特権じゃないだろ」
軽く笑い声をあげながら居間へ向かうと、遼はソファの上で毛布に包まったまま寝息をたてている子犬の元へ駆け寄った。
「もしその現場に居たら、オレも河へ飛び込んだかもしれない。伸だってそうだろ」
「僕?」
「そう」
起こさないように気を付けながら、遼はそっと子犬を撫でる。
「こんな可愛い子犬が溺れてんだぜ。オレ、お前が真っ先に飛び込むような気がする」
「遼、僕はさっき秀にあんまり馬鹿なことするなって説教してきたんだよ」
「そりゃそうだろう。お前は自分がむちゃすることは平気なくせに、人がむちゃするのは黙ってみてられない性質だもんな」
「…………!」
言葉に詰まり、伸は遼を見下ろした。
遼は相変わらず、そっと優しく子犬の毛を撫でている。
「遼、あんまり僕を買被らないほうがいい」
「買被ってなんかいないぜ、オレは」
伸の言った言葉に当然のように遼は答えた。
「オレは知ってるだけだよ。お前がそういう奴だってこと」
「…………」
にこりと微笑みかけてくる遼を見て、伸は小さく肩をすくめると遼の隣に腰をおろした。
いつのまにか子犬を両腕に抱え込んでいた遼は、そのまま伸のほうへ身体を向け、伸の膝の上に子犬を乗せる。
「こいつ首輪してるから飼い犬だな。明日、雪が止んだら返しに行かなきゃ」
「そうだね」
膝の上にある心地良い重みに自然と笑みがこぼれてくる。
そっと頭を撫でると、子犬が気持ち良さそうに鼻を鳴らした。

 

――――――伸がいなくなった頃を見計らったように部屋に顔をだした当麻は、椅子の背に腕を乗せ頬杖をついて、秀を見下ろした。
「随分しぼられたみたいだな」
からかうような口調で当麻が言うと、秀は肩をすくませてふっと笑った。
「まあな。無茶しすぎだって言われた」
「そうか」
「やっぱ、そんなに心配してたか?」
探るように秀が聞く。
「そりゃするだろう。いくらお前でも不死身なわけじゃないんだからな。何かあったのかもしれないって、伸も遼も心配してた」
「…………」
「なあ、秀」
「ん?」
「ひとつ良いこと教えてやろうか」
「…………?」
にやりと笑って当麻は秀を見た。
「本当ならあんまりこんな事は教えるべきじゃないのかもしれないんだけどさ」
「何だよ。何の事だ?」
当麻の言わんとしていることの見当がつかず、秀は首をかしげて当麻を見返した。
「オレさ、お前等の事に関してはあんまりよく知らないことが多かったからさ。どう対応していいかわからなかったんだが、征…征士の様子見てたら、言ったほうがいいのかなあって思って。お前は、ちゃんと知っておいたほうがいいのかなあって……」
「当麻」
意味不明な当麻の言葉を遮って秀は困ったように眉を寄せた。
「悪い。本気でお前が何言ってんのかわからん」
「だろうな」
じっと秀を見つめて当麻がふっと真面目な表情になった。
「これからオレが話すことは真実だからな。オレはお前等の背景なんぞ知らん。だから本当にあった事だけ話す。いいな」
「…………」
当麻の深い宇宙色の瞳がほんの少し苦しげに曇った。
「遥か昔の事だ。お前が禅という名前だった時代の話」
「…………!?」
「お前と紅は一番最後にオレ達の仲間になった。その所為かどうか知らないが、紅はなかなかオレ達に心を開いてくれず、オレも随分困ったことを覚えている。一緒に戦うようになっても、何処かで一線置いているのは傍目にもよく解ったし、お前があいつに触れないよう細心の注意を払ってることも知ってた。他人の過去を粗捜しする趣味はなかったんで多くは知らないが、お前等がオレ達に出会う前、どんなことがあったのかも少しは耳にした」
「…………」
「あの時、最後の力を振り絞って4人で結界を張った日。その前に受けてた傷が元でまず柳が散った」
ビクリと秀の顔が引きつった。
「柳の気の消滅に気を取られて、オレ達の間でほんの一瞬隙が生じた。お前はその時紅を庇って死んだんだよな」
「……覚えてるよ」
ぽつりと秀が言った。
「オレはあいつを置いて逝っちまった。悔やんでも悔やみきれない失態だ」
「そうだな。あれはお前の失態だ」
「…………」
「だが、オレが話したいのはその後のことだ。お前が亡くなった後、紅はどうしたと思う?」
「…………!」
初めて秀が顔をあげてじっと当麻を見た。
「オレが……死んだ後……?」
「そうだ」
「……」
「目の前でお前が息を引き取った瞬間、紅は狂ったように泣き出した。後にも先にもあいつがあそこまで自分の感情を表にだしたのは見たことがない。何度も何度もお前の名前を呼んで、お前の身体に取りすがって、泣いて泣いて泣き続けて。あいつは、オレが何を言っても離れようとしなかった」
「…………」
「それどころか、誰もあいつのそばへ寄れなかった。あの時、紅の身体から真っ白な光が放出されて、周りにあった建物も木々も、もちろん妖邪兵も何もかもが一瞬のうちに吹き飛ばされた。オレ自身、自分が無事だったことが信じられなかった程だ」
「……そんな…ことが……?」
「いつの時代もそうだ。光輪は己が一番愛した人間が亡くなった瞬間、誰よりも強い力を発揮する。その時の光輪の力の暴走は誰にも止められない。それが奴の運命なのだとしたら、こんな哀しいことはないと思う」
「…………」
「あいつの力が暴走したのは2回。覚えているかどうか知らんが、2回目の暴走は夜光の姫が亡くなった時だ」
「……あっ……!」
「傍目には解り難いが、奴はきっと誰よりも真っ直ぐに人を愛する人間なんだ。オレはあの時初めて、本当の紅の姿を見たような気がした。あいつがどれほど深くお前のことを想っていたのか知った。あいつはお前の手を握り、腕をさすり、頬に触れては涙を流していた。ずっとずっと。失って初めて、紅はお前の手が欲しいと思ったんだ。お前が差し伸べる手を、自分が欲していたことを知ったんだ」
差し伸べる手。触れ合った温もり。
それはとても大切なもので。必要なもので。
決して拒むべきものなどではない。
怯える必要などどこにもない。触れ合った手は、こんなにも暖かかったのだから。
こんなにも心安らぐものだったのだから。
「紅はずっとお前の亡骸を抱きしめていた。誰もそんな紅に近づくことは出来なかった。紅のそばに居ることが出来た唯一の人間は、お前だけだったんだよ」
「…………」
「紅はもう怯えてなんかいない。お前がそのことを気遣う必要はない。あいつはお前の手を欲しがっていたんだから。ずっとずっと、長い間」
「…………」
ずっとずっと長い間。
ぎゅっと拳を握り締めて立ちあがると、秀は震えるような小さな声で言った。
「……そばに……あいつのそばに居てやっていいかな。静かにしてるから、だからあいつの所に行ってもいいかな」
「後で伸に何か言われたらオレが代わりに殴られてやるよ」
感謝を込めた目で当麻を見ると、秀はそのまま静かにドアを開け、向かいの征士の部屋へと入って行った。
部屋の中は小さな明かりがひとつ灯っているのみで、征士はベッドの上で、安らかな寝息をたてている。
秀は静かにベッドの脇に歩みより、じっと征士の端正な顔を見おろした。
「…………」
淡い黄金色の髪、白い肌。長い睫毛。
繰り返し綺麗だと言い続けた紅の面影が微かに残る顔。
触れることすらためらわれるほどの、大切な大切な宝物。
「……秀…か……?」
ゆっくりと征士が目を開けた。
紅と同じ薄紫の、スミレの花のような瞳が秀に向けられる。
「悪りい。起こしちまったか」
「……いや」
ふっと征士が微笑む。
「ちゃんと寝てろ。ここに居るから」
「秀……?」
「お前が元気になるまで、ずっとここにいるから。もう逃げたりしないから。お前を置いて逝っちまったりしないから。お前を独りになんてしないから」
「……秀……?」
「ちゃんとここに居るから。此処に」
此処に。
オレ達の居場所に。
「だから、安心して寝ろ」
「…………」
一瞬不思議そうに秀を見上げた後、征士は小さく頷いて静かに目を閉じた。
秀はベッドのそばに椅子を引き寄せて腰掛けると、そっとシーツの皺を直し、征士の額に手を置いた。
少し汗ばんだ額。秀はそばのサイドテーブルの上に乗っていたタオルを手に取り、征士の額の汗を拭うと、乱れた前髪を整えてやった。
色素の薄い、学校の女子連中からは陶器のような肌だと言われているきめこまかな白い肌。
紅の時も、夜光の時も、そして今現在も。
光輪は相変わらず綺麗だ。
綺麗で、透明で、硝子のような魂。
安心したように微笑んで、秀はそっと征士の額から手を離した。
外ではまだ雪がしんしんと降り続いていた。

FIN.      

2003.8 脱稿 ・ 2004.04.17 改訂    

 

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