イカロスの翼 (4)

「待っててもバスは来ないわよ」
大きな傘をさしてバス停の前を通りすぎながら親切なおばさんが征士に向かって声をかけてきた。
「そこの高校の子でしょう。バス通学なのね」
「あ……はい」
「さっきまでは動いてたんだけど、ちょうど1時間くらい前かしら、大雪の為運行中止って案内があったわよ」
「そうなんですか?」
驚いて聞き返した征士に気の毒そうな目を向け、おばさんは頷いた。
「普段滅多にないからね。ここまで降るのって。東京方面でも何本か電車も止まってるって言ってたし、これだから雪に強くない地方は大変なのよね。すぐに混乱しちゃって」
子供の頃過ごした仙台では、この程度の雪ならタイヤにチェーンをはめて充分バスも車も走っていたはずだ。
関東地方が雪に弱い地域だということは聞いていたが、これほどとは。
征士は恨めしげに一面真っ白になるほど降りつづけている雪を見上げた。
だが、確かに言われてみれば先程からバスどころか車もほとんど行き交っている様子がなく、たまに見かける車もかなり危なっかしげな運転に見える。
こんな状態の中でバスをだせば事故を起こす危険がないとは言えない。そう考えると運行中止の判断も的確な判断だと言えるし、仕方がないといえば仕方がないのかもしれないが、この状況はあまりあり難くはない。
つまり、家に帰るまでの足がないということは、この雪の中、歩いて帰るしか方法がないということなのだ。
「……まいったな」
がらにもなく愚痴をこぼして征士はバス停を離れて歩き出した。
バスは1時間前までは動いていたということなので、毎日部活動をしているわけではない伸達は運良くバスに乗れて家に辿り着いているだろう。
「…………!」
そこまで考えて征士はふと足を止めた。
ぐるりと周りを見まわす。
道路をはさんで見えている高校の建物を見上げ、征士はすっかり暗くなってしまった道を学校に向かって引き返して行った。
「やはり、まだいたのか」
学校の正門の前まで辿り着いた時、ちょうど出てきた人影に目を止めて征士がつぶやいた。
「あれ……征士……」
正門前で足を止め、秀が意外そうに目を丸くする。
「どうしたんだよ」
ほんの少しバツが悪そうに秀は征士を見上げた。
先日、剣道場の前で些細な言い争いをしてしまってから、どうもお互いがお互いに対してぎこちない態度をとってしまっている。そのせいか、いつもの秀の元気の良い笑顔は征士に向けられてこない。
征士はわざとそれに気付かないふうを装って、先程知ったバスの運行中止の件を秀に告げた。
「じゃあ、何? 家まで歩きなのか? オレ達」
「そういうことだ」
「あちゃー。こんなことなら早めに帰ればよかった。ドジ踏んじまったなあ」
そう言いながら秀は頭の上の雪を払う。
「お前、傘も持ってきてないのか?」
見ると、秀の荷物は学生鞄がわりのスポーツバックのみ。傘は手にしていない様子だった。
「仕方ねえだろ。朝は雪降ってなかったんだし、どうせバスだから大丈夫だと思ったんだよ」
「お前という奴は……」
呆れながらも征士はさっと自分でさしていた傘を秀の頭の上にかかげる。
トンッと触れた腕に一瞬秀の表情が強張った。
「い……いいよ。傘なんて今更」
「何を言う。これから少なくとも1時間は歩いて帰らねばならないんだ。傘もなく歩いていたら、いくらお前でも風邪をひくかもしれない」
「1時間? そんなかかるか?」
「普通にバスで帰って2〜30分かかるんだ。しかもこの雪だし、家は山の中腹にあたるのだから、帰り道はほとんど上り坂だろう。私はこれでも控えめに言ったつもりだったんだがな」
すっかり相合傘で帰るつもりでいる征士の様子に諦めたように肩をすくめ、秀は征士と並んで帰り道を歩き出した。
「オレがまだ残ってると思って引き返してきたのか? 征士」
征士の肩に雪がかかってるのを見て、傘を征士側へ押し戻しながら秀が聞いた。
「今日はこの間頼まれて出場することになったバスケ部の練習があると言っていただろう。先程、そのバスケ部の連中の姿を見かけたので練習が長引いていたのだと判断したのだが」
「なるほどね」
「お前のことだから、気付かずにずっとバス停で待ってないとも限らん。さすがに置いて帰るのは気が咎めるんでな」
「ちぇっ、何だよそれは」
拗ねた口調で唇を尖らせる秀を見て、征士がふっと笑った。
雪はどんどん酷くなり、夜になった所為もあってかなり視界も悪い。
まだ幸いだったのは、雪が降り続いているおかげで地面はまだ凍ってはおらず、さほど足元に注意せずとも滑らずにすんでいることだった。
ただ、逆に柔らかい雪がどんどん道路に積もってきて、一歩進むごとに雪に足首まで埋もれてしまう。
歩き難さでいえば、どっちもどっちかもしれない。
「なんだか、北海道にでも旅行に行った気分だ」
「別に雪が降るのは北海道だけではないぞ」
「イメージだよイメージ。お前と違ってオレは雪知らずの横浜育ちなんだから」
確かに東北や日本海側と違って、横浜には滅多に大雪は降らないのかもしれない。
「やはり、過ごしてきた時間が違うのだな」
「……えっ?」
「何だか生まれてからずっと共に居るような錯覚を起こす時が多いのに、こういう時は、そうではなかったのだと、ふと思い出す」
「それは……」
足を止め、秀はじっと征士を見上げた。
同じ時間。同じ記憶。
誰にも侵害されない、二人だけの記憶。
「征士…でもさ、でも、同じ時間を共有してても同じ苦しみを分け合えてるわけじゃないんだよな」
ほんの僅か、秀は征士のそばから身を引いた。
「オレ、昔のこと思い出すたび、悔しくて悔しくて仕方なくなる。自分の力のなさが情けなくて…………」
「秀、だからなのか?」
「…………」
ピクリと秀が反応した。
「秀、私にはわからない。お前は何故そこまでこだわるんだ」
「なんでって……」
くしゃりと顔を歪めて秀は征士を見る。
「理由はお前以外の誰にもわからない。お前にしかわからない」
「それは……」
征士が何か言いかけた時、さっと傍目にも解るほど秀の顔に緊張が走った。
「……!?」
「征士、話はあとだ」
言うが早いか、秀は肩に背負っていたスポーツバックを地面に投げ出し、突然走りだした。秀が駆けて行く先を振り返ると同時に征士は投げ出されたバックを抱え直し、秀の後を追う。
秀は、走りにくい雪の中を何度も転びそうになりながら、それでも全速力で走り続け、ようやく雪の所為で水かさの増した河岸へ走りつくと、じっと目を凝らして水面を見つめた。
「何かいるのか」
「やっぱり……」
秀の指差した先、河の中に何か茶色っぽいものが浮かんだり沈んだりしながら下流へと流されているようだった。
「さっき子犬の鳴き声が聞こえたんでまさかと思ったんだが、雪で足滑らせたんだ。きっと」
暗くてよく見えなかったが、確かに水面に浮かんできたぬいぐるみのような小さな動物はどうやら子犬に間違いはないようだった。
今にも消え入りそうな声で鳴く子犬を見て、秀はいきなり河岸のフェンスを乗り越え、河の中へとダイビングした。
「秀!!」
秀が走り出した時から、こうなるだろうとは予想していたが、さすがにこの真冬、しかも大雪が降っている凍えるほど寒い夜、河に飛び込んだりして大丈夫だろうか。
征士は慌てて持っていた鞄や荷物を道路脇に置き、秀の後を追ってフェンスを飛び越えた。
「秀! 大丈夫か!?」
そのまま水際を下流へと走り、手にしていた傘を棒代わりにして河の中央に向けて腕を伸ばす。
「秀、掴まれ!」
「おっしゃ!」
子犬を片腕に抱えたまま、秀の手が征士の差し伸べた傘を掴む。
と、同時に征士は腕を引いて秀と子犬を河岸へと引っ張り上げた。
ずぶ濡れのまま河岸に辿り着き、秀はようやく安心して大きく息を吐いた。
「サンキュー。助かった」
歯の根が合わないほどガタガタ震えながらも秀がにっこりと笑う。
「本当に無茶苦茶な奴だな。貴様は」
呆れてそう言った征士を見て、秀はおかしそうに笑った。
「何言ってんだ。お前だって飛び込もうと思ったくせに」
グッと言葉に詰まった征士を見て秀が更に声をあげて笑う。
と、それに触発されたのか、秀の腕の中の子犬がキューンっと小さく鼻を鳴らした。
「おっと大変だ。こいつ何とかしなきゃ」
濡れた毛が張り付いて、ガタガタと震えている子犬を腕に抱えたまま秀が立ちあがった。
「このままじゃ凍えちまう。とりあえず近場で屋根があるところ探そうぜ」
「そこの先に立体駐車場があったはずだ。今なら入り込んでも誰も咎めはしないと思うが」
「んじゃ、そこ行くか」
河岸の脇を走っている道路の向こうに見える立体駐車場へ向かって秀が足早に歩き出した。
征士もすぐに二人分の荷物を抱えると、秀の後について歩き出す。
雪は更に更に酷くなってきていて、二人は身体の芯まで冷え切ってしまわないよう、ついに駆け足になって駐車場まで辿り着いた。

 

――――――雪のせいで交通状態が麻痺しているだけあって、いつもなら満車状態であるこの立体駐車場も今日は1台も車の姿がない。
「さすがに人っ子ひとり居ないな」
ポタポタと濡れた髪から滴をしたたらせながら秀が言った。
学校前の大通りを歩いていた時は、まだちらほらと見えていた人影も、ここまで来るとほとんど居なくなる。
恐らく地下鉄や駅の構内には帰りそびれた人達もいるのだろうが、さすがにこの先の道は山の方へと続く道であり、住宅も少なくなって来ている。
「とにかくこいつを何とかしねえと」
もうほとんど鳴く気力もなくぐったりしている子犬をそっと床へと降ろし、秀が困ったように頭を掻いた。
「まさかこんな所で火を焚くわけにもいかねえし……」
「それ以前に火を起こす道具などないだろう」
もっともな事を言いながら、征士は自分の鞄の中からスポーツタオルを1枚取り出した。
部活動を行っている者の必需品である。
「とにかくこれで身体を拭いてやろう。そのままでは濡れた毛の先が凍り出すぞ」
「サンキュー」
征士からタオルを受け取り、秀はまず子犬の身体をくるむようにタオルで包み込むとゴシゴシと擦るように子犬の身体を拭いてやった。
冷え切った子犬の身体が少しずつ温かみを帯びてくる。
やがてガタガタと震えていた身体の震えが止まり、子犬がクーンと小さく鳴き出した。
ようやく秀がほっと安堵の息を洩らす。と、その時秀の頭の上にもう1枚タオルがポンっとかぶせられた。
「ほら、子犬だけではなく自分の方も何とかしろ。肺炎になっても知らないぞ」
「……悪い」
「さっきちょっと使ったやつなので、まだ少し濡れているが、これでも拭かないよりましなはずだ」
「…………?」
頭にかぶせられたタオルの端を秀はギュッと握り締めた。
見覚えのない若草色のタオル。こんな色のタオルを征士は持っていただろうか。
「征士、これって……」
「先輩が貸してくれたものだが、どうせ洗って返すつもりだったのだから多少は構わないだろう」
「…………」
先輩。それはこの間、剣道場の前で会ったあの背の高い先輩、鷹取のことだろうか。
「秀?」
急に黙ってしまった秀を気遣うように征士がすっと身体をかがめて秀の顔を覗き込んだ。
近づいてきた征士の顔に、秀が慌てて後ろへと飛び退く。
「…………!」
不自然に開いた距離の長さに征士が不快そうに眉をひそめた。
「秀。どういうつもりだ」
「……どうって……」
背中を壁につけたまま、秀がぎこちない表情で征士を見返した。
「あ…あの……オレ、ほら濡れネズミだから、近寄るとお前まで濡れちまうし、だから……その…」
「今更、何も変わらないだろう。私も傘をたたんだ時点で同じだ」
「…………」
「秀、さっきの話の続きだ。何故お前はそこまでこだわるんだ」
「…………」
秀はしばらくの間、じっと征士の端正な顔を見つめ続け、そして、黙ったままふっと視線を落とした。
「秀……」
「……寒いな。ここは」
やがて、ぽつりと秀がつぶやいた。
「寒くて寒くて凍えそうだ。あの時もそうだった」
「…………」
「冬はあんまり好きじゃない。夏よりも更に辛くなるから。オレじゃ、お前に何もしてやれないことが解って、辛くなるから」
「……秀……?」
「覚えてないか? やっぱりこんな凍えるくらい寒い日。オレ達は身を寄せ合うことも出来ずただ黙って座っていた。凍える手足を抱え、お互いガタガタ震えながら、それでもオレ達の間にはいつも一定の距離があった」
「…………」
「どんなに時間が経っても紅の心の傷は癒えない。オレは紅の背中を擦ってやることも出来ない。かじかんだ手を暖めてやることも出来ない。オレは、それが悔しくて悔しくて」
そう言って秀は自分の膝の間に顔を埋める。
征士には何だか秀が泣いているように見えた。
「解ってんだよ。お前と紅は違うってことくらい。お前はもう、あの頃の紅じゃないってことくらい理解してる。でも、怖いんだ。怖くて怖くて仕方ない。どんな時も、どんな瞬間も忘れられないんだ。お前が真っ青になってオレを見た目の色も、怯えた表情も、こんなに鮮明に覚えてる。お前が夜うなされてたことも、誰が差し伸べる手も拒否して一人で耐えていたことも何もかも。どうしても頭から離れない」
「……秀…」
本当なら心安らぐはずの暖かい手。人の温もり。
それが紅にとっては吐き気がする程に耐えられないものだった。
触れただけで心が悲鳴をあげる。身体が拒否反応を示す。
湧き上がる嫌悪感。最悪な思い出。
「秀、私は此処にいないほうがいいか?」
「……!?」
秀が驚いて顔をあげた。
「私がそばにいることでお前が苦しむのなら、私はお前のそばにいないほうがいいのか」
「せ……征士…!」
すっと立ちあがりかけた征士の服の袖を秀はとっさに掴んだ。
「ま…待てよ」
「…………」
「ここに居ろよ」
「…………」
「ごめん……ごめん……その…ここに居ろよ」
「…………」
「悪かった。ごめん……謝るから」
「…………」
征士は秀の頭の上のタオルをそっと取ると、直接秀の髪に手を置き、くしゃりと掻き回した。
「秀、私はもう大丈夫だ」
「…………」
「私はあの頃のまま立ち止まっているつもりはない。紅の傷は、もうとっくに癒えている」
「……征士」
「お前が癒してくれたんだ。何度も何度も繰り返し、お前が紅に言った言葉を私は覚えている。お前が紅に運んでくれた倖せを私は覚えている」
「…………」
「辛かった思い出より、お前が運んでくれた倖せのほうを私はより多く思い出すことができる。感謝している。私が出会うべき仲間がお前であった運命に、私は心から感謝している」
「…………」
「それでは、駄目か?」
「……征士」
「それでは、駄目なのか?」
「…………」
ふいに先日の伸の言葉が蘇る。
『一卵性双生児は、もともと一つの卵だったんだよ。もともと同じだったものなのに、君にだけ受け継がれないものなんか無い』
「…………」
紅の魂。
それがどんな形をなすものかわからないが、もしかしたら自分はそれをきちんと受け継いでいるのかもしれない。確かに。
そんな気がする。
記憶の共有だとか、鎧珠の影響だとか、使命だとか、そんなものではなく、もっともっと深い部分で自分はきっと紅と繋がっている。
紅が憧れた太陽。太陽のような笑顔。
ずっとずっと一緒に居たかった、大切な太陽。
「…………」
征士は秀の髪に乗せていた手を離し、そのままその手を秀の背中にまわした。
「征士……?」
いつまでも怯えているわけにはいかない。いつまでもこのままで居られるわけはない。
手を伸ばさなければ、掴めるものも掴めない。何も手に入らない。
「……征…士……?」
「せっかく二人でいるのに、一人で凍えている必要はない」
「…………」
「私達はちゃんと凍えない為にお互いが必要なことを知っているのだから」
「…………」
「違うか? 秀」
「……違わない」
「…………」
「違わないよな。征士」
最初は壊れ物を扱うようにそっとそっと、そして、そのうち誰にも渡したくない宝物を抱えるように、秀は力強く征士の身体を抱きしめ返した。
触れ合った肌は、一人で膝を抱えているより、何倍も何十倍も暖かく感じた。

 

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