イカロスの翼 (3)

「飯の時間だぞ。今日の最終仕上げはオレだから、炒め具合は保証できないが、下ごしらえは伸がやったから味はわるくないはずだ」
着替えを終え、汗の染み込んだ剣道着をスポーツバックから取りだした時、当麻が征士を呼びに部屋へと顔を出した。
「あ、ああ……今行く」
「早くしろよ。征」
「……!」
当麻の呼びかけに一瞬征士の動きが止まった。
征士の表情の変化にドアを閉めようとしていた当麻の手が止まる。
「どうした?」
「あ、いや、お前が私のことを征と呼んだのは随分久し振りのような気がして」
「……そうだったか?」
「ああ、夜光が消えて以来、初めてのことだ」
「……!」
一瞬、当麻が言葉に詰まる。
さすがにそこまでの自覚はなかったが、考えてみればそうなのかもしれない。
無意識の行動とは、時としてあまりに真実を伝えすぎて困る。
「……悪い」
思わず謝る当麻にふっと笑みを返し、征士は窓の外を見あげた。
今日は満月。煌々と輝く月の夜である。
「いつか、また逢わせてやれるといいんだが」
「征士……!」
「嫌味で言っているわけではない。本心からそう思っているだけだ。私は……」
「必要ないよ」
はっきりと当麻は言った。
「お前が居れば充分。それだけで充分だから」
「……そうか」
小さく頷き、征士は当麻の後について居間へと降りていった。

 

――――――「征士。そこどうしたんだ?」
夕食後、肘のところまで袖をめくりあげて洗い物をしている征士を指差し、遼が言った。
「そこ? 何が?」
「ほら、そこ。肘んところ。赤くなってる」
「えっ?」
そういえばずっとヒリヒリしていたような。そんなことを思いながら、征士は流しの水を止め、自分の腕を見た。
思ったより赤くなっている。というか、これは擦れて皮がむけているのではないか。
「今日の稽古の時だ」
思い出したように征士がつぶやいた。
今日の稽古。鷹取に惨敗してつけられた傷の数々。情けないほどボロボロだった自分。
「私もまだまだだという証拠だ」
おもわず苦笑がもれる。
遼は何も言わず、急いで救急箱を取ってくると、征士に椅子に座るようにと薦めた。
「ほら、とりあえず絆創膏だけでも貼っておかなきゃ。風呂入るとき、そのままだったらめちゃくちゃしみるぞ。きっと」
遼はそう言って、慣れた手つきで消毒薬を脱脂綿に染み込ませると、さっと征士の腕をとった。
「何かやけに嬉しそうじゃないか? 遼」
「そうか?」
言いながら、本当に嬉しそうに遼は征士の傷の手当てを始める。
「ほら、やはり嬉しそうだ」
「別に嬉しいわけじゃないよ。いつもオレの方が手当てされる側ばかりだったから、たまには良いなあこういうのって思ってるだけ」
「…………」
がっくり肩を落とし、征士は諦めて大人しく自分の腕に貼られようとしている大きめの絆創膏を見下ろした。
腕の傷。
遥か昔。ちょうどこの位置に大きな傷を負った時があった。
あれは、禅と二人で山の中をさまよっている時だった。
裂けた木の枝に引っかけて、紅は思いがけずざっくりと腕を切ってしまったのだ。気付いた禅が慌ててかけより、とっさに紅の腕をとろうとした。
あの時。
傷の痛みと、突然触れた手の感触に驚いて、紅は禅の手を叩き落とした。
禅は、酷く後悔をした顔つきになって後ろへと後ずさり、そのまま駆け出した。
やけによく覚えている。
あの時の禅の背中。
全身から後悔の念が吹き出してきているような、あの背中。
後悔してもしたりない。そんな禅の姿。
届かない背中。
「やっぱり、厳しいんだな。剣道部の稽古って」
征士の腕に絆創膏を貼り終わり、外に出していた消毒液の瓶を中にしまいながら遼が言った。
過去の思いに捕らわれかけていた征士は遼の声でふっと現実へと戻る。
「あ、ああ。厳しくなければ鍛錬にならないからな」
「オレ、征士くらい強ければ、負けなしなのかと思ってた」
「別に私は一番強いわけではない。剣道のルールの中で戦えば、私より強い人は大勢いる。少なくとも鷹取先輩はかなり強いぞ」
「ああ、あの先輩かあ」
鷹取とは、体育祭の時にも見かけた例の背の高い先輩だ。
「そういえば、この間、その先輩が正式に次期部長に決定したんだって? 新聞部の先輩が言ってた」
「ああ、先日の部会で決定した。立派な部長になるだろうと、顧問の先生も太鼓判を押している」
「そっか。今度正式に申し込むとは思うんだけど、近いうちにオレ達、取材に行かせてもらうことになるんだ」
「取材? 学校新聞か何かか?」
「そうそう。次の特集は、運動部の期待の星特集なんだってさ。来年度に向けて色々と世代交代がある中、こいつはーっていうのに目星をつけて写真付きで載っけるらしい。で、剣道部では、その鷹取先輩と征士が候補にあがってる」
「……私も?」
鷹取は部長なのだから理解できるが、何故自分までやり玉にあげられるのだ。
不思議そうな顔をする征士を見て、遼は思わず吹き出した。
「なんて顔すんだよ。征士。別に不思議でも何でもないだろう。お前が載るだけで売り上げが伸びるんだっていうの、嘘の噂でもなんでもない真実なんだぜ」
「…………遼」
今年の体育祭。結局、征士のスナップショットが一番の売り上げを出したというのは本当の話。
明らかに迷惑そうな表情をして、その報告を聞いた征士の顔を思い出し、遼は再び声を上げて笑いだした。
それに反して征士の表情はますます苦々しくなっていく。
「まったく。男に対して綺麗だというのは、本当に褒め言葉なのか?」
「なんで? 褒め言葉だと思うぜ。実際綺麗なんだし」
「…………」
呆れて征士は大きくため息をついた。
「そんなに嫌がるなよ。征士が綺麗なのは事実だってオレも思う。でもさ、それってオレに言わせれば顔の造形がどうのっていうより、征士から出てるオーラっていうのかな? そういうのが綺麗なんだよ」
「オーラ?」
これはまた意外な単語が出て来るものだと、征士は不思議そうに小首をかしげた。
「遼には見えるのか? オーラが」
「見えるぜ。ファインダー越しになら」
そう言って遼は指でファインダーを作り、征士の顔を覗き込んだ。
「征士のオーラって綺麗なんだよ。人それぞれに持ってるオーラの色って違うだろ。征士のは透明。完全なる透明なんだ」
「透明なものがどうやって見えるのだ」
「そりゃ物理的に見えるわけじゃないんだから、そういう突っ込みするなよ」
可笑しそうに笑いながら遼は言った。
「見えるって言うより感じるものだしな。ああいうのって。色もさ、絵の具で塗れるような色じゃないんだ。例えば暖かな色とか優しい色とか苦しそうな色とか、そんな感じ」
「私の色はどんな色なんだ」
「征士のは凛とした色」
凛とした。真っ直ぐで透明で。
「目に見えるもので言えば、日食の時のコロナが一番イメージに近いかな。あれもすごく綺麗だろ」
皆既日食の時にみられるコロナ。青白い炎。写真でしか見たことはないが、確かにとても綺麗だったように思う。
「ガキの頃、テレビの何かの特集で、皆既日食を見たんだ。すっげえ綺麗だなって思って。オレ、何とかあれを手に入れるためにイカロスみたいに空を飛びたいって本気で考えたことがあった」
「イカロス? あのギリシャ神話の?」
「そう。昔ギリシャのイカロスは〜って奴」
鼻歌を歌いながら、遼は楽しそうに笑う。
太陽に憧れて太陽を目指して飛んで、命を失った男。イカロス。
そう考えると自分は少なくとも、コロナではない。太陽ではない。征士はそう思った。
自分はきっとイカロスの側だ。
太陽に憧れて憧れて。そばに行きたくて仕方ないのに、その手段を持たない。
昔、合唱の課題であの歌を歌わされて、やけに苦しかった事を覚えている。
何故かわからないが、胸が痛くて歌いたくなかった事を覚えている。
「遼、太陽に近づきすぎると火傷してしまうのではないか」
独り言ともとれる小さな声で征士がつぶやいた。
遼はにこりと笑って救急箱の蓋をパタンと閉じる。
「そんなこと。やってみなけりゃわかんないよ」
「…………!?」
「だって、オレは烈火だからさ」
ああ、そういう意味か。
なんとなく複雑な面もちで征士は小さく頷いた。
遠い太陽。手に届かない星。
でも、だからといってずっと尻込みしていれば永遠に何も手に入らない。
永遠に。
我知らず、征士は自分の拳をギュッと握りしめていた。

 

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