イカロスの翼 (2)

その日、いつもなら必ず聞こえるただいまの挨拶がないまま居間に顔を出した秀に、伸は驚いて読んでいた雑誌から顔をあげた。
「あれ? 秀、おかえり」
「…………」
どさっと鞄を床へ投げ出し、秀は伸の挨拶に応えようともせずにソファに座っている伸の元へ来ると、いきなり倒れ込むように伸の膝の上に身体を投げだした。
「し……秀!?」
理解不能な秀の突然の行動に伸が目を丸くする。
「ど……どうしたの?」
「いいじゃんか。いつでも貸してやるって言ったろ。膝」
「そ……そりゃ言うには言ったけど……」
そのまま膝枕をする体勢になってしまった伸は驚いて秀を見下ろした。
「何? どうしたの?」
「…………」
伸の質問に何も答えず、秀は伸の膝に頬をすりよせる。
戸惑った表情で、伸はくしゃりと秀の髪を掻きまわした。
「……秀……?」
答える意志がまったくない様子の秀に小さく肩をすくめると、伸はしばらくの間、何も聞かずただ黙って秀の頭を優しく撫で続けた。
コチコチと時を刻む柱時計の音が耳に心地よく響く。
どれくらい経っただろう。ようやく秀はふうっと息を吐いて気持ち良さそうに目を閉じた。
同時に伸も安心したように微笑みを浮かべる。
と、その時、居間に姿をあらわした当麻が何とも言えない顔でソファまで駆け寄ると、伸に膝枕をしてもらっている秀を見下ろし腕を組んだ。
「おい、秀」
「…………」
「何だ、それは」
当麻の声に秀が僅かに目を開ける。
「何だって何がだよ」
「何は何だ。どういうつもりだ」
「どういうつもりもないぜ。だから何なんだよ」
「だから何とはオレの台詞だ。何なんだ」
「だから何は何だって言ってんだろ」
「頼むから目の前で理解不能な会話を繰り広げるの止めてくれない、二人とも」
ついに伸が二人の不毛な会話を中断させた。
じろりと伸を見下ろし、当麻が苦虫を噛み潰したような顔をする。
「お前もお前だ。なんで秀に膝枕してやってんだよ」
「別にいいじゃないか」
「そうだそうだ」
伸が反論してくれたことに気をよくして、秀は伸の膝の上から当麻を見上げた。
「伸の膝枕はお前一人のもんじゃねえだろ。オレは前から予約してたんだ」
「何だよ予約ってのは」
「予約は予約だよ。なあ、伸」
「うん。まあ、そうだね」
「…………」
とてもとても不機嫌そうな顔で当麻は伸と秀を見下ろしたが、何故かそれ以上何も言わなかった。
「とにかく、こんな感じなんで僕は動けないから、今日の夕食頼むよ。下ごしらえは出来ているから、あとは炒めるだけだし。出来るよね」
「……努力はする。上手くいく保証はないが」
拗ねた口調でそう答え、当麻はキッチンへと向かった。
ほんの少し、秀が大丈夫なのかといった顔で伸を見上げたが、伸は何も答えず黙って秀の頭をポンポンと叩いた。
秀が再び目を閉じた。

 

――――――悪戦苦闘の末、ようやくどうにかなったのか、やがてキッチンから野菜炒めの美味しそうな匂いが居間の方へと漂ってきた頃、征士が帰宅した。
ただいまの挨拶と共に、居間へ顔をだした征士は、やはり当麻と同じように眉をひそめて伸と伸に膝枕をしてもらって幸せそうな寝息をたてている秀とを見下ろした。
「おかえり、征士」
秀を起こさないように気遣いながら、伸が小さな声で征士に笑いかける。
征士は何ともいえないような表情のまま、ソファの近くまで寄ってきて、秀を見下ろした。
秀は征士が帰ってきたことにも気付かないまま、安らかな寝息をたてている。
抵抗なく伸の膝に頬を摺り寄せている秀と、躊躇の欠片もなくそんな秀の髪を梳いてやっている伸の細い指。
征士の心がちくりと痛む。
「やはり、お前は特別だな」
やがて、小さな声で征士がつぶやくように言った。
「特別? 何が?」
「皆がお前のそばにいると心安らぐのがよくわかる。癒しの手の力が今もお前の中にあるのだろうな」
「…………」
「私には決して届かない力だ」
「……征士!」
背を向けて居間を後にしようとした征士に向かって伸が声をあげた。
「過去の時代からの力の継続のことを言っているのなら、それは僕に限ったことじゃない。みんなの中にもあるものだよ。君の中にだって存在している」
「……伸、私は……」
やけに苦しげな表情で征士は振りかえった。
「それに、僕は特別なんかじゃない。むしろ、秀にとって特別なのは君のほうだ」
「私が……特別……?」
「そうだよ」
「伸、お前は知ってるはずだ。私は……」
「知ってるよ。僕は、君が紅や夜光と同じ魂を持っていることを知ってる」
「…………!!」
征士が絶句した。
「生物の授業で習わなかった? 一卵性双生児は、もともと一つの卵だったんだよ。もともと同じだったものなのに、君にだけ受け継がれないものなんか無い。夜光の記憶と紅の魂と、光輪の使命。亡くなったっていう君のお兄さんと同じだけ、それらは君にも受け継がれているはずだ。でなきゃ秀がこだわる理由がわからないじゃない」
「…………」
その時、すっと征士の後ろから当麻が姿を現した。
「伸の言うことは一理あるな。更に付け加えるとするなら、お前の場合は、先祖帰りも含まれてる感じがする。ほら、両親ではなく何代か前のご先祖様の特徴がいきなり子孫に現れるってやつがあるだろう。それだよ。お前の場合はもう少し特殊ではあるが、夜光の記憶より、紅の存在のほうがお前の中では大きな位置を占めてるんじゃないか? だからお前が夜光の記憶は持っていても感情は持っていないとしても何ら不思議なことではない」
「…………」
征士は当麻を見つめたあと、ゆっくりと伸へを視線を移し、そのまま伸の膝元の秀の顔を見下ろした。
秀は三人の目に見つめられていることも知らず、まだ寝息をたてている。
年相応の少年の顔に、時々宿るはっとする程の力強い目の光。
禅の頃と変わらない真っ直ぐな瞳。
今、目を閉じている秀は、少しあどけない寝顔をしていた。
「…………」
しばらく後、征士は小さくため息をつくと当麻の脇をすり抜けて2階へと上がっていった。
征士を見送りつつ、当麻は伸へと視線を向ける。
「半分はオレの責任かもな。あいつがあそこまでこだわちまうっていうのは」
「…………?」
伸が微かに小首をかしげる。
ふと愛しげに目を細め、当麻は伸のそばに来ると、そっと伸の栗色の髪に指を絡めた。
「相変わらず、オレはガキなんだなあって思うよ。ホント」
「…………」
「人の魂の在り方だとか、輪廻だとか、オレには解らないことが多すぎる。記憶さえあれば生まれ変わりなのか、記憶がなくても魂の深い部分で同調すれば、それは、そのまま本人なのか。烈火の存在も、夜光の記憶も、柳の想いも、オレはまだきちんと自分の中で整理できていない。求める必要のないものを追いかけて、オレは奴を傷付けていたんだ」
「……当麻…………」
「……オレが追いかけているのは幻なんだって、少なくともオレはあいつに言うべきだったのかもな」
「……当麻…君は、今でも……」
そっと伸が言った。
「今でも、夜光に逢いたいの?」
「……だとしたら、最悪だ」
ぽつりと当麻がもらす。
「もしかしたら、そのまんま全部記憶を受け継いでるオレが一番単純なのかもな」
苦笑いを浮かべて、当麻が更にそう言うと、伸は小さく首を振った。
「そんなことない。僕等はきっと同じ穴のムジナだ」
「…………」
「ごめんね。当麻」
「……伸?」
「……ごめんね」
伸の見つめる視線の先に烈火の存在を感じ、当麻は僅かに視線を落とした。
懐かしい彼の人。
自分たちが追い求めているのは、何だろう。
とても不確かで、微妙で、儚くて。
それ故に、求めてやまない。
長い長い時間の流れ。
その全てがあるからこそ、今の自分達が存在するのだ。
その事実だけは、何物にも変えられない。
たったひとつの真実なのだ。

 

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