イカロスの翼 (1)

息も出来ないほどのむせ返る熱と光の放出。
ピンと張り詰めた空気がこれ以上ないくらいの緊張感を高めている。
ギリギリまで引き伸ばされた糸の感覚は、一瞬でも気を緩めるとそれだけで全てが壊れてしまうようだ。
「…………!?」
倒すことはままならなくても、せめて封印するくらいの力は残っていて欲しい。
微かな希望を胸に輪を作り印を結んだ四人の気が、突然ほんの一瞬乱れた。
「……柳!?」
炎の中、微かに柳を呼ぶ雫の声が聞こえた。
その瞬間ふっと柳の気が消滅する。
「……!?」
「紅!集中しろ!」
「…………!!」
「危ない!!」
僅かな。ほんの僅かな気の揺れ。
その一瞬が命取りであることなど嫌というほどわかっていたはずなのに。
「紅!!」
思いっきり突き飛ばされて地面へ倒れこんだ紅の上に血だらけの腕が覆い被さるように重ねられ、紅の身体を護る。
「禅!」
「……ぐっ!」
真上から聞こえた鈍い音は、禅の身体に深々と突き刺さった鎖鎌の衝撃だろうか。
「禅!!」
「……ごめ…ん……」
「……!?」
「ごめ……」
力尽きたようにドサリと紅の横に倒れ、禅はゆっくりと紅の頬に手を伸ばす。
「…く…れな……」
伸ばされた禅の手は、紅に触れることなくストンと地面へと落ちていった。
「…………」
そのまま眠るように閉じられた禅の瞳はもう開くことはなく、血だらけの身体はぴくりとも動かない。
結局、最後の最後まで、禅の手は紅に触れることはなかった。

 

――――――あまりの重い気分に身体中から汗がじんわりと滲み出してくるのがわかって、征士は不快そうに首を振った。
自分のものであって自分のものでない記憶。
もう、だいぶ慣れたと思っていたのに、それでも心が拒否反応を示す。
夜光が消えてからしばらくの間、過去の夢を見ることもなくなっていたというのに、最近のこの毎夜の夢はどういうことなのだろう。
しかも見るのは紅の時代ばかり。
吐き気を催すような凄惨な戦いや、決して触れることはない伸ばされた禅の手。
「何故、謝ったのだ」
低く征士がつぶやいた。
ごめん。
最後の最後まで。
何故、禅は紅に対して最後の最後まであんな言葉を言うのだろう。
紅のことを気遣い、細心の注意を払い、ひとこと断らなければ手を掴むことすらしなかった禅。
「何故、謝ったりするのだ。秀」
ごめん。
とっさに手を掴んだ時、秀はそう言って征士のそばから飛び退った。
ごめん。
泣きそうな顔をして、秀は伸ばした手を引っ込めた。
いつもいつも。
そうやって、秀は禅と同じ目をして征士を見る。
永遠に触れることの出来ない相手として征士を見る。
ふうっとため息をついて、征士はベッドから身体を起こすと、毎朝の日課となっている素振りをする為に竹刀を手に立ちあがった。
汗でぬれたシャツを乾いたTシャツに替え、厚手のジャージを羽織る。
冬の朝の冷え込みはきつく、征士はいつもより少し暖かめの格好をして階下へと降りて行った。
まだ、時間もはやく征士以外の誰も起きてくる気配はない。
しんとした廊下を通り、玄関の扉を開けると、朝の眩しい日差しが目に飛び込んできた。
冬の朝は夏に比べて更に空気が澄んでいるような気がするのは、この刺すような冷たさの所為だろうか。
外へ出ると、さすがに吐く息が白い。
キンとするほどの寒さは嫌いではなかったが、今朝の夢の所為か、何故か寒さが心に染みて痛かった。
竹刀を持っている時は雑念を捨てろ。
いつもそう己に言い聞かせているのに、今日は少しも集中できないかもしれない。
疲れたようにため息をついた征士の後ろでその時微かに玄関の扉の開く音がした。
「…………?」
こんな時間に起きてくるなど誰だろう。
一番可能性が高いのは伸であるが、彼は起きてきても外へ出ることはなくキッチンへ直行するはずだ。だいたい今の時間に外へ出てくる用事のある奴がこの家にいるとは思えない。
不審に思いながら振りかえった征士は、玄関の扉の前に立っていた人物の姿に一瞬息を詰まらせた。
「し……秀?」
「お…おはよ。征士」
薄手の長袖Tシャツのみという、かなり寒いだろう格好のまま外に出てきた秀は、少し目尻を赤くして征士に笑いかけた。
「ちょっと珍しく目が覚めちまってさ。そしたらお前が出ていく音が聞こえたから」
「そうか」
元気がなく見えるのは、眠気が残っている所為ではないだろう。
征士はすっと秀のそばへ歩みより、顔を覗き込んだ。
「嫌な夢を見たのか。秀」
「……!?」
嫌な夢。
恐らく自分と同じ夢。
「……あ……」
「そうなんだろう」
「……征士……」
まいったなあと言いながら秀はポリポリと頭を掻いた。
「やっぱそうか。同調すんのかなあ、こういうの」
「かも知れないな」
そうかも知れない。お互い、心の何処かで望んでいるのだ。
一人では耐えられないから、せめて誰かと共有したい。
夢を共有したからといって辛さが変わるわけではないのだが、それでも。
それでも。せめて。
他の誰でもない、この相手と同じものを見たい。
遥か昔のあの頃と同じように、同じ時間を共有したい。
「……まったく。これでは当麻のこと笑えないな」
「本当だ」
チクリと心が痛くなる。
庭の中央で竹刀を構え、素振りを始めた征士の姿を、秀はしばらくの間、何をするでもなく、じっと見守っていた。

 

――――――ポンっと濡れたタオルを額の上に落とし、鷹取は呆れた表情で剣道場の隅に寝転んでいる征士のそばにしゃがみ込んだ。
「珍しいな。お前がここまでやられるっていうのは」
「……すいません。」
最後に受けた面の衝撃がまだ残っているのか、ズキズキする額を濡れタオルで押さえながら征士が苦笑した。
本日の稽古の締めとして、征士は先程、先輩である2年の鷹取と組んで地稽古を行った。
互角とまではいかなくても、普段の征士なら、先輩相手でも3本に1本は取れるようになっており、同じ1年生の中では征士に敵う相手はいないといっても過言ではないほどの実力を持っているはずなのに、今日の征士はどこかおかしかった。
集中力が切れているわけではないと思うのだが、どこか不安定で剣さばきにも鋭さが感じられない。
そして、鷹取が心配した通り、地稽古に関しては征士は鷹取相手に1本も取れないまま散々な負け方をしてしまったのだ。
「まだまだ修行が足りません。精進します」
「修行云々の問題じゃないと思うけどな、オレは」
じっと征士の顔を真正面から覗き込み、鷹取が言った。
「なんつーか、光がくすんでる気がする。太陽君と何かあったのか?」
「…………!?」
鷹取の探りに一瞬ガバッと飛び起きかけた征士は、次の瞬間身体中に走った痛みに顔を歪めた。
「……痛っ……!」
「ほら、無理すんなよバカ。いくら俺様でもお前相手に手加減できるほど器用じゃないんで、さっきは思いっきり面決めちまったんだから、急に動いたら貧血起こすぞ」
「…………」
くらくらする頭を抱え込み、征士は低く唸った。
まったく、情けないことこの上ない。
実際鷹取が強いのは事実だ。
でも、だからといってここまで見事に負けを食らってしまうなど、自分自身の不甲斐なさが許せない。
そして更に、その負けた原因を鷹取に見抜かれてしまっていることが、征士にとってはもっとも許せないことであった。
「先輩」
「何だ?」
「私は別に太陽がなければ存在できない月ではありません。誤解しないでください」
「別に誤解はしてないさ」
飄々と悪びれたふうもなく、鷹取は征士に言葉を返す。
「自覚してないならそれでもいいけどさ。お前は月だよ。オレにはそう見える。月を見上げているお前の姿はまるで月に帰りたがってるかぐや姫のようだしな」
「…はぁっ!?」
「ま、お前が本当のかぐや姫だったら、オレは喜んで帝に立候補するんだけど」
「お…おっしゃってる意味がわかりません」
「そうか? わからないか?」
ニッと笑みを浮かべて鷹取は床に落ちてしまっていた濡れタオルを拾い上げ、立ちあがった。
「汚れちまったな、これ。もう1回洗ってくるよ」
「そんな、私が行きます」
ガラリと剣道場の扉を開けた鷹取を追って征士は廊下へ飛び出した。
とたんによろけてバランスを崩す。するとそれを予測していたように鷹取が倒れかかってきた征士の身体を抱きとめた。
「す…すいませんっ!」
「だから言ったろう。いきなり動いたら貧血起こすぞって。これ以上面倒増やすな。まったく」
「すいません。本当に申し訳……」
謝りかけた征士の言葉が途中で途切れた。
「……?」
征士の視線の先を追って後ろを振り返った鷹取が、廊下の先に立ってる人影にすっと目を細める。
「……あれ……太陽……?」
小さく鷹取がつぶやくと同時に、その人影はくるりと踵を返して今来た方向へと駆け戻ろうとした。
「待て! 秀!」
慌てて征士が追いかける。
先程、貧血を起こしてよろけていたとは思えないスピードで秀に追いついた征士は、後ろからガシっと秀の腕を掴み引き寄せた。
「秀! 何故逃げるんだ。私に何か用があったから来たのだろう」
ビクリとなって征士の手を振り払い、秀が顔をあげた。
「別に何でもないよ。偶然通りかかっただけだ。邪魔して悪かった」
「邪魔?」
ピクリと征士の眉がつりあがる。
「邪魔とはなんだ。何を邪魔したと言うんだ。お前は」
「あ……いや、そうじゃなくて……」
言いながら秀の視線が征士の後ろにいる鷹取に向けられる。
秀の顔をきつい眼差しで睨みつけ、征士が低く呻くような声を洩らした。
「何を考えてる。秀」
「……何って……別に……」
思わず視線をそらせて秀が唇を噛む。
「変な勘繰りをするのはやめて欲しい」
「か……勘繰りって何だよ! そんなんじゃない! オレは……」
言いながら、どうしても視線の先が廊下の端でこちらの様子を窺っている鷹取へと向いてしまう。
何がどうというわけではない。
ただ、居たたまれなかったのだ。
ただ、どうすればいいか解らなかったのだ。
征士の身体を誰かが抱きかかえている。
ただそれだけで背筋がざわりとなったなど、そんな事言えるわけない。
そんなことで、いてもたってもいられなくなっただなどど、思いたくない。
「征士……オレは……」
「何故謝ったのだ。あの時」
ぽつりと征士が言った。
「謝る?」
何のことかと秀が眉をひそめる。
「私は、いや、紅はお前に謝ってなど欲しくなかった。いつだって」
「……征士?」
「いつだって、甘えていたのは紅のほうだ。お前が気を遣っているのを知ってて、お前が優しいのを知ってて、わざと甘えていたのは紅の方なのに。何故、お前は謝るんだ。最後の最後まで」
「お前……何言って……?」
「どうして……」
「伊達」
じっと廊下で腕を組んでこちらの様子を窺っていた鷹取がとうとう征士を呼んだ。
「集合時間だ。来い」
「……はい」
鷹取の言葉に素直に従い、征士はくるりと踵を返すと、秀のほうをもう見ようともせず、剣道場へと消えていった。
秀はかける言葉を失ったまま呆然と征士の背中を見送っている。
ちらりとそんな秀を見て、何故か鷹取は剣道場へ戻らずにピシャンと扉を閉じ、じっと秀の顔を見据えた。
「あんまりうちの別嬪さん苛めないでくれるかな」
「なっ……!?」
いきなりそう言ってきた鷹取に、真っ赤になって秀は絶句した。
「何言ってんだ。オレは何も……」
「してないって言うんだろ。知ってるか? 自覚のない奴が一番始末におえないんだ。」
「…………」
「自覚がないなら、さっさと自覚しろ。でないとオレが奪うぞ」
「…………!?」
「なんつって。嘘だよ。冗談。そんな変な目で見るなよ」
冗談なのか本気なのか、笑いながらそう言って、鷹取はさっさと剣道場へと戻って行ってしまった。
「なんだよ…それは……」
どうしていいかわからないままそうつぶやいて、秀はしばらくの間、誰も居ない廊下に立ち尽くしていた。

 

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