漂流者 (2)![]()
「口がきけない? 何だそれは」
ぶっきらぼうに例の少年の様子を語った朱雀に、亜門が呆れた視線を投げた。
「発声機能がないのか?そいつ」
「いや、恐らく精神的なものだろうから、すぐしゃべれるようにはなるだろうけどって兄者は言ってたけどな」
「何だ何だ。ショックで口がきけなくなったお姫様って事か?」
「まあな」
「よっぽど今まで倖せに暮らしてきたのかねえ。んな事で口がきけなくなってたら、自分は弱い人間ですって宣伝してるようなものじゃねえか」
「ああ、まったくだ」
小さく息を吐き、朱雀はごろりと亜門の隣に寝ころんだ。
「なんつーか、半狂乱状態でさ。兄者がなだめて何とか落ち着いてきたけど、あれじゃ声だけじゃなく精神もどっかぶっ壊れてんじゃねえか?」
「…………」
狂ってしまった赤毛の少年。
先程、蒼龍に語った思い出話が、朱雀の頭の中に浮かんで消えた。
もう、あんな思いは嫌だと思ったのに、自分はまた同じものを見なければいけないのだろうか。
「そうだ、亜門。兄者がお前に来てくれって言ってたぞ」
「…………」
「しゃべれねえけど、お前なら何か解るだろうって」
「…無駄だと思うぜ」
ぽつりと亜門が言った。
「今、奴の頭の中にあるのは恐怖や絶望の感情だけだ。まともな思考回路なんか残ってねえよ」
「…………」
朱雀が僅かに目を見開いた。
「さっきからずっと頭がガンガンして治まらねえ。これだけ洞窟から離れたってのに、まだ届いてくる。これはあのガキの声だ」
「聞こえてるのか? 奴の声」
「声じゃねえけどな。勝手にはいってきやがる。うるさくて仕方ない」
「何て言ってんだ?」
「言葉なんてもんじゃねえよ。ただひたすらに怖がってるだけだ」
「……………」
「これじゃ、昼間っから悪夢にうなされてるようなもんだ。吐き気がする」
「…結構不便なんだな。お前の能力って奴も」
「…………」
流れ込んでくる負の感情。
亜門の能力のひとつ。時としてそれは聞きたくない言葉まで聞いてしまう。
街に居た時は、どろどろした欲望の感情ばかりが頭に響いてきて、本気で狂うかと思った事さえあった。
それでも捨てられない。
本当に聴きたい声を聴けなくするわけにはいかないから。
亜門はちらりと隣に寝ころんでいる朱雀を見下ろした。
亜門の視線に気づいたのか、朱雀がうすくそのエメラルドグリーンの瞳を開け、亜門を見上げる。
なんとなくその瞳を正視できなくて、亜門はすっと目をそらした。
「なあ、じゃあ今奴の心の中って、恐怖心でいっぱいなのか?」
探るように朱雀が訊いた。
「恐怖と絶望のオンパレードって感じ」
「…………」
「まあ、お前が心配するほど狂った精神じゃねえから、落ち着いたら普通の思考回路に戻るよ。きっと。別にパニクってるだけで、狂ってるわけじゃないし。それは安心しろ」
「だから、オレは別に心配なんか…」
「だがな」
朱雀の言葉を遮って亜門が重い口調で言った。
「奴が無くしたものは、声だけじゃないようだ」
「………?」
意味がわからず、朱雀がすっと眉をひそめた。
――――――月に薄暗い影がかかった不気味な夜。
ようやく皆が寝静まったと思ったとたん、誰かの声が聞こえたような気がして、亜門はふっと目を開けた。
聞き慣れない声。
朱雀のものでも、蒼龍のものでもなさそうだ。
申し訳程度に腹の上に掛けていたボロ布を跳ね上げ、身を起こすと、亜門はそっと洞窟の一番奥の一室へと足を向けた。
蝋燭の灯りひとつ無い真っ暗闇の中、苦しげな息づかいが聞こえてくる。
やはり思ったとおりだ、と、亜門は眠っているはずの例の少年のそばへ駆け寄った。
「おい、どうした」
亜門が小さく声をかけても、少年は反応を返さず、ただ苦しげな息を洩らしている。
必死で何かを叫びたいのに声が出ない。まさにそんな感じで、少年はギュッと目をつぶり、喉をかきむしっていた。
息を吸うのも苦痛なのか、少年の口からはヒューっというかすれた音しかもれてこない。ガタガタと震えている身体は寒さの為というよりあきらかに恐怖によるもののようだ。
ちっと軽く舌打ちをして、亜門はひょいっと少年を担ぎ上げ、洞窟の外へと連れ出した。
意識があるのかないのか、少年は相変わらずギュッと目をつぶり、亜門の背中の上でガタガタと震えている。
「ほら、いい加減にしろ、外だぞ」
「………!?」
亜門がどさりと地面に少年を投げ落とすと、少年はようやく少し目を開け、月明かりの中の亜門を見上げた。
薄暗い周りの風景が、少しずつ目に馴染んでくる。
ほっと安心したように息を洩らした少年は、次の瞬間身体を九の字に曲げて咳き込んだかと思うと、激しく嘔吐しだした。
「お…おい!?」
慌てて亜門が背中をさすってやると、少年はきつく拳を握りしめたままゼイゼイと肩で息をしながら吐き続けた。しかし、吐くと言っても胃の中になど何も残ってはおらず、でてくるのものは胃液のみ。それが余計に苦しいのか、少年は脂汗をにじませながら、苦しげに喉をかきむしった。
どれぐらいそうしていただろうか、ようやく吐き気も治まったのか、少年はそっと亜門の手を振り払い、疲れたようにそばの大木にもたれたまま地面にしゃがみ込んだ。
「…ったく情けねえなあ」
亜門が少年を見下ろし、呆れたように腕を組む。
「オレが気付かなかったら、あそこで吐いてたのか? てめえは」
「……………」
「何とか言えよ……って、そうか、しゃべれねえんだっけお前」
ピクリと少年が顔をあげた。
何だかリスか何かの小動物の目を見ているみたいで、亜門はふっと笑みをもらし、少年の髪をくしゃりとかき回した。
「そんなに闇が怖いか?」
「……………」
「襲い来る水の恐怖は、そんなに闇に似てたか?」
「……………」
「悪夢にうなされるのは心に隙があるからだ。怯える必要なんて何処にもないぞ。暗闇を怖いなんて思うな。闇はお前を取って食ったりしない。むしろ闇は外敵からお前を守ってくれるものだ」
「…………?」
「闇の中で相手が見えないって事は、相手にとっても自分が見えないって事なんだ。それを利用しない手はない。闇を味方につけた奴の方が必ず強くなれる」
「……………」
「さっさと強くなれよ。もう、誰もお前を護っちゃくれねえんだから」
「…………!!」
「これからお前は自分の手で自分の生を掴まなきゃならねえ。誰も手助けなんかしねえぞ。解ってるだろうな」
「……………」
コクリと少年が頷いた。
「なあ、名無し。お前、自分が何処から来たか覚えてるか?」
「……………」
少年が微かに首を振った。
「自分が誰か、覚えてるか?」
「……………」
もう一度、少年は首を振った。
「やっぱりな」
少しも驚かない亜門に、少年が不思議そうな目を向けた。
「何で解るのかって?オレには解るんだよ」
「……………」
にやりと亜門が笑った。
拾い上げた命。
せっかく助かったというのに、言葉も思い出も名前さえも、あの海の中に置いてきてしまったというのか、この少年は。
何もかもすべて捨てて。残ったのは自分自身の命のみ。
くすりと亜門は笑った。
経緯は違うとは言え、まるでこの少年は、半年前の自分達のようではないか。
何もかも捨て去って、この島へやってきた自分達と。
「この島にいるのは、みんな半端者ばかりなんだ。存在を認めてもらえなかったり、殺されそうになったり、道具として扱われたり、そんな、親にさえも見捨てられたどうしようもない奴らの集まりなんだ」
「……………」
「お前はどうだ? 帰りたいのか? 帰る場所も、もうないだろうに」
「……………」
「それでも、何処かへ帰りたいのか?」
「……………」
解らない。
心の中でつぶやき、少年はもう一度微かに首を振った。
――――――「昼間お前が言ってた、奴が無くしたものっていうのがやっと解ったよ。そういう事かい」
洞窟の中へと帰っていった少年と入れ違いに、朱雀が亜門の前にすっと姿を現した。
「何だ。聞いてたのか?」
「あんだけ騒いでたら聞こえるよ、バーカ。せっかく風が気持ちいいんで木の上で寝てたっていうのに、人の足下でゲロ吐きやがって、あのガキ」
「ははっ。洞窟ん中で吐かれるよりはましだろ」
「どっちもどっちだ」
むすっとした顔で朱雀は地面にペッと唾を吐いた。
「にしても、記憶もなーんにもねえとはな。あの名無し野郎。とんだポンコツだぜ」
「安心しろよ。奴は死なないから」
「………!?」
思わず朱雀は亜門の顔をまじまじと見上げた。
「なんだよ、それは」
「別に。お前が心配してるみたいだからさ。安心させてやろうと思って」
「…………」
「…今の奴の頭の中には死への恐怖心がある。それは、つまり生への執着心だ。それがある限り奴は生き延びる。言ったろう。なまじああいうガキの方が大人なんかよりしぶといんだよ」
「それって、自分が生き延びるために、記憶を捨てたって事か?」
「……えっ?」
今度は亜門がまじまじとそう言った朱雀を見つめた。
嫌で嫌で嫌で。
もう二度とあんなものを見たくない。あんな事を思い出したくない。
だから声を手放した。記憶も手放した。
もう、何も話さなくてすむように。
二度と手に入らない幸福ならば、忘れてしまった方が傷口は浅くてすむだろう。
そうやって自分を護ることが出来るだろう。
半年前、この島に来た最初の夜、朱雀は満天の星を見上げてぽつりとつぶやいた。
此処には、薄汚れた天井がない。
朱雀の育った街の、薄汚い染みのついた狭い部屋。のしかかってくるような低い天井。
部屋中に充満する青臭い匂い。それがないだけでどれほど朱雀が楽になったか。
どれだけ、あの忌まわしい過去を忘れたがっていたか。
「……お前は、あの名無しが羨ましいのか?」
亜門の言葉に朱雀の表情が硬くなる。
「…………」
「お前も、思い出したくない過去の出来事を忘れてしまうために、言葉を殺したかったのか?」
「…………!!」
あの薄汚い街を逃げ出したのは、全ての過去と縁を切って忘れてしまいたかったからだ。
嫌で嫌で嫌で。
全てを忘れることが出来たら、どれだけ楽になれるだろう。
あの名無しの少年は、そうやって記憶と言葉をなくすことで、生き延びる道を見つけだそうとしたのだろうか。
それでも。
亜門は忘れたいとは思わなかった。
良いことなど何もなかったはずのあの街で、たったひとつ見つけた小さな宝石。
透き通ったエメラルドグリーンの宝石。
亜門はすっと朱雀から目をそらした。
心がざわりと鳴った。