飛翔(2)

三杉は自分の心臓のことをずっと隠していたのだそうで、同じチームメイトの奴らも、誰も三杉があまり練習に出てこない本当の理由を知らなかったのだと一ノ瀬は言った。
たまにふらりとやって来て、少しだけ練習に参加して、すぐ走るのをやめてしまう。
それでも監督達が文句を言わないのは、三杉が実際、すごい実力者だった事と、父親が地元の大きな会社の重役だった為、逆らえなかった所為なのだと、妬み半分にそう言っている奴らも多かったのだと。
一ノ瀬もそんな中の1人だった。
実力は認める。確かに上手い。でも、そんな我が儘が許されていいんだろうか。
そう思っていたある日、一ノ瀬は偶然、この大学病院で三杉を見かけた。
妹の明日香が夜中に突然、喘息の発作を起こし、病院に緊急入院をした日、母親と一緒に付き添って病院まで来た一ノ瀬は、隣の病室のベッドに三杉の名前の札がかけられているを見て驚いた。
最初は同姓同名の別人かと思ったのだが、シーツの端に見え隠れする淡い栗色の髪を見て、初めて一ノ瀬はそれが自分の良く知っている少年なのだと気付いた。
「…………三杉?」
しんと静まり返った病室の中、三杉の少し苦しそうな寝息だけが聞こえてくる。
そっと音を立てないように扉を閉じ、一ノ瀬は三杉のベッドの脇に立って、その顔を見下ろした。
やけに青ざめた顔。汗ばんだ額に張り付いた、淡い栗色の髪。
苦しげに一瞬寄せられた眉を見て、一ノ瀬ははっとした。
今まで、自分は何を見ていたのだろう。
三杉はこんな小さな身体をしていたのだ。
背だって自分より低かった。肩幅だって小さかった。なのに。
血の気の失った青い顔。腕に残る点滴の痕。
こんなにも小さな身体でこの人は戦っているんだ。自分達には想像も出来ない程の戦いを毎日しているのだ。
やっと解った。どうして毎日練習に来ないのか。どうしてあんなに短時間しか走ろうとしないのか。
走りたくても走れなかったのだ。この人は。
どんなにか羨ましかったろう。自由に走り回れる自分達の姿が。
ベンチから三杉がどんな目でグランドを見ていたのか、ちっとも気付かなかったなんて。
「……三杉……さん?」
一ノ瀬の声に反応したのかどうか解らなかったが、三杉の手がぴくりと動き、何かを求めるように宙に伸ばされた。
「…………!!」
とっさに一ノ瀬は三杉の手を取った。
汗ばんだ手は熱があるのか、少し熱かった。
「三杉…さん……」
小さな三杉の手を両手で握り、一ノ瀬はベッドのそばに膝をついた。
どうか少しでもこの人の苦しみが和らぎますように……
一ノ瀬は滅多に祈らない神様に、祈りを捧げた。

 

――――――「その後、しばらくして三杉さん、目が覚めたんだけど、そばにオレが居るのに気付いて、真っ赤な顔して握ってた手を離したんだ。なんか、すげえ可愛くて。こんな事言ったら失礼なのかもしれないけど、あん時の三杉さんの表情、オレ、一生忘れないね、きっと」
「…………」
「初めて、あの人が同い年だって気付いたんだ。その時」
「……そっか……」
「でもさ、あの人、ほかの奴らには黙っててくれって必死になってオレに言うんだ。みんなが知ったら、きっと気を遣ってまともにプレイしてくれなくなるって……自分はたとえ10分間でもいいから、手加減なしで対等にプレイしたいんだって」
本気なのだ。三杉は。
当たり前だ。本気でなくて、あんな身体でサッカーなんて出来る訳ない。
その時から一ノ瀬は、さりげなく気を付けながら、それでも三杉の願い通り、誰にもその事を告げずにいたのだと言った。
ひととおり一ノ瀬の話を聞いたオレは、飲みかけのジュースを一気に喉へと流し込んだ。
少し温くなったジュースはやけに甘ったるく、オレの胃の中に浸透していく。
なんだか、自分だけ平和な世界に浸りきっているようで、ちょっとだけ心が痛んだ。
「……あ!! 一ノ瀬、あれ」
その時、来生が小さく声を上げ、病室の窓を指さした。
見上げると、病室から看護婦さんが小さく合図を送っているのが見える。
「明日香が目を覚ましたんだ」
立ち上がるが早いか、一ノ瀬は一目散に走りだした。
「一ノ瀬!」
「お前らも来いよ!」
背中を向けたまま言った一ノ瀬の後を追って、オレ達も走りだした。

 

――――――「明日香!!」
勢いよく一ノ瀬が病室のドアを開けると、ベッドの上に身を起こした長い髪の女の子が顔をあげた。
「お兄ちゃん!!」
大きな愛らしい目。少しやせすぎではあったが、充分すぎる程可愛らしいその少女は、嬉しそうに両手を広げて一ノ瀬を迎えた。
「めちゃくちゃ可愛いじゃん。妹」
隣でつぶやいた来生にオレも同感と、大きく頷く。
「……あ!!」
その時、こちらがびっくりする程の大声をあげて、明日香ちゃんがオレ達を見た。
「……!!!」
さっと一ノ瀬の背中に隠れるようにして、じっとオレを見つめる明日香ちゃんは、何故か真っ赤な顔をしていた。
「……お兄ちゃん……あの人……」
おずおずと明日香ちゃんがオレを指さす。
何……? あの人? ……オレのこと?
オレがきょとんとした顔をしていると、一ノ瀬が、ああそうか、と、妙に納得した顔をして振り向いた。
「井沢、ちょっとこっち来いよ」
「……?」
「ほら、明日香。こいつが井沢守。お前が逢いたがっていた人だよ」
「……えっ?」
明日香ちゃんは真っ赤な顔をしてオレの顔を覗き込んだ。
「い……一ノ瀬?……逢いたがってたって……何?」
「ああ、この間の試合、明日香、見に来てたんだけど、なんかお前のこと気に入ったらしいんだ」
「お兄ちゃん!!」
更に真っ赤になって、明日香ちゃんは一ノ瀬の手を振り払い、シーツに顔を埋めた。
「何照れてるんだよ、明日香。ずっと言ってたろう。あの一番高く飛んだ人、誰って」
高く……飛んだ……?
あの時、泥だらけになりながら、必死でヘディングしてたオレの事を、明日香ちゃんは見ていてくれたのだろうか。
なんか、嬉しいかも。
オレの頬がおもわずゆるんだのを見て取って、すかさず来生が脇腹をこづいてきた。
「ほら、色男。にやにやしてないで挨拶くらいしてやれよ」
「あ……ああ。えっと……その……初めまして明日香…ちゃん?」
「…………」
「この間の試合、見に来てくれたんだ。雨の中、大変だったろう」
オレが笑いかけると、シーツの端から、目だけだしてじっとオレを見ていた明日香ちゃんの手から、すっと力が抜け、再び愛らしい顔がのぞいた。
「……全然、大変じゃなかった……とっても楽しかったの。雨なんかちっとも気にならなかった。今まで見たお兄ちゃんのどの試合より楽しかったもの」
目をキラキラ輝かせて話す明日香ちゃんはとてもとても可愛らしくて、一ノ瀬が病院に毎日通う気持ちも解らなくはなかった。
「いいなあ……あんなに高く飛べて……」
明日香ちゃんが羨ましそうにオレを見る。
「誰よりも高く飛んでたでしょ。まるで背中に羽が生えてるのかと思ったの、あたし」
「…………」
誰よりも高く。誰よりも速く。
ほとんどの時間を病院で過ごし、少しでも無理をすればすぐ発作を起こしてしまう明日香ちゃんにとって、グランドを走り回るオレ達の姿は、本当に眩しい程、羨ましく見えたのだろう。
「飛びたい……? 明日香ちゃん」
「…………?」
「明日香ちゃんだって、きっと飛べるよ」
「井沢……?」
来生が何を言いだすのだこいつは、といった表情でオレを見る。
「心から飛びたいって思ったら、飛べるよ」
「…………?」
何か……どんなことでもいいから、オレにしてやれることはないのだろうか。
オレは必死で考えた。
誰だって自由に走り回りたい。誰だって、きっと。
「一ノ瀬、なんか大きな紙ないか? ノートの切れ端でもいいから」
「……紙? あ、ああ、これでいいか?」
サイドテーブルの中から、一冊のお絵かき用ノートを一ノ瀬が取りだしてくれた。
「お、いいのがあるじゃん」
オレはそれを受け取ると、一枚ちぎって明日香ちゃんの膝元に置いた。
「いいかい、明日香ちゃん」
不思議そうにオレを見る明日香ちゃんの手を取って、オレはその紙を半分に折った。
折り目を付けてひっくり返し、三角形の羽根を作る。
「何? 紙飛行機……?」
来生がオレ達の手元を覗き込んでつぶやいた。
丁寧に丁寧に、大きな紙飛行機を折りあげると、オレはそれを明日香ちゃんの手に握らせ、窓のそばへとつれて行った。
「どうすんだ、そんなもの」
来生が呆れて訊いてくる。
「どうするって、そんなの決まってるだろ。飛ばすんだよ。空へ」
たとえ気休めでも何でもかまわない。
くだらない事をしてると、きっと頭のいい大人は言うだろうが、これはオレがこの子にしてやれる唯一の事かもしれない。
この病室の窓から、外を眺めて暮らしているこの少女に。
空を。
風を。
雲を。
感じさせてやりたいんだ。

「ほら、明日香ちゃん、何が見える?」
「公園」
「うん、それから?」
「白い雲」
「うん」
「青いお空」
「うん、そうだね」
オレは明日香ちゃんの手を取って、紙飛行機を持ち上げた。
「この紙飛行機は、明日香ちゃんの紙飛行機だ。これは、明日香ちゃんだけを乗せて、空を飛ぶんだ」
「……飛ぶの?」
「ああ」
「…………」
「そら!!」
かけ声と同時に明日香ちゃんの手を離れて、紙飛行機が飛んだ。
「飛べ!!!」
オレの祈りが利いたのか、うまいぐあいに上昇気流に乗って、紙飛行機は空高くふわりと舞い上がる。
「わあ!!」
明日香ちゃんの瞳が、輝いた。
「何が見える?」
「公園の大きな木。小さなベンチ。噴水も見える」
「…………」
「吸い込まれそうな青い空。手が届きそうな雲が見える」
「…………」
「……飛んでるの。あたしの紙飛行機……どこまでも飛んでいくの……」
「……うん」
明日香ちゃんの心を乗せて、紙飛行機は飛んだ。
空の彼方へ。
飛んだ。

 

――――――「あ!! やっぱり井沢君だったんだ」
オレ達が空へ吸い込まれていく紙飛行機を眺めていると、突然背後のドアがガチャリと開いて、翼が顔をだした。
「翼? お前、なんで?」
「三杉君の所から、窓の外を紙飛行機が飛んでいくのが見えたんだよ。何だろうって言ってたら、三杉君がちょうど此処に一ノ瀬君の妹さんが入院してるから、もしかしたら……って」
「まったく、何をやってるんだい? 君たちは。病院で」
「三杉さん、大丈夫なんですか? 病室出てきて」
呆れた顔で翼の後ろから顔をだした三杉を見つけ、慌てて一ノ瀬が駆け寄った。
本当に、改めて三杉を見ると、案外こいつが小柄だった事に気付かされる。
グランドにいた時は、あんなに大きく見えたのに。
三杉の髪はこんなに淡い色をしていたんだ。
三杉の肌はこんなに白かったんだ。
こんなに小さな身体で、戦っているのだ。
三杉も、明日香ちゃんも。
オレは自分が健康な事を、今までありがたがった事などなかった。
風邪ひいたって、一日寝てりゃ治ったし、怪我だって唾つけときゃ治ってたし、それが当たり前で、ずっと当たり前だと思ってて。
「三杉、お前も飛ぶか?」
「……え?」
オレはもう一枚、紙を破り、三杉に手渡した。
「飛ぼうぜ。お前も」
「…………」

結局オレ達はみんなでそれぞれの紙飛行機を折った。
「こんな事やって、叱られないかな?」
「平気平気」
自分達で折りあげた、白い紙飛行機。
どこまでも、飛んでいく紙飛行機。

「それじゃ、いくよ。せーの!!」
翼の合図でオレ達は一斉に紙飛行機を飛ばした。
「いっけー!!」
5つの紙飛行機が空に吸い込まれて行く。
一番遠くまで飛ぶのは誰の紙飛行機だろうか・・・?

オレ達は紙飛行機が空に吸い込まれ、見えなくなるまで、ずっと見つめていた。

FIN.      

1987.脱稿 ・ 2000.7.15 大改訂     

 

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