光の欠片 (5)

征士の瞳は、もう何も映さない。
綺麗な透き通った紫水晶の瞳。まさに光輪の名を持つにふさわしい瞳。
何者をも見透かす、真実の光を集めて輝く征士の瞳に、もう光は届いてこないのだろうか。
「征士……ごめんな……」
かすれた声でつぶやき、遼はギュッと征士の手を握りしめた。
「ごめんな……」
もう、涙も枯れるほど流したと思っていたのに、また遼の目から新たな涙がこぼれ落ちる。
「なあ、征士。何かして欲しい事はないか? オレ、お前の目が良くなるまでずっとついててやるから。手術がどんな結果になっても、オレがお前の目になって、ずっと助けてやれるよう、頑張るから。だから……」
視神経管解放手術。
それを施すことによって必ず治るという保証はないと、当麻は言っていた。
顔面を強打した場合、当初は視覚異常が見られなくても、何日かして視力がだんだん落ちてくる事もあるという。そんな時は、手術を行うか薬物投与の治療にするか判断が求めれる。
しかし、征士の場合、事故直後、数時間の状態で完全に視力が無くなっていた。この場合は、手術をするしかないと思われるが、それでも治らない覚悟はしておいた方が良い。
当麻は事実を淡々と述べていただけなのだろうが、その事実は遼を打ちのめすのに充分な内容だった。
「遼……」
「オレ……何の力もないけど、お前がちゃんと楽に生きられるよう、頑張るから……」
「遼、ひとつ頼みがある」
静かに征士が言った。
「何?」
「私の目のことを自分の所為だと思って気に病む事はやめて欲しい」
「…………」
「それから、もう、泣かないで欲しい」
「……征士……」
微かに征士が笑った。
「私は大丈夫だ」
「…………」
「強がりで言っているのではないぞ。正直に言うと、こんな事になったのが、お前達に出逢う前の私だったら、きっと耐えられなかったろう。自分の運命を呪ったかもしれない」
「征士」
「でも、今の私は違う。お前達がこうやって全力で私を支えようとしてくれる。そばに居てくれる。それだけで、私は充分、力を得ているのだ」
「…………」
「私は大丈夫だ。お前や当麻や伸。それに、秀。皆が居てくれるだけで安心できる。どんな事があっても絶望する必要なんかないと思えてくるんだ」
「征士」
「それに、何故だろう。こうしているとお前の表情が手に取るように見えてくる。今までと同様、いや、それ以上にお前達の心が解る。不思議なものだな」
「…………」
「私は少しも寂しくはない。哀しくもない。心細くもないんだ」
「…………」
「私は大丈夫だから。どうか泣かないで欲しい」
「…………」
「泣かないで欲しい。遼」
「…………」
「私の願いはそれだけだ」
「……征士……」
遼がそっと征士の白い包帯に触れた。
見えないはずの包帯の奥で、征士の紫水晶の瞳がじっと優しく遼を見つめてくれているような気がする。
ふいに腕を伸ばして、遼は征士の身体を抱きしめた。
「征士……」
囁くように征士の名を呼んでみると、征士が微かに頷き返してくれた。
「征士……征士……征士……」
小さな声で、遼はずっと征士の名を呼んでいた。

 

――――――「秀、征士は?」
「さっき目を覚ました。遼がついてるから大丈夫だ」
「うん」
乱暴に水を飛ばしながら顔を洗い、秀が疲れたように息を吐いた。
「駄目だな。あそこにいると本当に息が詰まりそうになる。それでいて離れてると、また気になって仕方なくなる」
「うん」
張りつめすぎた気を少しは和らげようと病室を出て、気分をさっぱりさせようと洗面所で顔を洗って。
だが、何をやっても気分は落ち込むばかりである。
「お前は? ちょっとは楽になったか?」
「……うん」
秀にそっとタオルを手渡しながら伸が頷くと、秀はほんの少し嬉しそうに笑って、良かったと小さな声で言った。
「ちっとは素直になったじゃんか。良い傾向だ」
「秀!」
「冗談言ってるわけじゃないぜ。楽になれる場所は多ければ多いほど良いんだ。お前ってば自分の限界まで気を張り詰める傾向があるから、逃げ場所はきちんと確保しておけって事だよ」
「……」
「あーあ。オレは駄目だな」
そう言って秀は天井を見あげ大きくため息をついた。
「秀……」
「今回はホント駄目だ。修行が足りねえ。嫌んなる」
「秀……?」
乱暴にタオルで顔を拭きながら秀がぼやいた。
「自分の感情がコントロールできない。遼の事言えねえよ。オレだって、征士を見てるとどうにかなっちまいそうだ。泣くなって言われてもどうしようもない。勝手に心が痛くなってくる。励ましてやることも、大丈夫だって安心させてやることもできない。オレが一番力がねえよ」
「……そんな……こと……」
「オレだったらいいんだ。オレの身体なんか、めちゃくちゃ頑丈に出来てんだから、オレが怪我したってすぐ治る自信はある。でも、あいつは駄目だ」
「…………」
「あいつは……綺麗なんだ。綺麗すぎて、だから……傷つけちゃいけないんだ。絶対誰もあいつを傷つけちゃいけないんだ。あいつは……」
「……秀……?」
「あいつは、綺麗すぎて、透明で……誰も手を触れられない所にいる。傷つけないよう細心の注意を払ってやんなきゃ……壊れちまう」
「……秀……それって……?」
「いや、違う、そうじゃない……あれはあいつじゃない。解ってる」
「…………」
いつもと違う秀の口調に伸は戸惑ったように秀を見た。
秀は伸の視線にはっとしたように口を閉じ、誤魔化すように苦しげな照れ笑いを浮かべた。
「悪りい。オレ何言ってんだろう。混乱してんのかな」
「…………」
失いたくないのは、あの瞳。
綺麗なうす紫の。スミレの花のような、あの瞳。
大切に大切にしたかった、懐かしい少年の。
「ホント、悪りい。どうかしてる。オレ」
「…………」
「どうかしてる」
「…………」
実際、遼が落ち込むだろう事は容易に想像はついた。でも、秀がこれ程に追いつめられるとは思わなかった。
普段明るい秀のこういう時の表情はそれだけで一番心に突き刺さる。
秀の普段とは違う態度を見て、ふと伸は思った。
もしかして、秀は、征士の中に他の誰かを見ているのだろうか。自分が覚えていない昔の誰かの事を想っているのだろうか。
遙か昔の、大切な大切な誰かの事を。
秀が窓から差し込む微かな月明かりを眺めて、小さくため息をついた。

 

――――――なんとなく病室に戻る気にもなれず、当麻は1人、まだ屋上に残っていた。
もうすっかり日も落ち、辺りは夜の様相を呈している。
重たげな雲が空全体を覆い尽くしており、これは自分や伸達の心が皆どんよりと曇っている所為なのだろうか等と考えながら、当麻はじっと睨みつけるように空をみあげた。
雲の向こう側にはぼんやりと月が見える。形から言って今日は満月のようだ。
ぼやけた満月を見あげながら、当麻はズルズルとフェンスにもたれたまま地面に座りこんだ。
征士の失明。考えたくもない事実。
霧島先生は、尽くせるだけの手を尽くし、調べられる限りの事を調べてくれた。
ただ、ここは小さな病院で、眼科の権威がいるわけではない。
限界を感じなければならないことが、これ程悔しいとは思わなかったと、霧島は言っていた。
でも、望みだけは捨てたくない。例えそれが1%の望みだとしても。
「征士……」
苦しげに当麻がつぶやいた。
「……征……」
いつだって光は征士の味方だったはずだ。
光輪の名を持つ戦士に相応しい、輝くような黄金色の髪。
幾度転生を繰り返しても、その輝きは変わらずに受け継がれてきた。
日本人離れした容貌も、紫水晶のような澄んだ瞳も。すべて征士が光輪の戦士である証のようなものだ。
ずっと、そんなふうに思っていたのに。
深くため息をつき、当麻がくしゃりと前髪を掻き上げたその時、ふいにさーっと当麻の周りが闇に包まれた。
「……!?」
突然雨でも降り出すというのだろうかと上を見あげたが、雨粒は落ちてくる気配もない。
ただ、星一つ見えない暗黒の夜空の中、なんとか弱々しく輝いていた月の光が、切れた電球のように輝きを失い、ふっと消えていった。
あまりの異常な現象に思わず眉間に皺を寄せて当麻があたりを見回すと、消えた月の光の代わりに、ぼんやりとした影が当麻の目の前にふわりと現れた。
「…………」
自分自身が発光している蛍のようなその影は、段々と人の形をかたどっていき、ついに1人の青年の姿となった。
渋い薄緑の着物に漆黒の袴。腰に差した日本刀は青年の身長に合わせてかかなり長めの代物だ。
そして、その時代劇の中から抜け出たような衣装に不似合いな日本人離れした端正な顔。
「……あ……あんた……」
色素の薄いさらさらの細い髪をゆるく束ね、切れ長の目は、紫水晶をはめ込んだかのような不思議な色を放っている。
ふわりと青年の長い髪が風に揺らめいた。
「……コ……コウ……?」
「……」
「……夜光……なんで……」
月の光の中、たたずむその青年は、間違いなく、夜光、その人だった。

 

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