光の欠片 (4)
征士の視力障害に関しては、病院側でも予測していなかった事態だったようで、頭部を中心に再度、視束管撮影、頭蓋底撮影などを行う為に、征士は急遽レントゲン室へと連れられていった。
「征士……」
征士が運ばれていったレントゲン室の前で、遼は力無く廊下にうずくまって頭を垂れた。
「なあ、当麻……その視なんとか骨折っていうの、ちゃんと治るのか?」
秀が固い口調で当麻に訊いた。
詳しいことは説明されてはいなかったが、霧島がちらりと教えてくれた事によれば、どうやら征士の症状から考えられるのは、視神経管骨折かもしれないとの事であった。
視神経管骨折とは、顔面や側頭部などに強い衝撃を与えられた場合、打撲側の視神経が損傷をうけたり断裂してしまい、視神経自身に大変強い障害を残すものだ。
正面および側面像のレントゲンだけでは骨折を見逃すこともあるというので、当初の治療時、特に異常がみられなかったのも頷ける。
当麻は苦々しげな顔をして小さく舌打ちをした。
「さあ、オレも詳しくは知らん。ただ、手術によって、圧迫している骨を大きく開け直してやると治る者もいるっていうのを訊いた」
「治る者もいるって、それ、言い換えれば治らない者もいるって事じゃないか」
「……・そうだな」
「…………!!」
誰かがゴクリと唾を飲み込んだ。
「オレ……オレ、どうしたらいい?」
独り言のように遼がつぶやく。
先程からほとんど放心状態のまま、遼はずっと征士がいる治療室のドアに張り付いていたのだ。
「オレの目、征士にやるから……オレ、見えなくなってもいいから、征士の……征士の目を治してくれよ……」
「……遼……」
「オレの目なんかいらないから……オレのもの全部やるから……だから……」
嫌な予感。消えない胸騒ぎ。
だが、まさか本当に当たるなんて考えていなかった。
遼の目にじわりと涙が滲んだ。
「いい加減にしろ。遼」
当麻が低くつぶやいた。
「無茶を言うんじゃない。誰かのものを他の誰かにやるなどという事が出来るわけないことぐらい自覚しろ。まして征士の症例は角膜組織ではなく、視神経管の損傷の可能性が大きいという。だったら、お前の目をやるやらないの問題じゃないだろ」
「じゃあ……じゃあ、どうすればいいんだよ!」
「……」
「どうすれば、征士の目は見えるようになるんだよ!!!」
「……」
「難しいこと言われたって解らない! だけど、このまま何にも出来ないなんて嫌なんだよ!! ……オレの所為なんだ。何でオレが無事で、征士がこんな目に遭うんだ!? 何でオレじゃなくて征士なんだよ!! オレが悪いんだからオレの目から光を奪えばいいじゃないか!!」
「やめてよ! 遼……!!」
遮り、伸が片手で額を被う。歯を食いしばらないと立ってさえいられない。
ちりちりと神経が焼き切れそうで、伸は重苦しい空気に、呼吸することさえ忘れていた。
「……くっ……」
遼の口から低く嗚咽がもれる。
「……遼……」
座りこんでいる遼のそばに膝をつき、伸はそっと遼の頭を抱え込んだ。
ほんの少し嫌々をするように首を振って、遼はそのまま崩れるように伸の腕の中へ身体をもたせかける。
遼の艶やかな黒髪を撫でながら、伸が小さくため息をついた。
「…………」
治療中の赤ランプはなかなか消えようとしない。
いったいどれくらいこうやって息を詰めて待っていればいいのだろう。
ガンっとそばの壁を殴りつけ、ついに秀が無言でその場を去っていった。
――――――夕方、一通りの精密検査が終了した。
結果は予想通り、視神経管骨折であった。
治療には、当麻の言った手術、正式には視神経管解放手術が必要になるという。
手術は早ければ早いほど良いというので、霧島医師は近くの大学病院の眼科と脳外科に、手術の為の連絡をとった。
この病院では、眼科の手術をするには、設備が整っていないのだ。
大学病院側では、この急な申し出を快く引き受けてくれたが、受け入れ側の体制が整うのは早くても明日の朝になりそうだとの事であった。
急いで学校側へ連絡を入れ、その日は全員征士に付き添うため、病院へ泊まる許可をとり、伸達があわただしく動き回っている最中、征士がようやく一般病棟の中の個室へ再び戻ってきた。
目の回りに包帯を巻き、それでも征士は皆を安心させるように、大丈夫だと言い続けた。
病室に戻ってきた征士のそばを、遼は一時も離れようとしなかった。まるで、目を離すとそれだけで、征士が何処かへ行ってしまうのではないかと心配しているように。
反対に秀は、征士が検査の為治療室へ行っている間に姿をくらまし、ずっと戻ってこなかった。
さすがにあまりにも戻りの遅い秀を探しに行こうかと、伸が病室をでようと席を立った時、ようやく秀が病室へ顔をだした。
「秀、何処へ行ってたんだよ」
「何でもないよ。悪かった」
駆け寄ろうとした伸を目で制し、秀ははっとした表情で征士の包帯を巻き付けた白い顔を見た。
「…………」
言葉が出ない。
目に痛い程に白い包帯。
思わず正視できなくて、秀がすっと視線をそらすと、突然征士が声を荒げて秀を呼んだ。
「秀! ちょっと来い」
「な……なんだよ」
決まり悪そうな表情で、それでもおとなしくベッド際に来た秀の手を征士がいきなり掴みあげる。
「……!?」
「まったく、感心しないな。自分の身体を自分で傷つけるなど言語道断だぞ、秀」
「……!!」
秀が慌てて征士に捕まれた手を振りほどいた。
どうしたのかと覗き込んで、伸が目を丸くする。
「秀! どうしたのさ、その手」
右手の拳が真っ赤な血に染まっていた。
「どうせ、力任せに壁でも殴りつけたんだろう。まったく」
見えるはずもないのに、征士はそう断言した。
「伸、悪いがこの馬鹿者の手を手当てしてくれるよう、病院側に頼んでくれるか?」
「そ……そりゃもちろん」
「何でだよ……!」
今まで黙っていた秀が、とうとう大声をあげた。
「見えねえんだろ。そんな包帯ぐるぐる巻きの状態で、何で解るんだよ……!?」
「それくらい解る。あまり私を見くびるな」
「……!!」
ぐっと秀が言葉につまった。
「目など見えなくても、お前の事くらい解る。皆に余計な心配をかけるな。秀」
「…………」
唇を噛みしめたままの秀の瞳からポロリと涙がこぼれ落ちた。
慌ててぐいっと袖口で涙を拭い、秀は征士のそばを離れると、伸と共に拳の手当のため、病室を出た。
伸の後を数歩遅れて歩く秀の足取りはかなり重い。
つい心配になって伸が後ろを振り返ると、秀はとうとう廊下の隅にしゃがみ込んで顔を伏せた。
「…………」
秀の口から微かな嗚咽がもれる。
伸は、しばらくかける言葉も思いつけないまま、じっとその場に立ち尽くしていた。
「…………」
秀はもっと激しい泣き方をする男だと思っていた。
笑うのも怒るのも泣くのも、それこそ身体中で感情を表現するタイプなのだと。そんなふうに思っていた。
それが、こんなふうに声を押し殺して、こんなふうに涙を流すなど、知らなかった。
本当に、本当に、本当に哀しい時、秀はこんなふうに泣くのだ。
「秀、行こう」
「…………」
そっとそっと囁くように伸が言うと、秀は微かに頷いた。
――――――拳の治療を終え、病室へ戻ってきてからも、秀は、ほとんど誰とも言葉も交わさないまま病室の床を睨みつけていた。
「悪い。伸。さすがにオレも今回は自分の事で手一杯でさ。何も出来ねえ」
ポツリと秀が言った。
「秀」
「まだ、信じられねんだ。ホントに見えないのか? 征士の目」
「…………」
「あんなに、綺麗なのに」
言葉を詰まらせ、秀は床を睨みつけた。
空気が重い。張りつめた気分が続きすぎて気分が悪くなってくる。
「悪い。ホントに今日は駄目だ」
普段なら率先して皆を元気づけようとわざとはしゃぎまわるだろう秀も、今日ばかりは笑顔一つ出てこない。『綺麗だな。お前の目。まるで目の中にスミレの花が咲いてるみたいだ』
遥か遠い昔に言った自分の言葉を思いだし、秀の目にうっすらと涙が滲む。
「伸。あのさ」
ふと、顔をあげて秀が伸を見た。
「お前、当麻の所へ行ってこいよ」
「……え?」
思わず伸はまじまじと秀を見つめ返した。
「何、どういう事?」
「全員が全員、限界になっちまったら、それこそ最悪だ。お前等だけでも、なんとか楽になっておいてくれなきゃ保たない」
「…………」
「此処にいちゃ、お前もそろそろ限界だろ」
「…………」
しんとした病室。
当麻は先程から何処かへ行ったきり戻ってこない。
眠っている征士と、そのそばを離れようとしない遼の思い詰めた顔。
確かに、これ以上此処にいると重圧に押しつぶされそうだ。
「行けよ。何かあったら呼びに行くから」
すっと伸から視線を逸らし、秀は言った。
重い空気。息をすることすらはばかられるほどの。
伸はゆっくりとベッド脇に座っている遼の背中を見つめた。誰の慰めも拒否して、遼はじっと征士のそばに居る。
何を言ってあげることも出来ない事が心に痛くて。
痛くて痛くて。どうにかなりそうになる。
「わかった。ちょっと行って来る」
「…………」
「ごめんね。ありがと、秀」
伸がぽつりとそう言うと、秀は背中越しに早く行けと手を振った。
パタンと遠慮がちにドアを閉じ、廊下へ出ると、伸はゆっくりと歩きだした。
――――――探すという程もなく、当麻は居た。
病院の屋上のフェンスにもたれ、じっと沈みかけの夕日をながめていた当麻は、自分に向かって歩いてくる伸に気付き、驚いて顔を向けた。
「どうした。伸」
「…………」
「征士は? 目でも覚ましたのか?」
「ううん。まだ眠ってる」
「じゃあ……?」
「秀が」
「……?」
「秀が、当麻の所へ行ってこいって」
「……えっ?」
当麻の眉が僅かに寄せられる。
「何だ、それは。あいつ、またオレが1人でいると何かしでかすとでも思ってるのか?」
「……?」
「どうせ、オレを見張りにきたんだろ。お目付役として」
「…………」
「お前が見張ってなきゃ駄目だなんて考えるとは、失礼な奴だな、まったく」
伸は静かに首を振った。
「違うよ、当麻」
「……?」
「それは、違うよ」
もう一度伸は言った。
「君のお目付役が僕なんじゃない。僕の方が駄目なんだ」
「……」
当麻がゆっくりともたれていたフェンスから身体を離した。
「秀は、よく解ってるよ」
「……伸……?」
すっと当麻のそばに歩み寄り、伸がつぶやくように言った。
「此処に……」
「…………」
「……此処に……居ても……いい……かな」
「……」
「……少しだけ、此処に居ても……いい……かな」
「……伸……」
ささやくように伸の名を呼び、当麻はそっと伸の腕を掴んだ。
「当麻……?」
そのまま静かに腕を引き、伸の身体を自分の方へ引き寄せると、当麻はそっとそっと壊れ物を扱うかのように優しく伸の肩を抱いた。
「……大丈夫。大丈夫だから」
「…………」
「きっと、大丈夫だから」
「…………」
こういう時の当麻は信じられないくらい優しい。
伸はようやくほっと息をついて静かに目を閉じた。