光の欠片 (2)

「遼、ちょっとは落ち着いた?」
自販機から暖かいコーヒーを取り出し、遼の手に握らせて、伸はストンと隣に腰を下ろした。
幸い、征士以外にはたいした怪我人もいなかったようで、すぐに東門に戻ってきた浩子先生と共に、伸と遼は急いで救急車に乗り込み、この救急病院に到着した。
見覚えのある門をくぐり、病院の入り口についてすぐ、征士はストレッチャーに乗せられて集中治療室へ入って行った。後を追って浩子先生も病院の医師達と共に治療室へと向かう。
此処で待っているようにと待合室を指さされ、伸と遼は扉の向こうへ消えていく征士の姿を見送った後、渋々ながら入り口近くの待合室へと向かった。
血の気のない青ざめた征士の顔色が目に焼き付いて離れない。
さっきからずっと押し黙ったままの遼は、微かに震える手で伸が持ってきてくれたコーヒーをすすった。
「上着、はおってくればよかったね。寒くない?」
「…………」
伸の問いかけに遼は小さく首を振った。
さっきまでは気にならなかった寒さが急にひしひしと身に染みてくる。
本当にせめて学生服をはおってくればよかったと、隣で微かに震えている遼の肩を見て伸は思った。
「……征士はオレの所為で怪我したんだ」
ふいに押し殺した声で、遼が口を開いた。
ずっと押し黙っていた間、その事ばかり考えていたのだろうか。
「遼、それはさっき聞いたよ。でも、君の所為なんかじゃないって征士も言ってたろう」
意識を失うまで、ずっと征士は遼の事を気にかけていた。痛みの為、目も開けられない状態でありながら、遼に心配するなと、大丈夫だからと言い続けていたのだ。
「征士がどう言ったって事実は事実だ。オレがいなけりゃ征士は……」
「遼……」
「あん時、オレと征士は標本の整理をするために倉庫に居たんだ。オレが脚立にのって一番上の棚からでかいガラスケースを取ろうとした瞬間だった。地震が起こったのは」
「…………」
「オレ、バランス崩して脚立から落ちちまって、征士はそれを身体ごと受け止めてくれたんだ。そん時、オレが取り損ねたガラスケースがグラッって揺れて。オレ、危ないって叫んだんだけど……」
「…………」
「オレの身体が邪魔しちまった所為で、征士はうまく避けられなかった。オレを庇おうとして無理な体勢になってたからもろに正面から……」
「遼……!」
「オレが……」
遼が手にしていた紙コップをぐしゃりと握り潰した。まだ中に残っていた熱いコーヒーがパッと手に飛び散る。
「なっ……何やってるんだよ!?」
飛び散った熱いコーヒーはもろに遼の腕にかかっている。
伸は慌てて遼の手から紙コップを奪い取り遼の腕を掴み立ち上がらせようとした。
「遼、早く冷やさないと、火傷してたら大変だよ」
「火傷なんかしないよ。オレは」
伸の手を引きはがし、遼が断言した。確かに言われてみると、遼の手は火傷どころか何も異常はなさそうである。
遼は烈火の戦士だ。
普通の人より炎や熱に強くて当然なのだ。
つぶれた紙コップをそばのくず入れに投げ込み、伸が小さくため息をついた。
「遼。じゃ、火傷はともかくとしてコーヒーで汚れた手を洗いに行こう。カッターシャツもそのままだったら染みになっちゃうよ」
「…………」
「さ、行こう」
伸に促され、ようやく遼はノロノロと重い腰をあげた。

 

――――――トンっと学校の裏口の通用門の脇の塀を乗り越えて地面へ降り立った秀は、呆れたように隣の当麻を見あげた。
「お前さ、もしかしてしょっちゅうこうやって学校無断で抜け出して授業さぼってるのか?」
「人聞きの悪い言い方をするなよ。意味のない授業は受ける必要がないと思っているだけだ。すでに解っていることを再度確認する必要などないだろう、その分の時間を新しい知識を詰め込むことや自分にとって有効なことをする為に費やして何が悪い」
「って、わざわざ抜け出して何処へ行ってるんだよ」
「市街にある中央図書館とか、大学とか……」
「大学ぅ? お前、大学生に紛れて何やってんだ?」
「別に、大学のキャンパスって昼寝にちょうどいいんだよ。ぽかぽか暖かくってさ。あそこ壁がガラス張りなんだぜ。」
「昼寝の何処が有効な時間の使い方なんだ」
「心身共に疲れを癒す。こんな有効な時間の使い方はないぞ」
「も、いい。わかった」
呆れて肩をすくめ、秀は歩きだした。
「まったく、んなだからブラックリストに載るんだよ」
「ブラックリスト? そんなものがあるのか? あの学校は」
「って言うもっぱらの噂。伸が呆れてたぜ。いい加減にして欲しいって」
「へっ、悔しかったら先生達の中の1人で良いから、オレを感心させるだけの知識なり何なりを披露して欲しいものだぜ」
明らかに開き直った態度でそう言って当麻は駆け出した。
「ほら、いくら此処が職員室や教室から一番見えにくい死角にあるからって、絶対見付からないって保証はないんだぞ。急げよ」
「わあってるよ」
「…………」
征士を心配な気持ちは2人とも同じだ。
冗談を言い合っているような態度とは裏腹に、表情は異常なほど緊張に強ばっている。
それでも張りつめすぎた神経を和らげる為にか、2人はどちらともなく話を続けながら、ただひたすら病院に向かって走り続けた。
「……なあ、大丈夫だよな。征士」
ふと、会話が途切れたとたん、ぽろっともらした秀の言葉を聞き、当麻の表情が硬くなる。
「大丈夫。あいつがそうそう簡単にくたばるか」
「ああ、そうだよな」
「…………」
大丈夫。大丈夫。
繰り返すごとに、その言葉が如何に陳腐なものか思い知らされる。
それでもそう言うしかない自分達の非力が情けなくて、当麻はギリッと唇を噛んだ。

 

――――――「ああ、やっぱり染みになっちゃうね。帰ったらちゃんと袖口染み抜きしないと……」
「…………」
「火傷しないってのは解るけど、だからって熱くないわけじゃないんだから、バカなことしちゃだめだよ、遼」
「…………」
「言っとくけど、一度に2人の心配するのと1人の事だけ心配してればいいのとでは全然気の張り方が違うんだからね。解ってる?」
「…………」
ずっと黙ったままの遼とは対照的に、伸は何故か洗面所に来てからずっとひとりでしゃべりつづけていた。
まるで沈黙を怖がっているかのように。
そう。きっと伸は怖がっていたのだ。
ただでさえ、嫌な事ばかり頭の中に浮かんできてどうしようもないのに、静かになってしまったら、余計にこの悪い想像から逃れられないような気がして。
人一倍慎重派だった征士。
秀や遼には日常茶飯事の小さな怪我も征士の場合は滅多となく、風邪をひくことさえほとんどなくて。毎朝素振りをして身体を鍛えている奴は違うねと、この間風邪のため鼻水を垂らしながら言っていた秀の言葉を思い出す。
それほど一番病院とは縁が遠そうだった征士が、こんな事になるなんて。
「オレ、どうしよう」
ようやく遼がそれだけ言った。
遼はずっと自分を責め続けている。
伸は、小さくため息をついて遼の目の前に立ち、真っ直ぐに遼を見つめた。
「遼、ひとつ忠告しておく。今の君を征士は決して喜んだりしない」
「……伸……」
「遼の気持ちも分からなくはない。いや、むしろ解りすぎるくらい解るよ。自分が無事だったことが許せなくて。自分の代わりに怪我をするくらいなら、どうして放っておいてくれなかったのかって。悔しくて悔しくて仕方ない」
「…………」
「そういう気持ち。とてもよく解る」
「…………」
「僕だって、自分だけが助かって相手が怪我した時は、本当にどうしようって思った。だけど、起こってしまったことはもう変えられない。だとしたら、無事だった僕等が出来ることは、大切な人が早く良くなることを祈ることだろ。その人をこれ以上心配させないように、自分は元気だって見せてあげることだろう」
自分を庇って怪我をした大切な人。
伸の言っているのは当麻の事だろうか。
そういえば、この病院はまさに当麻と伸がお世話になった、例の病院なのだ。
見舞いに来た時と同じ白い壁に白い天井。清潔そうなシーツ。病院独特の、薬用アルコールや消毒液、オキシドールの匂い。せわしなく行き交う、看護婦さんや白衣の先生達。
そういえば、征士と同じように、先程の地震の為、怪我をした人が数人運ばれていくのも見かけた。
「遼。征士は君にそんな顔をして欲しくて、君を庇ったんじゃないよ」
「…………」
「それだけは解るよね。征士の気持ち、解るよね」
「……ああ、解る」
小さく遼は頷いた。

あの時、ぐらりと突き上げるような揺れがあったあの時。
脚立の一番上から落ちたというのに少しも痛くなかった。征士がその身体で自分を受け止めてくれたからだ。
隙間なく置かれたたくさんの標本箱やアルコール漬けのよく分からない生物。
埃をかぶった数々の書類や分厚い本が、棚の上の方に危なっかしく積み上げられている。
いったいどれくらい整理してなかったんだろうなって笑いながら話していたのに。
あの瞬間、ズンっと身体の芯が持ち上げられるような気がした。
地震だと思う間もなく、バランスを崩した遼の身体は脚立から足を踏み外していた。
奇妙な浮遊感と意外なほどの衝撃の少なさ。
自分の下に征士がいる事を悟り、とっさに退こうとしたとたん、二度目の強力な揺れがあった。
古びた棚がギシリと嫌な音をさせたのを耳にして、おもわず見あげた目の端に、ぐらりと揺れた箱の角にあたって砕けたガラスが映る。
とっさに叫んで身を伏せた遼を庇って征士が顔をあげる。
ほんの一瞬、タイミングが遅かった。
征士に向かって大量のガラスの破片と共に落ちてきた箱や書類や中に飾ってあった虫や蝶の死骸。舞い上がった埃。
いかにも重厚そうな分厚いケースがガンっと音を立てて征士の額にぶつかる鈍い音がしたかと思うと、外れた蝶番が床をカラカラと転がった。
額を抑えて歯を食いしばる征士に、更に追い打ちをかけるような揺れ。
吐き気をもよおすような揺れと転がるガラスや画鋲を伴奏にして床の埃がダンスをしている。
ぽたりと征士の額から赤い血が滴り落ちた。
深紅の薔薇のような色だった。

 

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