THE GIVING TREE−与え続ける−(2)

「この絵本は売り物じゃないんですか?」
カウンター脇の本を手に取り、伸が訊ねた。
『THE GIVING TREE』
それがこの本の題名である。
「ああ、それは私の孫の気に入りの本だったんで売るのをやめたんだ」
「そうなんですか」
何度も何度も読んだことが一目でわかる。それでいて如何に大切にこの本を読んでいたかもわかるような古い本だった。
「……この本、ボクも好きでした。以前、ある友人に勧められて読んだんですが、最初は英語の本なんて解らないって敬遠してたんです。でも、一度読んでみると、なんか伝わってくるんです。あの頃は、まだそんなに英語の勉強をしていたわけでもなく、述語や連語なんか全然わからなくって、知っている単語を拾って読んでるだけなのに、何か、だからこそ、イメージっていうんでしょうか、伝わってくるんです。Giving、与え続ける。それでも、与えるだけでも彼女は幸せだったって……その想いがそのまま伝わってきて、とても好きでした」
「私の孫も、そう言っていたよ」
穏やかに微笑んで老人は伸に頷いてみせた。
「孫がこの本を初めて見たのは中一の夏だった。習いたての英語で何か読んでみたかったんだろう。ある日こっそり、この本を持ち出しよった」
「と……盗ったんですか?」
「本人に悪気はなかったんだろうがな。後で両親にひどく叱られて返しに来たよ。それ以来、好きな時にあの子が、この本を読めるよう、ずっと売らずにいたんだ」
「…………」
パラパラとめくるページの一つ一つにその子の大切な想いが挟み込まれているような気がして、伸はゆっくりとその本を閉じかけた。
「…………!?」
そして、閉じかけた伸の手が止まる。
「こ……これ…………この本」
「伸……?」
伸の声が微妙に震えているのに気付き、当麻がふっと顔をあげた。
「伸?」
「あなたの……あなたのお孫さん……って…………」
「……?」
「そんな……まさか……」
伸の手に握られていたのは一枚の写真。
本の中に挟み込まれていたその写真の中で、一人の少年が笑っていた。
太陽のような明るい笑顔のその少年は、当麻にも見覚えのある少年だった。
「……正人……木村正人」
震える声で、伸は懐かしい友人の名をつぶやいた。
それは、伸が当麻達に出逢う前、萩の街で共に時間を過ごした幼なじみの少年の名前だった。
明るい性格と、ハキハキしたしゃべり口調と、元気いっぱいの笑顔。
正人。
一緒の高校に行こうと肩たたき合って誓った相手。
春も夏も秋も冬も、一緒に過ごした相手。
もう少しそばにいたくて、もう少し笑顔を見ていたくて。
そして、その為に取り返しのつかないことをしてしまった相手。
「…………」
どうして今まで気付かなかった。
いつ気付いてもおかしくなかったはずなのに。
何故この店が性にあったのか。波の音が懐かしかったのか。
それはすべて、此処が正人のいた場所で、この音が正人の聴いた音で、この本が正人の見た本で。
そして何より、今、目の前にいるこの老人の瞳は正人に瓜二つではないか。
「気付かない方がどうかしていたんだ」
今も耳に残る正人の声。そして、この波の音は伸もよく知っている萩の海だ。
毎日、正人と聞いていた萩の海の音だ。
「あの……僕……」
老人がそっと眼鏡を外し、カウンターの中から出てきた。
「まさか、あなたが……僕、全然知らなくて……あの……すいません…………ごめんなさい……」
伸の言葉を遮るように、老人は伸の肩に手を回し、引き寄せた。
「ごめんなさい……」
波の音が一段と大きくなったような気がした。

 

守りたくて、守りたくて、守りたくて。
いつもいつもそのことだけ考えていた。
どうすれば、あの人を守れるのか。
どうすればあの人を失わずにすむのか。
ずっと。ずっと。そのことだけ考えていたのに。
何年も。何十年も。何百年も。
ずっと。ずっと。ずっと。
……紅の……紅の中の彼の人。
いや、違う。
正人。……正人だ。あれは、正人だ。

 

――――――次の日、当麻と伸が古書店へ行くと、扉は閉まったままで、入り口に一枚の張り紙がしてあった。
― 誠に勝手ながら、当店は本日をもって閉店させていただきます―
「どういうことだ……」
表の扉が開かないとみると、当麻は息もつかせぬ速さで裏口に回った。
「じいさん! どういうことだよ! おい、居るんだろ! 開けろよ!」
腕も折れよとばかりに戸を叩く当麻の傍で、伸は身動きも出来ずにじっと立っていた。
何がどうなったのか、頭の中が混乱して、思考がうまくまとまらない。
ただ、当麻の焦りと憤りだけが、伸の心に共鳴する。
「あんまり叩くと扉が壊れてしまうよ、当麻君」
ようやくギーっと音を立てて開いた扉の内側で、老人はいつもと変わらぬにこやかな表情を湛えたまま、2人を迎え入れた。
「どういうことか説明してくれ。じいさん」
勢い込んで尋ねる当麻に対し、老人は相変わらずゆっくりとしたいつも調子で困ったように眉を掻く。
「説明といっても、表の張り紙を見てくれたんだろう?」
「見たから聞いてるんじゃないか!」
「まあまあ」
当麻の声を手で制し、老人は椅子から立ち上がると、2人に封筒を手渡した。
「短い間だったが、とても楽しかったよ。これはほんのお礼だ」
「じいさん……」
封筒の中には数日間分の給料らしきものが入っている。
「じいさん。オレはこんなもののために言ってるんじゃない」
「当麻君、どれでもいい、好きな本を一冊持っていっておくれ」
「…………」
「君ほどの本好きを、私は初めて見たよ。君に読んでもらえるのなら、どの本も大喜びするだろう」
「じいさん、オレは……」
「当麻君、君はとても良い目をしている。君はきっと私の孫がしたくて出来なかった事を、代わりにやってくれるような気がするよ」
「…………」
「いつまでも元気で……伸を護っておくれ……」
「…………!?」
最後の言葉は当麻にだけ聞こえるように、老人はそっと言った。
「……あ……」
おもわず当麻が老人を凝視すると、老人はゆっくりと頷き、次いで伸に向き直った。
「伸君、これを貰ってやってくれないか」
「……えっ……」
そう言って老人は、伸に一冊の本と手紙を差し出した。
「い……いただけません。こんな……」
「何故だね……?」
「僕は……だって、僕はあなたに何も言ってない……何も出来てない。もっと、僕は……あなたと……あなたが…………」
「大丈夫だから。何も心配しなくていいから。安心していいんだよ」
「………………」
「伸……もう、泣かなくて良いんだよ」
「…………」
「知っているかい。私はとても君達に逢いたかったんだ」
老人の瞳は、伸の心を包み込むように暖かかった。
「逢いたかったんだよ」

 

ザザザーン ザザザーン
誰もいない店内に、まだ波の音だけが響いていた。
伸は波の音に揺られながら、そっと本を広げてみた。
『THE GIVING TREE』
手紙は正人から老人へ

じいちゃん、元気ですか。オレは元気です。
毎日、波の音を聴いていると、自然と元気が沸いてくるので、オレはいつも元気です。だから、じいちゃんにオレの元気を分けてやろうと思い、波の音を入れたテープを同封します。
じいちゃん、これがオレの一番好きな波の音だよ。これを聴いて元気だしてくれよな。
この波の音は、オレにいろんな事を教えてくれたんだ。
じいちゃん、以前言ってくれたよね。忘れてしまったことは忘れてもいいことなんだ。忘れられないことは忘れなくていいことなんだって。
オレ、どうしても忘れられないことがあるんだ。半分以上忘れちまったのに、心のどこかでずっと警報だけが鳴り響いてるような、そんな感じなんだ。
オレはもうすぐ大切な友人をなくすかもしれない。わかんないんだけど、そんな気がするんだ。
大切な奴なんだ。いい奴なんだ。自分の事より他人の事を先に考えるような。
ほら、以前、宮澤賢治の言葉、教えてくれただろう。
“世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない”
あいつって、自分自身が嬉しい時より、嬉しそうな奴見てる時のほうがいい顔するんだ。だからさ、オレ、そいつがいつか他人より自分の事を考えられるように、自分の事だけ考えて胸張って歩けるようにしてやりたいんだ。そいつに言ってやりたいんだ。もう大丈夫だよって。もうみんな幸せなんだから、あとはお前が幸せになればいいんだ。もういいんだよ。安心していいんだよって。
っても、本人目の前にしたら、こんな事言えないんだけどさ。
じいちゃん、いつかそいつ紹介するから。毛利伸っていうんだけどさ。
いつか逢って話してくれよ。きっと気に入るよ。
じいちゃん、それと、ひとつ約束してくれよ。オレに何があっても信じてくれ。周りがなんと言っても、じいちゃんだけはオレがオレの一番やりたいことをやったんだって。後悔してないんだって、信じててくれよ。
じゃ、また。元気でな、じいちゃん。
                              正人より

もう、いいんだよ。安心していいんだよ。
波のリフレインは、そう伸に語りかけているようだった。

 

高校受験を間近に控えたあの日、迦雄須に出逢った。
水滸の使命を知ったあの日。
もう少しだけ今のままでいたくて、もう少しだけ使命を忘れていたくて、迦雄須に記憶操作を頼んだ。
今しばらく、集結の日まで、忘れさせておいてくれと。
そのため、目覚める前の水滸を葬ってしまおうとやってきた妖邪兵の手に正人は倒れた。
もう少し早く目覚めていれば。
あの時、記憶操作など頼まなければ。
伸ばした手は届かず、妖邪兵の放った鎖鎌は、正確に正人の心臓を貫いていた。
溢れ出す血の海と、思い出の赤い鎧が交差する。
守りたくて、守りたくて、守りきれなかった、彼の人。
「武装、水滸ー!」
初めて武装をした日。初めて手を紅に染めた日。守りきれなかった人。
「行けよ、伸。オレのことはいいから」
痛みに顔を引きつらせながら、それでも無理に笑顔を作り、正人が言った。
「何言ってんだよ。君をこのまま放っていけるわけないじゃないか」
「集結の日が来たんだろ。お前を必要としている奴がいるんだろ。行ってやれよ、オレのことはいいから」
「正人!」
「お前がここに居たって何が出来る。行けよ仲間の所へ。ずっと逢いたかったんだろ」
「…………」
「知ってるよ。オレは。お前はそいつにずーっと逢いたかったんだろ」
「ま……正人……」
「ちゃんと、オレは知ってんだからさ……」
思い出の赤い鎧。
逢いたかった人。
ずっと。ずっと。ずっと。
何年も。何十年も。何百年も。
ずっと。
ずっと逢いたかった。
心の何処かで仲間を求めていた伸の想いを、何故正人は知っていたのか。
「……ほら、救急車の音が聞こえてきた。もう大丈夫だよ」
遠く聞こえる救急車のサイレンの音。
「正人」
正人の顔から、血の気が引いていく。
握った掌はもう氷のように冷たかった。
「……正人、やっぱり行けない。君と一緒に病院まで行くよ」
「何馬鹿なこと言ってんだよ! お前この状況をどうやって説明するんだよ。病院なんかについてきて、事情聴取されたら逃げ出せなくなるぜ」
伸の手を振りきり、正人は言った。
「時間がないことはお前が一番知ってるじゃないか。ほら、オレは大丈夫だから、こんな事でくたばったりしないから、大丈夫だから、行けよ、伸! 頼むから行ってくれよ」
「正人……」
「オレはお前の足手まといにはなりたくないんだ」
「正人!」
「行けったら、行け!」
血の気を失った正人を道の脇に横たわらせ、それでも確実に、正人が救急車に運び込まれるのを確認した後、そのまま、伸は新宿に向かった。
仲間に逢うために。赤い鎧と再会するために。

 

正人の死を知ったのは、それから一ヶ月後の事だった。

 

『THE GIVING TREE』

Once there was a tree……
and she loved a little boy.

木はとても少年が好きだった。少年も木がとても好きだった。
なのに、少年は大人になっていくに従って、木のことを忘れた。
それでも、木は少年が好きだった。
少年が金が欲しいと言えば、自分の実をあげてそれを売らせた。
少年が家が欲しいと言えば、自分の枝をあげた。
少年が船が欲しいと言えば、自分の幹を切らせた。
木は少年のほしがる物をすべて与えた。
与え続けた。
それでも、木は幸福だった。
何故って
木はとても少年が好きだったから。
やがて、老人になってしまった少年がやってきたとき、木はもう何もあげる物が残っていなかった。
でも、ただひとつ。腰掛けて休むことのできる切り株だけ残っていた。
少年はそれを欲し、木はそれを与えた。
与えて、与えて、与え続けて
それでも木は幸福だった。
木はとても少年が好きだったから。

Come,Boy,sit down.
sit down and rest.
And the boy did.
And the tree was happy.

Tree was happy.

 

――――――「新しい店が建つんだ、此処」
数日後、商店街のはずれのその場所には、工事中の看板が立っていた。
「伸が貰ってきたあの絵本、良い話だよね。オレ、好きだな、ああいうの」
遼の言葉に、やさしく伸が微笑んだ。
遼はそんな伸を見つめ返した後、ふっと視線を落とす。
「でもさ、寂しくはないんだろうか。与えて与えて、与え続けるだけで、寂しくはないんだろうか」
「なんだ遼、おまえ見返りを期待しなきゃ何もできんのか」
遼の言葉に、横から当麻が茶々をいれる。
「そうじゃない、オレは別に……」
「自分の想い人が倖せなんだ。それだけで十分だと私は思うぞ」
「征士の言うとおりだぜ、遼」
遼の隣で、秀と征士が明るく笑った。
賑やかな商店街を歩きながら、伸はそっと当麻にだけ聞こえるように、つぶやく。
「僕ね、きっと逢いたかったんだよ。おじいさんが僕に逢いたかったように、僕もきっと逢いたかったんだ」
「……ああ」
「また逢えるかな」
「逢えるさ。きっと。いつか、また」
当麻が優しくささやいた。

 

波の音が耳にこびりついて離れなかった。

FIN.    

1992.10 脱稿 ・ 1999.10.24 改訂 ・ 2004.8.19 再改訂

 

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