THE GIVING TREE−与え続ける−(1)

Once there was a tree……
And the tree was happy.And the tree was happy.

 

ある日ある時、いきなり、本当にいきなり伸が言い出した。
「バイトをしよう!」
時は平成。
それは、伸達トルーパー5人衆がめでたく阿羅醐との戦いを終え、平和なひとときに酔っていた頃のことである。
とはいえ、彼らも学生の身。しかも中学3年生が4人もいる。ということで、もちろん受験勉強もし(当麻以外)、編入試験も受け(伸のみ)、めでたく全員同じ高校へ進み、晴れて自由の身となって初の夏休み。花の(!?)夏休みの真っ最中。
「いきなり何言い出すんだよ、伸!」
もちろん、真っ先に反対の声をあげたのは、海へ行く準備に必死になっていた秀であった。
「いきなりって言うけど、ずっと前から考えてはいたんだ。僕達、共同生活を始めて随分経つだろう。だったら、いつまでも親のすねかじりじゃなく、生活費くらい自分達で稼ごうと思って。今までさんざん迷惑と心配をかけたんだから当然じゃないか」
顔色ひとつ変えずに演説ぶる伸に、全く反対する気配のない遼と、面白そうだと身を乗り出す当麻。いつもと全く変わらない征士。多数決での勝負は、する必要さえないと、その瞬間秀は悟っていた。
「……で、いつから……?」
「今日からさ、もちろん」
しぶしぶ言った秀の言葉にすかさず答える伸を見て、秀は諦めきった顔で頷いた。
「了解」
「では、早速行動開始!」
伸の声を合図に、5人はそれぞれの心持ちで動き出したのであった。
梅雨明けの眩しい季節が、今まさに始まろうとしていた。

 

――――――「伸ちゃ〜んv」
ハートマーク付きで前を歩く伸に声をかけた当麻は、120%スマイル(と、本人は思っている)で、笑いかけた。
「何、当麻」
対する伸は、あきれていることを隠しもしない表情で振り向く。
「伸ちゃんてば冷たい……」
「冷たいって……何処が? 何って聞いただけだろう」
かなり心外だと言いたげな伸を見て、当麻は、ニヤニヤと満面の笑みを浮かべると、手にした1枚の紙をヒラヒラさせながら伸に近づいて来た。
「バイトさ、ここにしない?」
「へっ?」
当麻が差し出したそのチラシには確かに[バイト募集]の文字が書かれている。
如何にも1枚1枚描きましたと言わんばかりの手書きのチラシ。
それは、どうやら古書店のチラシの様で、中には書いた人の人柄が見えてくるような温かい文字で、木村古書店という名前が書かれてあった。
「木村……古書店……? 何、古本屋?」
「そう。ちょうど2人募集だし、いいんじゃないか?」
「また、本屋だと暇な時に本が読めると思ってだろ。どうせ」
「いいじゃないか。人間、向学心をなくしちゃいかんのだぞ」
「どーいう理屈だか……」
呆れ顔で文句を言いながらも、伸は結局当麻と共にその古書店へ向かった。
温かな文字と、古書店という場所。
案外良いバイト先かもしれない。
何故かそんな予感が伸の頭の中をかすめたのだった。

 

――――――「いらっしゃい」
商店街のはずれにある小さな店の主人は、もう70歳は越しているだろう白髪の老人だった。
「何をお探しかね」
「あ……いえ、違うんです。オレ達、バイト募集のチラシを見て来たんですが」
「それはそれは、ようこそ。よく来てくれたね、2人共」
そう言って、老人はレジカウンターから出てくると、伸と当麻に握手の為に手を差しだした。
2人を見つめる老人の瞳は、深い海の底のように穏やかで優しそうで、伸は、何故か不思議と懐かしいような妙な感覚にとらわれた。
何故だろう。とてもとても懐かしい感じがする。
初めてあったはずの人なのに、何故こんなにも心穏やかになるのだろう。
「名前は?」
「…………」
いつもならこういう質問に答えるのは伸の役目のはずなのに、何故か伸はぼうっとしたまま老人の問いに答えようとしないので、当麻は慌てて横から口を挟んだ。
「……は、羽柴当麻です。こっちは毛利伸」
「当麻君に……伸君か、とても良い名前だね」
「ありがとうございます」
ちらりと一瞬伸を見た後、老人は相変わらず穏やかな笑みを浮かべたままで当麻に向き直った。
「特に面接ってほどじゃないんだが、1つ質問をしていいかね」
「ええ」
「君達、本は好きかね」
優しく包み込むような瞳をして、老人が聞いた。
「ええ、もちろん」
すかさず当麻が答える。
「そうか、ならよかった。じゃあ、早速明日から頼もうかな」
優しく笑い、伸の肩を軽くたたきながら老人は言った。
「ちょ……そ、そんな簡単に決めていいんですか?」
普通、バイトを雇うなら、履歴書を見るだの何だの色々手順というものがあるだろうに。
あまりにもあっさりと出された採用の言葉に、当麻は思わず目を丸くした。
「名前聞いただけで、まともな面接してないのに……そんなんで……」
「これでも、人を見る目はある方だと思っていたんだが、私の見立ては間違っているのかね」
おもわず口にでた当麻の質問に、老人はいたずらっぽく笑いながら答える。
「顔と話し方の姿勢を見ればだいたい分かる。君達は充分に信頼に値する子達だろう?」
「あ……明日からよろしくお願いします!」
拍子抜けするほどあっさりと決まってしまったバイト先に満足し、当麻は早速、明日の来店を約束をして伸を促し、店を後にした。
「……なんか、オレが勝手に決めたみたいだけど、大丈夫だったのか?」
帰り道、口数の少ない伸を気遣って当麻がそっと声をかけると、伸はきょとんとした顔で当麻を見上げた。
「大丈夫って、なんで?」
「なんでって……お前、結局ほとんど口きかなかったじゃないか。嫌なら断らなきゃいけないし……」
「別に嫌じゃないよ」
「そうなのか?」
「うん……」
何だか心此処にあらずと言った表情で伸はほうっと空を見上げた。
「なんかね。波の音に酔ったみたいなんだ」
「波の音?」
「ほら、店の中にずっと流れていただろう。BGM代わりの波の音。なんだかとても懐かしくって……」
「ふーん」
波の音が懐かしい。
それは伸の故郷の萩が、いつも波の音のする街だったからだろうか。
海とは程多い環境で育ってきた当麻には分からない何かが、あの音にはあるのかも知れない。
自分の知らない伸が其処にいるようで、当麻の心がほんの少しだけチクリと痛んだ。

 

…………紅…………一面の紅…………
しばらく忘れていたはずの光景…………
紅の中のあの人……いや、彼か…………
まだ、覚えている。忘れてなどいなかった、一瞬たりとも
守りたくて、守りたくて、守りきれなかった……彼の人
いや、違う、彼だ……忘れてはならない、彼だ
彼、彼の名は………………

 

――――――「どうした伸、寝不足か?」
「え……?」
「赤い目をしている」
朝食の用意をしている伸を手伝いながら、おもむろに征士が言った。
伸は慌てて隠すように目をこすり、曖昧な笑みを浮かべる。
「ん……ちょっとね。何でもない。昨日遅くまで本読んでた所為で、寝不足なんだよね」
「そうなのか?」
「うん。そうそう」
無理に笑う伸を見て、征士はあまり立ち入るべきではないと判断してか、それ以上追求する事をやめ、テーブルに食器を並べ終えると、まだ下りてこない残りの仲間を呼びに二階へと上がっていった。
いつもどうりの朝。
しかし、伸の頭の中には夕べの夢がこびりついて離れなかったのである。
それは、懐かしくて、懐かしくて、哀しい夢。
忘れたくなくて、でも思い出したくない過去の夢。
過去の。悪夢。

 

――――――「不思議なBGMですね。波の音だけで音楽がないなんて」
「古本ばかり置いてある店には音楽よりこの方が良いと思ってな。それにこの音の方が、私が安心できるんだよ」
小綺麗に整理された、でもかなり広い面積を持つ本棚を見上げながら言った伸の質問に、老人は笑いながら答えてくれた。
店の中には昨日聞いたのと同じ波の音が延々繰り返し流れ続けている。
波の音。
寄せては返す波の音。
懐かしい浜辺の匂いまでするような、そんな波の音。
「なんだか、故郷を思い出しますね」
波の音に揺られながら、伸がそうつぶやくと、老人は穏やかな目を伸に向け、嬉しそうに微笑んだ。
「ほう、海のそばで生まれたのかい?」
「ええ、歩いて15分もあれば海へ出られました。高一の春まではそこにいたのですが……」
一瞬、伸の表情が翳り、言葉が途切れる。
老人は伸の表情の変化に気付かない様子で、棚の本の整理を続けながら店内に広がる波の音に耳を傾けていた。
「…………この波の音はな、私の孫が送ってくれたものなんだよ」
「え……?」
「やはり、海の近くに住んでおってな。私の家に遊びにくる度に自慢するもんで、羨ましがっていたら、去年の春頃、手紙と一緒にテープを送って寄こしてくれたんだ。“じいちゃん、これがオレの好きな波の音だよ”って」
「……そうなんですか」
おそらく、その子も読んだのであろう古い絵本が、カウンターの隅にたてかけてあった。
誰もいない店内には、古い紙とインクの匂いが満ちている。
この空間に、この波の音は本当に上手く響きあっている気がする。
穏やかで、優しい空間。
懐かしい時間。
「そういえばじいさん、こんな閑古鳥が鳴くような店に、バイト2人も雇って、意味あるのかい」
今の今まで棚の中の本をむさぼり読んでいた当麻が、いきなり顔をあげ訊ねてきた。
「ああ、いいんじゃよ。この店だって私の趣味でやっているだけのものだし、話相手ができて、嬉しいくらいじゃよ」
「なるほど……ってことは暇な時は、こうやって本を読んでいても構わないって解釈していいのか?」
「もちろん」
老人の言葉が終わらないうちに、当麻は新しい本を見つけて、それに没頭しだした。
「すいません。なんか……」
おもわず恐縮した伸に、老人はいいんだよと目の端で頷いた。
なんだか、こんな小さなやりとりでさえ、心がほっと温かくなる。
仕事をしていると言うより、心を休めに来ているようだなと考えながら、伸はくすりと微笑んだ。
本当に、1日の客が20人に満たない日もある程で、当麻と伸は、それから毎日波の音に揺られながら静かに過ごしていた。
始めの1週間で、当麻は歴史関係の棚をすべて読破してしまい、今は医学書に夢中になっている。
伸はというと、当麻ほど遠慮なしに本を読む気になれず、もっぱら老人とのおしゃべりに花を咲かせていた。
と言っても、そう弾んで話をしているわけではない。たまにぽつりぽつりと話をし、時には1時間近くも黙って波の音を聴いていた。
でも、そんな時間の過ごし方も決して嫌ではない。
ただ黙って此処にいる。
それがとても居心地が良い。
老人もそう考えてくれているといいなあと思いながら、伸はふと穏やかな笑みを浮かべている老人の横顔を見あげた。
「…………?」
ほんの一瞬、何か予感めいたものが頭の隅をかすめる。
なんだろう。何か、とても大事なことを忘れている気がする。
いや、忘れているのではない。気付かなければいけないことを見逃している気がする。
何だろう。それは。
寄せては返す、寄せては返す波の音。
それは、時の記憶のリフレインに似て。
懐かしい、彼の人。
忘れてはならない彼。
波の音に重なって、伸の心の中に一人の少年の面影が過ぎっていった。

 

――――――ある日の午後、向かい合わせにお茶を飲みながら伸が老人に向かって言った。
「前世って信じますか?」
「前世?」
いきなりの伸の質問に老人は一瞬言葉を失い、次いで微かに笑った。
「突然どうしたんだい?」
「あ……す、すいません。いきなり……その…」
「君は信じているのかい?」
伸の慌てぶりを可笑しそうに見つめながら、老人は伸がいれてくれたお茶を飲んだ。
「え……あの…………」
「私は信じるよ」
「…………」
伸は目を丸くしてそう言った老人を見つめ返した。
「あの……」
「こんな老人が前世を信じるなんておかしいと思っているんだろう?」
「あ……いえ、そんなことは決して」
「私は信じるよ。世の中の不思議なことも、人の想いが遥か未来へ受け継がれていくということもね」
「……未来へ……?」
「ああ、未来へな……」
「…………」
老人の穏やかな顔を見て、伸は思わず目を伏せて息を吸い込んだ。
何故だろう。心の一番奥に触れられた気がした。
何故だろう。この老人は何かを知っているような気がする。
それが何かは分からないが、確かにこの老人は伸の心に触れてくれた。
誰も入り込めないはずの心の奥に。
「…………夢をみるんです」
ぽつりと伸がつぶやいた。
「ほう、どんな?」
そっと、眼鏡を外して老人が訊ねる。
「目の前が一面の紅に染まって……そして……そして僕はいつも大切な人を守れずにいるんです」
守りたくて、守りたくて、守りきれなかった彼の人。
炎の中の。
「それは、君にとって、本当に大切な人だったんだろうね」
「…………」
「誰よりも誰よりも大切な人だったんだろうね」
大切な。
何もしていないはずなのに、その時一際波の音が大きくなったような気がした。
ザザーン。
繰り返す波のリフレイン。
遠い記憶。
遙かな想い。
懐かしい彼の人。
その時、読んでいたはずの本からいつの間にか目を上げ、当麻がじっと伸を見つめていた。
「前世で叶えられなかった想いを受け継ぐために、今の人生があるのだと私は思うよ」
「…………」
「私が前世を信じると言ったのは、そういう意味もあるのだろうな」
つぶやくように老人は言った。
叶えられなかった想い。
叶わなかった願い。
「では、では教えて下さい。前世で叶えられなかった想いは、現世で叶えられるのでしょうか。僕はあの人を守りたかった。本当に何よりも、誰よりも、あの人が大切だったんです。なのに……!」
「なのに? 出来ないのかい?」
「駄目なんです。あの人はもういないんです」
「…………」
「……あの人は、もう何処にも居ない……」
そう言って伸はカウンターに肘をつき、顔を覆った。
「とても、近い子がいました。本当にあの人かと見間違うほど」
「…………」
「……でも、彼は彼であってあの人じゃない。解らないんです。それが何故なのか。僕は以前の僕なのに、何故彼はあの人ではなかったのか。何故、あの人であり得なかったのか。それは、僕にはもうあの人を守る資格が無いということなのでしょうか」
「…………」
「僕はもう間に合わないんでしょうか。僕は……いつも、いつも後悔ばかりで、僕は誰も守ることができないでいる。大切な友人も守れなかった。次の世では守れるんでしょうか。それともやっぱり後悔ばかりで過ごさなければならないんでしょうか」
「何も君を苦しめる為に今の人生があるわけではないと思うよ」
うつむいた伸の髪を手で梳きながら、老人がそっと言った。
「君が精一杯やったことは、相手にきっと伝わっている。叶えられても、叶えられなくても、伝わりさえすれば大丈夫なんだよ。誰も君を責めたりはしていないはずだ」
「じゃあ、どうして、こんなにまで救われないんでしょうか」
「……救われないと、そう思っているのかね? 君は」
「だって、胸が苦しい……苦しくて今でも息が出来なくなる。思い出す度に心が拒否反応を示して、それでも思い出さずにはいられなくて……」
紅の中。彼の人への想い。
いつも、いつも、あなただけを。
君だけを、守りたかったのに。
守りたかったのに。
「伸。君のすべきことは、気付くことだけなんだと、私は思うよ」
「気付く……? 何を?」
ようやく伸が顔をあげた。
「何を気付けばいいんですか……?」
「みんなが君を想っていることを」
「………………」
「私も、君の大切な人達も。もちろん当麻君もね」
「…………」
伸の目の端に当麻の姿が飛び込んできた。
少し離れた脚立の上で、当麻は手にした本のページを開いたまま、じっと伸を見つめていた。
じっと。
吸い込まれるような宇宙色の瞳をして。

 

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