不在という名の存在 (9)

行ってしまう。当麻が。
もしかしたら、すぐにでも行ってしまうかもしれない。
でも。
他にどう言えば良かったのだろう。
自分達はまだ高校生で、親の庇護を必要としておかしくない年代なのだ。
だから、親が一緒に暮らしたいと言うのに逆らう術などない。
親のことを大嫌いだったり、一緒に居たくないと思っているならともかく、そうでないのなら。
そうでないのなら。
居なくなってから。本当に、逢いたくても逢えなくなってから後悔するより、そばで暮らせる今、一緒にいなくてどうする。
「……そうだよ。そう思うことは間違いじゃない」
間違いではない。
実際、自分は酷く後悔をした。
逢えなくなって初めて、もっと一緒にいれば良かったと後悔した。
いつもと変わりない出発前の笑顔に安心して。それが最後になるなんて考えもしないで。のほほんとして見送ったこと。おざなりにしか『いってらっしゃい』と言わなかったこと。
あらゆる後悔の念が、あの頃の自分を支配していた。
だから。
間違ってない。なのに。
それでも。
飲み込んだ言葉が、重く心にのしかかる。
重圧に押しつぶされそうになる。
言葉にできない気持ちが、伸を捉えて離さない。
どんなに我が儘だと解っていても、どうしようもない。
ただ、ひたすらに。自分は。
「毛利くん、気をつけろよ」
「えっ?」
言われたとたん、人差し指に激痛が走った。
「痛っ……!」
「ほら、気をつけろっていったろう。ボーっとしてたら指なくなるぞ」
「すっすいませんっ!」
もう少しで指を切り落とすところだった。
千切りのキャベツにぽたりと落ちかけた血を慌てて右手で受け止め、伸は流し台へと走った。
「大丈夫か?」
見習いコックの青年が、救急箱を手に駆け寄って来る。
「すいません。本当に」
「ほら、消毒」
まだ血の滲んでいる伸の手を取り、青年は指にサッとマキロンを吹きかけ、絆創膏を貼ってくれた。
「オレもよくやったからさ。にしても珍しいな。君がボーっとするなんて。疲れてるのか?」
「あ、いえ……本当にすみません」
「今は少し客足も落ち着いてるから、裏でちょっと休んでなよ。忙しくなったら呼ぶから」
「でも……」
「それに、その指じゃ厨房は無理だろう。とりあえず表の方頼むよ。着換えて来て」
「あ、はい」
申し訳なさそうにぺこりと頭を下げ、伸はウェイター服に着替えるため、更衣室へと向かった。
本当に、何をやってるんだ自分は。
更衣室に着き、ロッカーの扉を開けると、伸はそのまま制服に手をかけることなく疲れたようにその場に座り込んだ。
頭の中で声がこだまする。
『じゃあ、行ってくる』
そう言って帰ってこなかった父さん。
『俺が貴女を護る』
そう言って、散っていった柳。
『行くんだ。水凪』
そう言って炎に巻かれた烈火。
伸はギュッと唇を噛みしめた。
思い出したくもない別れの場面。
二度と逢えない人達。
もう二度と、逢うことのない人達。
大切な彼の人。
逢いたい。
逢いたい。
逢いたい。
お願いだから置いていかないで。一人にしないでください。
何度も何度も心の中で叫んでいたあの頃。
忌まわしいほどに消えない記憶。
思い出しても、もう、どうしようもないというのに。
コツンっとロッカーの扉に頭をもたせかけて、伸は小さくため息をついた。
と、その時、更衣室のドアが静かに開き、秀が顔を出した。
「……伸? 大丈夫か? 指怪我したって?」
恐らく厨房での事を聞き付けて急いで走ってきたのだろう。秀の顔はとても心配そうだった。
多少焦りながら、伸は取り繕った笑顔を秀に向ける。
「……ちょっとドジっちゃった。ごめん」
心配気な表情のまま、秀は伸の元に駆け寄った。
「珍しいな、お前が怪我なんて。厨房のみんなも心配してたぞ。大丈夫か?」
「あ……うん。大丈夫。ごめんね。すぐ着換えて表手伝うよ」
慌てて立ち上がりかけた伸を制し、秀は労るように伸をベンチに腰掛けさせた。
「急がなくっていいよ。ちょっと早めだけど今のうちに休憩とっとけって言われてオレも抜けてきたんだ。戻るのは1時間後でいいってさ。のんびりしてろよ」
「ごめん……」
すまなさそうに伸は頭を下げた。
いくら店長の息子の知り合いだからって、一介のバイトが皆に気を遣わせてしまっては立つ瀬がない。
紹介した秀にも迷惑がかかってしまうだろう。
伸の表情を見て、秀は大袈裟にため息をついた。
「また悶々と余計なこと考えてるだろ、お前。気にしすぎなんだよ」
「秀」
「お前の働きっぷりは、すんげえ評価高いんだぜ。父ちゃんにも、『お前にもこんな立派な友人がいたんだな』って感心されたくらいなんだ。具合が悪い時くらい、ちょっと手を抜いても誰も責めないって」
「別に具合が悪いわけじゃ……」
「充分悪いだろうが。心の具合が」
「…………!?」
秀は、驚いて顔をあげた伸の視線に合わすように膝をつき、じいっと伸の目を覗き込んだ。
「何かあったのか?」
「…………」
「電話架かってきたんだって? お前に」
「あ……」
恐らく鈴恵が話したのだろう。
「当麻からか?」
「……う……うん」
諦めて伸はコクリと頷いた。
「どんな内容だったんだよ。その様子じゃ、ただのラブコールじゃなかったってことだな」
「…………」
普段の伸だったら、何がラブコールだふざけるな、くらいの反撃の言葉があるはずなのに、それを言うこともなく、伸は秀から目を逸らし、俯いた。
「伸……?」
「……別にたいした用事じゃないよ。声が聞きたいって……」
「声が……?」
「うん」
伸が頷く。
「それだけ?」
「それだけだよ」
「んじゃ、何でお前は落ち込んでんだよ」
「……別に落ち込んでなんかないよ、僕は」
「…………」
伸の態度に、秀は何とも言えない顔をして大きくため息をついた。
その口調が落ち込んでるって言うんだよ。
言いたい衝動に駆られながらも、秀は黙って更衣室を出ていった。
なんだか伸の全身が、遠い彼の地にいるその男に逢いたいと言っているようだった。

 

――――――「秀? どうしたのだ?」
「あ……うん、ちょっとな」
わざわざ征士の合宿先に電話を架けておきながら、いざ当人が出たとたん、秀は誤魔化すように言葉を濁らせた。
「えっと……その……あのさ……ちょっと…聞きたいんだけど」
「何だ?」
「ん……あのさ、お前ン所に当麻から連絡ってはいってきたか?」
「当麻から?」
「ああ」
突然何を聞いてくるのかと、征士は首をかしげながら受話器の向こうの秀に答えた。
「先日、一度連絡があった。今は研究所に籠もっていると言うので、そちらの連絡先を聞いておいたが、何かあったのか?」
「いや、何かってわけじゃないんだけどさ。ちょっと気になって……」
「…………?」
「昨日、奴がうちに電話架けてきたらしいんだけどさ。おかげで伸が落ち込んでるんだ」
「……落ち込んでる? どんなふうに?」
「普段の2倍以上の早さで仕事こなしてるくらい」
「それは重症だな」
「だろう」
征士は考え込みながら、受話器を持ちかえた。
「こちらに電話してきた時は、おかしな様子ではなかったがな」
多少の言い争いらしきものはしてしまったが、あんなものは日常茶飯事の出来事だ。気にする程ではないし、確かにあの時の当麻はいつもの当麻だったはずだ。
「……寒がってなかったか?」
まるで謎かけのような秀の言葉に、征士はそっと答えを返す。
「特には」
「そっか……お前が感じないんなら心配ないか……」
「その伸への電話の内容は何だったんだ? 聞いたんだろう?」
「ああ……」
頷きながら、秀は困ったように頭を掻いた。
「伸は何でもないって言ってたけど……でも、きっとあいつは嘘を言ってる」
「……それはお前の勘か?」
「ああ」
征士は小さくため息をついた。
「分かった。留意しよう」
「サンキュ……」
ふと、言葉をとぎらせて、秀は受話器を握りしめた。
「……なあ、征士」
「ん?」
「やっぱ声聞くと駄目だってのホントだな」
「……えっ……?」
「伸の落ち込みの原因がこういうことだったら、まだ救いがあるんだけどな」
「…………」
「んじゃ、またな」
「……しゅ……」
カチャンっと小さな音を立てて通話が切れた。
その瞬間、征士にも秀の言った言葉の意味が少しだけ分かったような気がした。

 

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