不在という名の存在 (10)

住み慣れた部屋、というにはあまりにも不在だった期間が長すぎるその部屋をぐるっと見回し、当麻は深くため息をついた。
前回戻ってきた時は、いつだったろう。あの時はこの部屋を見ても何の感慨も湧かなかった。
相変わらず辛気くさい部屋だなあと思いながら、軽く掃除をして埃を払い、ベッドに潜り込んだことを覚えている。
当麻はノロノロと部屋の中を歩き回り、ふと思い出して征士が入れてくれていたという留守電を聞いた。
『当麻。元気でやっているか? 実は秀の家の方が倒れられて、この春休み、秀が実家に戻ることになった。伸も一緒について行くということなので、しばらくこの家は誰もいなくなる。だから……』
事務的で無機質な口調。
それなのに、どうして征士の声はこんなに耳に心地良いんだろう。
違う。征士だけじゃない。遼の声も秀の声も、そして何より伸の声も、皆、聞いているだけでほっとした。
「…………」
一度終わった留守電の声をもう一度聞き直す。
聞く必要もないのに、もう一度聞き直す。
「何やってんだろう、オレは」
何回か繰り返し再生させた後、自嘲気味の笑みを浮かべて、当麻はようやく留守録再生のボタンを止めた。
「征……」
確かめるように名前が口をついて出た。
まるで、呼べば彼の人が戻ってくるのではないかと思っているように。
「……コウ……」
そばに居ることが当たり前で。
出逢えさえすれば、もう大丈夫なのだと安心して。
別れの日が来るなんて考えもしなかった昔の自分。
夜光との別れの時から、少しは自分自身変わってくれていたのだと思っていたのに、結局自分はあの頃と何一つ変わっていないのだろうか。
否応なしに突きつけられた現実という言葉から逃げたくて。
伸に電話をして。自分は何を期待したのだろう。
伸にとって父親というものは、とても神聖なものなのだ。
幼い頃、父親を失った伸は、きっと心の何処かで、父親の存在を欲していた。
温かくて、大きくて、力強くて。そんな父親を伸は心の何処かで求めていた。
だから、伸がああ言うだろう事は分かっていた。
とても、よく分かっていたのだ。
深くため息をついて当麻は鬱陶しそうに前髪を掻き上げた。
「何やってんだろう……オレは……」
ドイツへ行く。父親と暮らす。
まさかそんなことを考える日が来るなんて、思ってもみなかった。
でも、父親のラボは居心地よかった。
最初は、当麻のことをどう扱って良いか分からず戸惑っていた所員達も、今では当麻を一人前の男として認めていた。
当麻が手伝っている今回の研究は、どう贔屓目に見ても、高校生が手出しをするようなものではない。
だから、羽柴博士の息子だと言って紹介された初日、研究所の所員達は皆、驚きを隠せずにいたものだ。
こんな子供に何をやらせるつもりなんだ。羽柴博士は。
なんだかんだ言っても、彼も人の親だったということだ。
息子に対しては甘い評価なのだろう。
だが、そんな意見がちらほら聞こえたのは初日だけ。
当麻の能力の高さは誰の目にも明らかで、それは決して羽柴博士の息子に対する贔屓でも何でもなかったのだと理解されるのに時間はさほどかからなかった。
だからこそ、皆、当麻のドイツ行きを支援してくれているのだろう。
ブンッと大きく頭を振り、当麻はもう一度部屋を見渡した。
子供の頃は、この部屋が嫌いだった。
離婚後、外国へ行くという父親の言葉を聞いて、一緒に連れていって欲しいと思った事もあった。
母親の出ていったあとの部屋がやけに広く感じて。
寒くて寒くて仕方なかった頃。
それを思いとどまらせたのは、これから迫って来るであろう戦いのため。
「…………」
もう、阿羅醐はいない。日本に留まっていなければならない理由はない。
本当の意味で自分達は自由になった。
万が一、新たな邪悪な意志が目覚めることがあったとしても、それはきっと次の転生の時だろう。
だから。
それに、しばらくしたら、この部屋は自分のものではなくなるのだ。
この土地は、それと同時に自分の帰る場所ではなくなってしまう。
小さな日本の小さな都市の小さなこの部屋の空間。
何ヶ月も誰も住んでいなかった部屋。
大嫌いだと思っていたこの場所だけど。
この部屋がなくなれば、自分には本当に帰る場所がなくなるのだ。
帰る場所を失って。そうしたら、あとは何処へ向かえばいいのだろう。
もう振り返ることも出来ない。
何故なら、もう振り返っても何も見えないのだから。
真っ暗闇で、何も見えないのだから。
きっと、伸はそれも解っていた。
だから、行けと言ったのだ。
でも。
「コウ……オレ、どうすればいい?」
埃くさいベッドに身体を投げ出して、当麻は再び彼の人の名前を呼んだ。

 

――――――「…………」
ふと素振りをする手を止めて、征士がじっと空を見上げた。
上空では風がさわさわとそよいでいるのが分かる。
風の音は静かだし、雲行きも怪しいとは思えない。
でも、何故かあまり気分は良くなかった。
秀からの電話のあとも、特に当麻からの連絡はなかった。こちらから架けて様子を探るというのもなんだか嫌な気がして、実行に移せていないのも、気にかかっている原因だろうか。
ただ、昨日あたりから胸騒ぎがする。
何だか、当麻が夜光を、自分ではなく夜光を呼んでいるような気がして仕方なかった。
「よーし。本日の練習はこれまで。各自順番に風呂へ行って汗を流してよし。当番の者は夕食の準備に取りかかるべし」
「はいっ!」
部長の鷹取の声に剣道部員が一斉に竹刀を収め、整列した。
「では、お疲れさまでしたぁ!」
「お疲れさまでした!」
力強い声が響き渡り、各自解散の合図と共に駆け出す。
征士は駆け去っていく部員達を見送って再び竹刀を構え直した。
ブンッと風を切って竹刀が振り下ろされる。
と、緑の葉が一枚、ふわりと風に舞って竹刀の上に落ちた。
軽く振り払えば落ちてしまうであろう葉っぱを、何故か征士は落とすことが出来ず、そのままじっと竹刀の上に乗せたまま動かなかった。
「どうした? 伊達」
じいっと動かない征士の様子に気付き、鷹取が声をかける。
とたんにはらりと葉っぱが竹刀から滑り落ちた。
「……あ」
「……ん?」
「いえ、何でもないです」
気を取り直して再び竹刀を構えようとした征士の手を鷹取が押さえた。
「本日の稽古は終了。聞いてなかったのか? 挨拶したろう」
「あ、はい。でも……あと少し」
「必要以上にやるのは勧められんな。それでなくてもお前はいつもオーバー気味なんだから。ちょっとは自制しろ」
「すいません」
「謝るくらいなら、最初からもっと楽にやれよ」
呆れたようにくすくす笑いながら、鷹取は征士の手から竹刀を取り上げた。
「では、大人しく戻ろう。今日の夕食を堪能しに」
「分かりました」
ふっと表情をほころばせ、征士は素直に鷹取の後を追って歩きだした。
「……なあ、伊達」
「はい?」
先を歩きながら、鷹取は振り返らずに征士に声をかけた。
「心配しなくてもきっと大丈夫だと思うぜ」
「…………」
征士の足が止まる。
「なんてな。オレは実は何も分からないんだけど、ちょっとお前の顔見てると言ってみたくなった」
「先輩……」
「何だ?」
「……とても失礼な言い方かもしれませんが、先輩は……」
「……オレは?」
足を止め、鷹取がゆっくりと振り返った。
「……ほんの少し、秀に似ている」
「…………」
何も言わなくても分かってくれるところとか。
何も知らなくても、一番欲しい言葉を言ってくれるところとか。
「……すみません。何を言っているんでしょう、私は」
「別に失礼じゃないさ。それは、お前にとって最高の褒め言葉だろう」
そう言って、鷹取は明るい笑い声を上げた。
その笑顔は太陽のようで、やはり少し秀に似ていると征士は思った。
そして、そのとたん、本物の秀の笑顔が見たくなった。

 

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