不在という名の存在 (8)

「実は、今度ドイツの永住権を取ろうと思っていてな。本格的に向こうで活動をしようと考えている。ちょうど良い機会だし、お前も来なさい」
「は……はぁ!?」
「細かい手続きは私がやっておくから、とりあえずは今週末に一旦一緒にドイツへ行こう」
「ド……ドイツ……って……!?」
当たり前のように言う父親を前に、当麻はひどく狼狽して、目を大きく見開いた。
「ちょっと……待てよ。そんなことひとことも聞いてない」
「だから今言ってるだろう」
「いや、そうじゃなくって……」
思わずよろけて、当麻は壁にトンッと背をあずけると頭を抱えた。
あまりの不意打ちに、頭が混乱している。
落ち着け。落ち着け。
当麻は必死で思考を巡らせた。
何がどうなって、こんな話しになったんだっけ。
「……ド、ドイツに行くって言っても、オレ、まだ高校生だぞ。卒業もしてないし……」
「今のお前に高校程度の授業が何かの役にたってるのか? 学歴が必要なら大検だけとっておいて、向こうで大学に通えばいい。問題はないだろう」
いや、そういうことを言いたいのではなく。
「いや……だから……」
普段だったら、どんな場面に出くわしても、それなりに冷静に話を進められる自信があったのに、自分は何をこんなに戸惑っているのだろう。
当麻の背中をツーっと冷たい汗が流れ落ちた。
「嫌なのか? 向こうへ行くのが」
「…………!」
一瞬言葉に詰まる。
ゆっくりと視線をあげて、当麻は父親の顔を凝視した。
驚いた。確かに。
とてもとても驚いた。
でも、100%嫌だったかと問われると、そうではない心の動きが何処かにあった。
何処かにあったのは事実。でも、だからといって。
だからといって。
「……もしかして、今回オレを呼びつけたのは、最初からこれが目的だった?」
恐る恐る上目遣いに、当麻は父親を見上げた。
「そうだな。まあ、お前が思っていたよりすんなりと此処の研究員達に馴染んでいたんで、連れて行っても問題ないだろうと判断した」
「…………」
「実際、お前もオレの研究を面白いと感じていただろう。研究員達もお前の実験データの正確さや、判断の的確さ、データ収集と分析のスピードなど、お前の能力の高さに舌を巻いている。特に、柳下は驚いていたぞ。ほら、お前が5歳の頃……」
「ああ、知能テストやらした所員だろう。まだ一緒にやってたんだって思って驚いた」
「驚いたのは向こうの方だ。まさか5歳児の頃会った人間の顔をお前が覚えているとは思わなかったらしい」
この研究所に来た初日、当麻は何の迷いもなく、その柳下に挨拶をしていた。
『お久しぶりです。あの時はお世話になりました』と。
とても驚いた顔でそう言った当麻を見返した柳下は、次いで、『本当に君は天才児だったんだな。あの時は騙すようなことをして悪かった』と照れたように頭を掻いた。
当麻にとっては、そう言った柳下の顔も、5歳の頃会った柳下の顔も同じ比重で思い出せる。
別に不思議なことではない。
「……人の顔覚えるのは得意なんで……」
記憶力が良いのは何も人の顔に限ったことではないが。
心の中で当麻はそうつぶやいた。
「あの時の知能テストの結果などの話を柳下がしたことも手伝ってか、皆が口を揃えて賛成してくれたんだ。折角のお前の能力を埋もれさせておく必要はないだろう。向こうに行けば十代の科学者だって充分活動は出来るのだからとな」
「…………」
「どうだ? お前にとっても悪い話ではないだろう。別にこの国に未練があるわけでもないだろうし」
「……未練?」
当麻は目を瞬いた。
未練というのは、何に付随するものだろう。
確かに、この場所に対して、この国に対して、自分は未練は無いかも知れない。
でも。
それだけでは割り切れないものが。此処に。
彼の地にある。
「どちらにしても、ここ数日中には、あの枚方のマンションは処分するから、そのつもりでいるように」
「……えっ?」
一瞬思考回路が止まった。
枚方のマンションを処分。
「……処分って……それ……本当に?」
「ああ。ほとんど使っていない部屋をいつまでも持っていても仕方ないだろう。それでも昨年まではお前が住んでいたから必要だったが、お前もあの部屋を出たじゃないか。1年に何日も使っていないものは処分するのが当然だろう」
「売る……のか?」
「ああ、そうだな」
他人の手に渡る。あの部屋が。
少年時代をずっと過ごしてきたあの部屋が。
「本当に……売っちまうのか……?」
「……? 何を戸惑っているんだ?」
不思議そうにゲンイチローは当麻を見た。
当麻は壁に背をあずけたまま、信じられないと言った顔で視線を落とす。
何故だろう。
まるで思いっきりハンマーで頭を殴られたような気がした。
それは、実家の台所に自分の座る椅子が無くなっていたとか、自分の使っていた部屋が甥っ子の部屋にとってかわるとか、そんなものではない。
場所自体がなくなる。なくなるのだ。
何故だろう。
なんだか、哀しくて哀しくて哀しくて。
まるで、帰る場所が見付からなくて、膝を抱えている子供のような気持ちがした。

 

――――――「毛利さん、電話です」
秀の妹の鈴恵が、伸の所にパタパタと駆け寄ってきてそう告げた。
「電話? 僕に? 秀にじゃなく?」
「はい」
「誰から?」
「…………」
伸の質問に鈴恵は困ったように首をかしげた。
「名前、教えてくれないんです。でも、『伸はいますか』って聞いてきたから、きっと毛利さんのお友達か何かだと思うんだけど……」
「…………」
此処に伸が居ることを知っているのは、征士達くらいだ。
だとしたら、何故秀じゃなく、直接自分を呼び出すのだろう。
一瞬なんだか嫌な予感が頭をかすめたが、伸はそれを表情にだすことなく、鈴恵に御礼を言って電話機の所へ走った。
保留メロディの流れている受話器を持ち上げ、通話に切り替える。
「もしもし……」
通話口の向側で相手が小さく息を呑んだのが分かった。
「もしもし。毛利ですが、どちら様ですか」
相手は答えない。
「もしもし。もしもし?」
伸はしばらく無言のまま、相手の反応を窺った。
「……もしかして、当麻?」
「…………」
答えはなかった。
「……当麻だろ」
やはり答えはない。でも間違いない。伸は確信した。
「どうしたんだよ、当麻」
「……伸」
ようやく受話器から当麻の声が聞こえた。
「……伸……オレ……」
「当麻……?」
当麻の声は、なんだかとても小さく、どうやら酷く落ち込んでいるように聞こえた。
「当麻? どうしたんだよ。お父さんと喧嘩でもしたの?」
「いや……そうじゃない……ただ……オレ……どうしたらいいかわからなくて……」
「…………?」
様子がおかしい。なんだか、とてもとても嫌な感じがする。
「当麻?」
「オレの……帰る場所が無くなるんだ……伸……」
絞り出すような口調で当麻は言った。
「……えっ? どう…いうことなんだよ、当麻」
「親父が言ったんだ。枚方のマンションを処分するって。それで、オレにドイツまでついて来いって」
「……!?」
ズキンっと胸が痛くなった。
「ド……ドイツ……?」
頭の中が真っ白になるというのは、こういうことを言うのだろうか。
伸は震える手で受話器を持ち替えた。
「あの……それって……当麻……お父さんが、一緒にドイツで暮らそうって言ったの?」
伸の声は、僅かに掠れていた。
対する当麻は無言だったが、受話器の向こうで、小さく頷いたのが分かった。
一緒に暮らそう。
疎遠だった父からの、久し振りの手紙。
そして、父親としての言葉。家族の絆。
自分にはもうどうしたって手に入らない父親との絆を、当麻は今、望みさえすれば掴める位置にある。
だったら。
だったら。
ギュッと唇を噛みしめ、伸は自分の声が震えないように必死で感情を制御しながら、ゆっくりと口を開いた。
「当麻……君は、お父さんのこと、好きだって言ったよね……だったら……」
「…………」
「だったら……君がお父さんと一緒に暮らしたいなら、僕は君にいってらっしゃいとしか言えない」
「……伸」
他に何を言えと言うのだろう。
久し振りに届いた父親からの手紙を当麻がどんな気持ちで読んだのか。
どんな気持ちで、今回の帰省を決めたのか。
自分は、他に言うべき言葉なんか知らない。
例え、どんなに。
慌てて口元を押さえ、伸は思わず受話器を離した。
大きく深呼吸をして息を整える。
落ち着け。落ち着け。落ち着け。感情に流されてはいけない。
「……伸……」
通話口から当麻の声が聞こえ、伸は再び受話器を耳元に寄せた。
「……伸……逢いたい……」
「…………!」
「……でも、駄目だな。きっと逢っちまったら、オレ、お前の元から離れられなくて、冷静な判断も何も出来なくなる」
「……当麻……」
「ごめん……オレ……考える。ちゃんとどうすればいいか、自分で考える」
「…………」
「考えるから……」
そう言って切れてしまった受話器を握りしめ、伸は唇を噛みしめた。
逢いたい。
逢いたい。
逢いたい。
受話器の向こう。無言で当麻はそう繰り返しているようだった。

 

前へ  次へ