不在という名の存在 (5)

「3番テーブルのオーダーよろしくっ」
「はい」
「15番、水がないよ」
「今、行きます」
「すいません。オーダー入ります。車海老のチリソース煮と豚の角煮ホーレン草添え、あと、杏露酒ふたつ」
「了解っ」
連日、特に昼のランチタイムは目の回るような忙しさだった。
中華飯店に限らず、飲食店でのバイトは初経験だったので、さすがの伸も要領が分からず、戸惑うことばかりの日々が続く。
午前中はまだ余裕のあった座席も、お昼前には全て埋まり、入口付近には順番待ちのお客様が何グループか固まって談笑をしている。
まかないを食べる暇もなくお昼時のピークを乗り越え、ようやく空いてきた三時すぎに、空っぽの胃袋に遅い昼食を流し込む。
そして夕方の混雑時に備え、しばしの休憩。
目の回るような忙しさというのは、このことだろう。
店の裏手に設えてある小さな休憩所の椅子に腰を降ろし、ようやく人心地ついた伸は、秀が手渡してくれた缶烏龍茶を飲みながら、ほっと息をついた。
隣では秀も美味しそうに烏龍茶を飲んでいる。
「改めて感心したよ。もしかして君ってすごい奴?」
「今頃気付いたのか? 遅せえよ」
得意そうにケラケラ笑いながら、秀は烏龍茶を飲み干した。
「確かに、多少僕の目も濁ってたみたいだ」
くすくすと笑いながら、伸も烏龍茶を飲み干した。
小さい頃から店の手伝いをしていた所為でなのか、秀の動きには無駄がない。
慣れた態度でオーダーを取りに行き、空いたテーブルを片付け、客を誘導する。
愛想の良さも、元気に動き回る機敏な身体も、秀がこういうところで培ってきた経験値の賜だろう。
客の中にも昔なじみの常連がいるらしく、たまに『麗黄くん、久し振りだね』という声が聞こえてきたし、厨房で働く人達も秀のことを良く知っている人達が多く、まるで此処は巨大な家族のようだった。
「なんというか、君の人格形成の原点を垣間見た気分だよ」
「何だそれは」
「君は、たくさんのお父さんお母さん、それにお兄さんやお姉さんに見守られて成長してきたんだなってこと」
きょとんとした顔で伸を見た秀は、次いで嬉しそうにニッと笑った。
「そうだな。此処は本当の大家族みたいだからな。羨ましいだろ」
「うん」
間髪を入れず素直に頷いた伸に、秀が慌てて口を押さえた。
「悪りい。ごめん」
「何が?」
「あ……いや」
大家族の中で育ってきた者と、亡くなってしまった父親を待ち続けて過ごしてきた者。
そんなことを思い出すと、やはりわけのわからない罪悪感が心を過ぎる。
そして、子供の頃、当麻に感じたものと同じ感覚が秀を襲う。
「やっぱ、似てんのかな。お前等」
「似てる? 誰と誰が?」
「んにゃ、何でもねえ。そろそろ夕方の仕込みが始まるぜ。行くか?」
「うん」
厨房からは美味しそうな匂いが立ちこめだしている。
以前秀が言っていた秘伝のソースの作り方を教えてもらう約束をした伸は、急いで厨房へ駆け込むと、料理長の元へと走った。

 

――――――「今日も一日終了〜」
「お疲れ〜」
一日の仕事が終わり、店を閉めて遅い夕食を取った後、自室に戻った2人は、すでに部屋の中央に並んで敷いてあった布団に身体を投げ出すように寝転がり、お互い顔を見合わせて笑い合った。
従業員用の客室を用意しようかという秀の父親側の申し出を遠慮して、伸は結局秀の部屋に布団一式を用意して貰ってそこで寝起きをしていた。
普段からの同室者なので遠慮することもない。その方が気が楽だからというのが理由。
いつもと同じ顔が側に居るので、住み込みバイトという名目でも、さほど緊張せずにすむし、おかげで秀の妹達とも案外早くに打ち解けることが出来た。
朝から立ちっぱなしでパンパンになった足を揉みほぐしている伸を見ながら、秀がニッと笑った。
「そうだ、伸、色々手伝ってくれた御礼に、面白いもの見つけたから見せてやるよ」
「面白いもの?」
「そうそう」
ニヤニヤと笑いながら秀が伸の目の前にドサリと置いたのは分厚いアルバムだった。
表紙には秀麗黄という名前と撮影した期間であろう1980年代の文字が記載されている。
「何? アルバム?」
「そうそう、ほら、ここだよ、ここ」
「…………?」
秀の指差す先にあった写真の中に写っていたのは、見覚えのある蒼い髪の生意気そうな垂れ目の少年。
「……これ、当麻?」
「ピンポーン!」
得意気に笑って、秀はアルバムの中からその写真を抜き取った。
「ほら、小学校の時、あいつとひと夏寺で過ごしたって、以前話したろ。そん時の写真だよ。こんなの撮ってたのオレもすっかり忘れてた」
「…………」
「この後ろに写ってるのが、当麻の母方の親戚の人だったかな? 隣はオレのじっちゃん」
秀によく似た温かい目をした老人と、少し頑固そうな男の人。そして、その前で楽しそうに笑ってる幼い秀と当麻の笑顔。
初めてまじまじと見た当麻の子供の頃の顔は、何故か今よりも大人びた目をしているように見えた。
顔の作りは確かに幼い。まだまだあどけない少年の顔なのに、何故こんなに目の色が深いのだろう。
いや、深いというより哀しそうで。
「それが出逢った最初の日。んで、これが最後の日」
そう言って渡されたもう一枚の写真には、はにかんだ笑顔の当麻が一人で写っていた。
「あいつ写真あんま好きじゃないらしくって、この二枚しか残ってなかったんだけど、結構うまく撮れてるだろ」
「そうだね」
二枚目の最後の日の当麻の姿は、少し日に焼けて、肌が浅黒くなっていて、そして。
「これ……」
最初に見たものより、瞳が幼く見えた。
あれほど大人びた、深い色の瞳が、年相応の明るさを取り戻して。
そうか。変わったんだ、当麻は。この年の夏。秀に出逢って。
伸は思わずまじまじと写真の中の当麻の瞳を見つめた。
「あいつ、オレに会うまで同い年の友達って全然いなかったんだって。オレからしたら信じられないことなんだけどさ」
「…………」
「だから、オレ達この年の夏、いろんなことをした。勉強なんかそっちのけで、森に行ってクワガタ取ったり、ザリガニ取ったり」
「へえ」
「色々勝負事もした。負けた方がアイス奢るって約束で」
「戦績は?」
「うーん。五分五分かな? 短距離走は負けちまったけど、長距離走はなんとか勝てたし、かき氷の早食いは負けて、代わりに肉まん勝負はオレが勝った。わんこそば対決はどっちだったけかな、確かオレが1杯リードで終了ゴングが鳴ったような。あと、コーラの一気飲み勝負した時は、二人してぶっ倒れてドローになった」
「何の勝負をしてるんだか……」
最初の二つはともかく、何故あとは全て食べ物関係の勝負なのだろう。
呆れた口調でそう言いながら、伸は、もう一度写真の中の当麻を見た。
幼い当麻。自分の知らない時代の当麻。
まだ出逢っていなかった当麻。
「……ごめん。ちょっと悔しい」
写真の中の当麻の顔を指で辿りながら、伸がつぶやいた。
「……伸?」
「この頃、逢ってあげればよかった。もっと早く、逢ってあげればよかった」
「…………」
初めて。
自分の知らない当麻の時間を知っている秀が羨ましくなった。
これではやきもちを妬いているのと同じではないか。
自分の考えに、思わず伸は苦笑した。

 

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