不在という名の存在 (4)

リリーンとけたたましい電話のベルの音が柳生邸に鳴り響いたのは、当麻が出ていった次の日だった。
静かな空間を突然占領した金属的な音に、居間でテレビを見ていた秀と遼が何事かと顔を上げる。
征士もソファから身体を浮かし、電話の置いてある廊下側を伺ったが、結局、一番電話機の近くにいた伸が、キッチンから廊下へ飛び出し急いで受話器を持ち上げた。
「はい。もしもし……あ、はい、そうですけど…………」
穏やかな声で通話相手と二言三言言葉を交わした後、伸は受話器の通話口を手で押さえ、大声で秀を呼んだ。
「秀、電話ー」
「お、おうっ」
慌てて立ち上がり、秀は居間から顔を出すと伸から受話器を受け取った。
「誰?」
「妹さん。鈴江ちゃんだと思う」
「鈴江? どうしたんだろう?」
伸から受け取った受話器を耳に当て、秀が受話器の向こうで待っているであろう妹の名を呼んだ。
「もしもし、鈴江か? どうしたんだ?……えっ? 何? マジかよ、それ!?」
「…………!?」
突然大きくなった秀の声に、キッチンへ戻ろうとしていた伸の足が止まる。
居間から征士と遼も何事かと顔を出してきた。
どうやら秀の家からかかってきた電話は、何か大事な用事だったらしい。受話器を持つ秀の表情がすっと引き締まっていた。
「……うん。うん、わかった。で、大丈夫なのか? ホントに?……うん。そっか……」
何事だろうと征士と遼が顔を合わせた時、秀が受話器から顔を上げ、突然伸を呼んだ。
「伸、ちょっといいか?」
「え? 何? 僕?」
「ああ、何も言わずにオレの頼みを聞いてくれ」
「へ?」
慌てて伸は秀の元へ駆け寄った。
「何? どうしたの? 僕に出来ることなら、何でも言ってよ」
「よし。じゃあ、今すぐオレと一緒に横浜へ来てくれ」
「はぁっ!?」
「いいか?」
「……え、いいも何も、どういうこと?」
「来てくれるか来てくれないか、どっちなんだよ」
「え、あ、じゃ、じゃあ、行く」
「おっしゃ」
勢いに負けた形になって伸が了承したとたん、秀は満足気に受話器を持ち直し、鈴江に話しかけた。
「今、了解とったから、伸連れて帰るよ。ああ、大丈夫。すげえ戦力になるぜ、こいつは。料理の腕はピカ一だし、接客も得意だし、文句なしの助っ人だ。ああ、うん。そう。じゃあ、夕方にはそっち着くから。じゃあな」
カチャンと秀が受話器を置いたと同時に居間から征士と遼が飛び出してきた。
「今の何だよ。説明しろ、秀!」
混乱している状態そのものを表すように眉根を寄せて、遼が秀に詰め寄った。
秀は慌てて悪い悪いと、苦笑いをしながら、遼を押しのけて伸に頭をさげた。
「悪いな、伸。無理矢理了解させちまって。でも、マジな話、ちょっとこの春休み、オレにつき合ってくれねえか?」
「何? さっきのは春休み中ずっとって事だったの?」
「無理ならせめて2〜3日でいいから、うちの店を手伝って欲しいんだよ」
「店? 中華飯店? 横浜の?」
「そうそう……実はさ……」
ポリポリと頭を掻きながら、ようやく秀が、今の電話の内容を話し出した。

 

――――――秀の話によると、実は昨晩、母親が病院へ運ばれたということなのだそうだ。
理由は盲腸。ちょうど休みに入り、店的にも忙しい日が続いていたから、疲れている為だろうと思っていたら、いつまでだっても腹部の痛みがとれず、とうとう救急車を呼ぶ羽目になってしまったというのである。
とりあえず薬で散らして痛みは治まっているようなのだが、この機会に手術してしまおうということになったらしい。
ということは、しばらく入院を余儀なくされるだろうし、退院したからと言って即時、今まで通りの仕事は出来ない。
休みに入っての折角のかきいれ時、これでは営業に多大な影響を及ぼすことは間違いないだろうということで、秀に応援を頼む連絡をしたという事だった。
「……つまり、厨房と接客共に増援がいるってわけだ」
「そういうこと。お前、この春休みは暇だって言ってたじゃんか。もちろんバイト代も出すからさあ、手伝ってくれねえか?」
「春休み中かあ……」
「そう。住まいはオレん家になるから、住み込みのバイトだと思ってさ」
「なるほどね」
「そうそう」
両手を合わせて拝む秀に笑顔を向け、伸は快く頷いた。
「そういうことなら、もちろん了解。じゃあ、急いで支度しなきゃ。なるべく早く出発したいんだろ」
「ああ、出来れば昼過ぎの電車には乗りたい」
「了解。急ごう」
「悪いな」
「大丈夫。気にしないで。この際だから、中華のレパートリー増やせるし。色々教えてもらおうっと」
明るい表情で、秀と一緒にパタパタと二階へ駆け上がっていく伸を見送りながら、征士がホッとしたように息を吐いた。
「これは、案外都合の良い偶然だったかもな」
「……?」
どういうことだと遼が首をかしげる。
「忙しければ忙しいほど、余計なことを考えなくてすむ。ということは、伸も奴の不在を感じなくてすむということだ」
ほんの一瞬、遼の表情が僅かに強ばった。
「……そういうことか」
この家にいれば、どうしたって感じずにはいられない。居るはずのその空間に居ない一人の人物のこと。
当麻が出ていった昨日の夕飯は、ほんの少し空間が広いような気がした。
考えてみれば、普段から当麻は一人で書斎に籠もることが多かったから、同じ家に居ても顔を合わすことは少ない方だった。
皆が居間でくつろいでいる時も、一人だけ席を外していることが多かった。
だから、いつもは姿が見えなくても何も感じていなかったはずなのに、何故いなくなったとたん、余計に思い出すのだろう。
「……なんか、今年の春休み、みんなバラバラだな」
ぽつりともらした遼の言葉に征士も短く頷いた。
出逢ってから約2年。一緒に共同生活を始めるようになってから、ここまでそれぞれ全員が別々の地に行くことになったのは、もしかしたら初めての事かも知れない。
「征士の合宿って、明後日からだっけ?」
「ああ」
当麻は大阪。伸と秀は横浜。征士は合宿の為、学校近くの寺に籠もる。そして遼は。
「遼は、いつ発つんだ? 南アルプス連峰へ」
この状態だと、結局先日遼が言った皆で旅行がてらという計画は無効であろう。
当麻が断った時点で、遼もそう考えていたのか、昨晩、一人で出発するつもりで、宿の手配を始めたのだと告げてきた。
「うーん、そうだな。この際だから、征士と一緒に明後日この家を出るよ。一人で家に居てもつまんないし」
「一人で大丈夫か?」
「大丈夫。山歩きは慣れてる」
「そうか。気をつけて行け」
「うん。なあ、征士」
「……ん?」
遼は、ふっと征士を見上げて言った。
「こういうのも、たまには良いかもしれない」
「えっ?」
遼の言葉が少し意外で、征士は思わず遼の顔を見返した。
遼はほんの少し遠くを見るような目で、こくりと小さく頷く。
「毎回だったら、嫌だけど、本当、たまにならこんなふうに一旦バラバラになって、で、もう一度出逢うってのも、良いかもしれないって思うんだ」
「出逢う……?」
「そう。出逢うんだ。オレ達」
静かな決意を秘めたような目で、遼は今度は大きく頷いた。
「4月に、出逢おう。もう一度」
「……もう一度?」
「そう。もう一度。2年前のあの日と同じように」
「…………」
「桜の中で、出逢おう」
そう言って、遼は真っ直ぐな目をして征士を見た。
桜の中で。
新宿に集結した、あの日のように。

 

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