不在という名の存在 (3)

「伸、そろそろ当麻が行くって……」
そう言ってキッチンを覗いた遼の後ろから、当麻がひょいっと顔をだした。
「伸、見送りはいいから、ここでバイバイな」
「えっ……あ、ああ、じゃあ……」
急いで布巾で手を拭き、伸が当麻の元に駆け寄った。
「じゃあ、当麻、オレは荷物持ってバス停行ってるから」
「おうっ」
気を利かせてなのか、遼が当麻の手から荷物を取って、パタパタと廊下を走り去っていく。
伸は、本当に見送らなくていいのかと言いたげに当麻を見上げた。
「当麻?」
「ホント、見送りは勘弁。んな大仰に見送られたら、帰るの嫌になっちまう」
「は?」
「ただでさえ、伸ちゃんと2週間も離れるのは身を切られる思いだっていうのに……」
「バカか、君は」
大袈裟に肩を落とした伸は、次いで、くすりと笑って当麻を見上げた。
「ちゃんと2週間、お父さんに甘えておいで」
「甘えるも何も、そんな関係とちゃうって……」
ポロリと洩らした言葉遣いが大阪弁なのに気付き、伸は思わず吹き出した。
「何だよ。伸……」
突然の伸の笑いの意味が分からず、当麻が不満そうに口をへの字に曲げる。
「何でもないよ」
まだくすくす笑いながら、伸はさっと右手を差しだした。
「じゃ、身体に気をつけて。無理はしないように」
そう言って伸が差しだした右手を当麻は戸惑ったように見つめた。
「右手の握手?」
「そう。右手の握手。駄目?」
「……右手っていう所に意味はあるのか?」
「あるよ、めいっぱい」
ほんの少し眉根を寄せて、伸はそう言った。
そう言えば。
左手の握手は別れの握手だと、以前誰かに聞いたことがある。
では、右手の握手の意味は。
当麻はもう一度、じっと差し出された伸の右手を見つめた。
「左手の握手は別れの握手。右手の握手はまたねの握手。昔、そんなことを聞いたことがあるんだ」
伸は照れたようにそう言った。
「だから、今は右手の握手がしたい気分」
「…………」
当麻は差し出された伸の右手をそっと握り返した。
とたんに心が寂しくなる。
「いってらっしゃい」
伸が言った。
とたんに胸がきゅんと痛くなる。
「……伸」
「ん?」
「……伸……」
「何?」
「好きだ」
突然何を言い出すんだと、伸は驚いて顔を上げた。
「……はあ?」
「好きだよ」
「……な……何言ってんだよ。ほら、さっさと行きな、バカ当麻」
慌てて手を離し、当麻の身体を反転させ、背中を押した伸の耳は、微かに赤く染まっていた。
「お、おいっ伸!」
「ほら、とっとと行く。バス来ちゃうよっっ!」
ぐいぐいと背中を押し、伸は無理矢理キッチンから当麻の身体を押しだした。
「はい、いってらっしゃい」
「……行ってきます」
少ししょげた口調で返事をし、当麻は最後の最後でくるりと身体を反転させ、ギュッと伸を抱きしめた。
「…………!」
「じゃあな、伸」
「……当麻?」
「じゃあ、行ってくる」
「う……うん」
ほんの僅か、伸の身体が硬直した。
やがて、名残惜しそうに当麻は伸の身体から腕を離す。
伸は、ほんの一瞬きつく目をつぶり、次いで当麻を見上げると、完璧な笑顔を作りだした。
「いってらっしゃい、当麻」
「ああ」
当麻はようやく、伸に背を向けて玄関へと歩きだした。

 

――――――当麻を見送ったあと、伸は疲れたようにキッチンの椅子に座り込んだ。
「……ったく……最後にどうしてああいうことをするかな……」
せっかく普通に笑って送り出そうと思っていたのに。
伸の顔から笑顔が消える。
当麻の気配がどんどんこの家から遠ざかっていくのが、不思議なほどに感じられる。
そういえば、こんな感じの喪失感を、自分は何度も体験してきたように思う。
「……お父さん…か…」
小さく伸がつぶやいたとき、征士がキッチンへと顔を出した。
「……伸?」
「あ、征士。当麻は無事バスに乗った?」
「ああ」
言いながら征士はそっと伸のそばに近づいてきた。
「大丈夫か? 元気がないようだが」
「うん。大丈夫」
にっこりと笑いかけ、伸はキッチンの椅子から立ち上がった。
「珈琲でも飲む? いれようか?」
「ああ、頼む」
「了解」
頷き、伸は冷蔵庫から珈琲豆を取りだした。豆は先日珈琲専門店で買ってきたマンデリン。
慣れた手つきで計量スプーンに2杯測って珈琲メーカーにセットする。
フィルターをつけ、水容器に水を入れ、スイッチを押下。
ウィンという機械音と同時に豆を挽くガガガガッという音が重なった。
なんとなく無言のまま一連の動作を見ていた征士は、やはり沈んだ表情で、コポコポと落ちてくる珈琲を見守っている伸の隣に立ち、戸棚からグラニュー糖の容器を取りだした。
「今日は甘くするか?」
征士が訊いてきた。
「そうだね。そんな気分かな」
珈琲を見つめたまま伸が答える。
征士はキッチンテーブルにグラニュー糖の容器を置き、マグカップを2つ伸に手渡した。
「量は2杯分か?」
「うん。だから秀には見付からないようにしなくちゃ」
いたずらっぽく肩をすくめ、伸がふっと笑顔を見せた。
「……伸」
「ん?」
「本当に大丈夫か?」
「…………!」
思わず伸は征士を見上げた。
「征士?」
「あんな奴、いてもいなくても変わらないと思っていたのに、いざ去っていくバスを見てると少し気持ちが重くなった。私でそうなのだから、お前もお小言を言う相手がいなくなって気が抜けたろう」
「…………」
なんとも言えない顔をして、伸は小さく肩をすくめた。
「ごめん。確かに僕はちょっと落ち込んでるかもしれない。気を遣わせちゃったね。ごめん」
出来上がった珈琲をマグカップに注ぎながら、伸はにこりと征士に笑いかけた。
「ちょっとね、嫌なこと思い出したんだ。当麻がいなくなって気が抜けたってのも本当だけど、それより……」
「嫌なこと?」
征士の問いかけに、伸は情けなさそうに苦笑した。
「ちょっとした既視感」
「……既視感とは?」
「うん……さっき、出ていく当麻を見てて、ちょっと父さんの最後の時を思い出したんだよ。それだけ」
「…………?」
意味が分からず、征士の眉間に皺が寄った。
「それは……」
「別に、なんでもないんだ。きっと当麻の今回の帰省目的がお父さんに会いに行くっていうことだったから、ちょっとダブっただけ。それだけだと思う」
「…………」
「父さんもね、出かける時、必ずギュッて僕を抱きしめてから出ていったんだ。『じゃあ、行ってくる』って言って。そして、それっきり」
「…………」
「それっきり帰ってこなかった」
「…………!」
そこまで聞いて、征士はようやく思い出した。
伸の父親が死んだ時。確か、それは伸が小学校の時だったはずだ。
いつものように出かけていって、結局帰って来なかった父。
最後に聞いた父親の台詞は『じゃあ、行ってくる』。
普段と変わらない口調のそれが、伸が父親を見た最後の時だったと。
父親の死の知らせを聞いても、どうしても信じられなくて。
どんなに時間が経っても信じられなくて。頭で理解しても、心で理解できなくて。
そうして、雪の中ずっとずっとずっと父の帰りを待っていたという伸。
「伸……」
「なんでだろう。僕は忘れてた。当麻のお父さんはちゃんと生きてたんだってこと。何処かで、当麻は自分と一緒なんだって、そう思いこんでいたのかも知れない」
「…………」
「だから、ちょっと自己嫌悪」
「伸……」
「ごめんね。嫌なこと聞かせて」
小さく首を振り、征士はそっと伸の肩に手を置いた。
「ねえ……征士……いる時は何とも思ってなかったのに、どうしていなくなったとたん、こんなに思い出すんだろう。あとから後悔しても遅いのに。どうして、いなくなってから気付くんだろう」
「…………」
「もっと、ちゃんと父さんに好きだって言ってあげれば良かった。ちゃんと大好きだって伝えてあげられれば良かった。あの頃、そんな後悔ばかりしてたこと、思い出す」
「…………」
「思い出すんだ」
「……伸……」
何かにすがるように、伸は自分の肩に置かれた征士の手を掴み、握りしめた。

 

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