不在という名の存在 (2)

「……何? 当麻の親父さんが手紙よこすなんて初めてじゃないか。何て言ってきたんだよ」
遼は思いがけない差出人の名前にびっくりして、まじまじと無機質な白い封筒を見つめた。
一緒に共同生活を始めてから、少なくとも遼は、当麻の父親が当麻に手紙にしろ電話にしろ、連絡を寄越してきたところを見た覚えがない。
言葉に詰まっている遼を見下ろして、当麻は小さく肩をすくめた。
「ま、何て言ってきたかは、読めばわかるよ」
無造作にそう言う当麻をちらりと見ながら、遼は手紙を取りだした。
「いいのか? オレが読んで」
「いいから見せてんだろ」
「そりゃ、そうだろうけどさ……」
白い封筒の中に入っていたのは、やはり無機質な飾り気のない白い便箋。
当麻によく似た角張った字で書かれたその手紙の冒頭はこんな感じで始まっていた。

前略
 便りがないのは元気な証拠だと思っているが、そちらでの生活はどうだ。
 今度、久々にしばらくの間、日本の研究所に戻ることになった。
 お前にも少々手伝って貰いたいので、一度大阪に来るように。

「やっこさん。さすがにまだ息子が高校生だってことは覚えていたようだな。春休みだから時間はあるだろうって、わざわざこの時期を選んで連絡よこしやがった」
「……そうなのか。にしてもこの書き方……」
大阪へ来るように。
まあ、父親から息子への言葉なのだから、変ではないのかもしれないが。
「完全に命令口調だな。逆らうことは許さないって感じの」
「だろう。いっつもそうだったんだよ。オレの親父は……」
「…………」
「普段は息子がいるなんて忘れてんじゃないかって思うような生活してるくせに、思い出した途端、父親面するんだ。自己中っつーか、マイペースっちゅーか」
悪態をつきながら、何故か当麻はそんなに嫌そうな顔をしていなかった。
遼はもう一度そんな当麻の顔と、手紙の文面を見比べた。
当麻の父親はマッドサイエンティストと巷では呼ばれている科学者だ。一時期は大学教授を務めていたらしいが、離婚をしたあと、研究に没頭するあまり、教授職を退いて海外へと行ってしまっていたと聞く。
当麻もここ数年まともに顔を合わせていないという程、疎遠な肉親関係なのだと、以前言っていた。
ずっと、親と離れた生活を送ってきた当麻。
実際問題、親とほとんど顔を合わせない生活をしていたという面では、当麻と遼はよく似ていたのかもしれない。
だが、遼の父親は家に帰ることが少なくても連絡を欠かしたことはなかったし、遠く離れていても気持ちは繋がっていると感じていられた。それほどに近い存在ではあったのだ。
当麻はどうだろう。
ひとりでいるということに何の抵抗もないのだと平気な顔をして言っていた当麻。
それでも、正月、誰もいない家に帰りたがらなかった当麻。
当麻の口から父親や母親のことを聞くことはほとんどなかったように思う。
みんなも何となく聞いてはいけない気がして、ほとんど何も問いかけたことはなかったはずだ。
唯一、秀あたりが知っていたくらいだろう。
一度だけ会った当麻の母親は、一見、まるで姉にしか見えないほど若々しい女性だった。
では、父親は?
離婚の際、親権は父親が持つことになったというのは聞いた。
でも、そんなのは形だけで、だからといって父親に世話になった記憶などないと、当麻は一度だけ吐き捨てるように言っていた。
「……当麻」
もしかして、この手紙は、当麻が心の奥底で待ち望んでいた手紙なのではないだろうか。
疎遠だった父親が、久し振りに息子に当てた言葉。
例えそれが、助手が必要だという事務的な口調だったとしても。それでも。
「……帰るのか? 大阪へ」
「そうだな……どうしようかな……?」
そうつぶやいた当麻は、いつもと違い、年相応の少年に見えた。

 

――――――「はい、珈琲」
普段と変わらない仕草でいつものように珈琲を運んできた伸の手からいつものように珈琲を受け取り、当麻はほうっと息を吐いた。
ふっと微笑み、伸はそのまますとんとソファに座っている当麻の隣に腰を降ろす。今日の珈琲は少し苦み走った味だった。
「出発は何時? 終業式の次の日には発つんだよね」
カップの中の珈琲が半分ほどに減った時、伸の口から突然そんな言葉が飛び出した。
予想していたとはいえ、思わず喉を詰まらせ、当麻は呆れ顔で伸の方を向く。
「さすがに耳が早いな。っつーか、オレ、帰るって決めたとは誰にも言ってないぞ」
「でも、帰るんだろう」
当たり前のように伸はそう言って、再び珈琲を飲む。
そんな伸の横顔を見て、当麻はふっと笑みを浮かべた。
「そうだな。これでしばらくお前の入れた珈琲飲めないんだ。味わって飲まなきゃ」
「…………」
ちらりと伸が当麻を窺い見た。
伸達の高校の終業式は明日。それから約2週間の春休みが始まる。
約2週間。
もしかして、これは自分にとってかなり長い時間になるのではないだろうか。
ふと、そんなことを考えてしまい、伸は慌てて残りの珈琲を飲み干した。
まったく。自分は何を考えているのだ。これではまるで。
「伸」
伸の思考を遮るように当麻が突然伸の名を呼んだ。
「な……何?」
「オレがいなくなると寂しい?」
「……はぁ?」
精一杯虚勢をはって、伸は眉根を寄せてみた。
「バカか、君は」
「ちぇっ……たまには寂しがってくれても罰は当たらんと思うぞ」
「あのね……」
当麻は拗ねた口調で唇を尖らせ、伸の肩に寄りかかる。
「重いよ、当麻」
「いいじゃんか。ちょっとくらい」
「……ちょっと……ね」
さすがに突き放すのも何だなあと思いとどまり、伸は大人しく当麻に肩を貸してやった。
肩にかかる当麻の重み。温かさ。静かな呼吸の音。
やはり、ほんの少し胸が痛かった。
「……あ、そうだ……ねえ」
しばらくして、伸がポツリと聞いた。
「当麻のお父さんってどんな人?」
「お……親父?」
「うん。どんな人?」
伸は柔らかな表情で当麻を窺い見た。
伸の肩から身体を離し、当麻は困ったなあといった感じでポリポリと頭を掻く。
「そうだな……どんなって言えばいいんだろうな……オレの親父はかなり特殊な部類に入る奴だと思うからなあ、上手く表現できない。少なくともお前の親父さんとは随分違うと思うぞ」
「そりゃそうだろう。ついてる仕事も違うんだし、環境も違う」
「そうだな」
「……でも、君はお父さん、好きだろ?」
「……えっ?」
にこりと伸が笑った。
「なんだかんだ言っても、君はお父さんの事とても好きなんじゃない? そんな気がする」
「………………」
ほんの少し驚いた顔で、当麻は伸を見下ろした。
自分は伸の前で父親の話をした覚えは一度もない。それは父親のいない伸への遠慮だったのかどうなのか、もう今では解らないが、でも、少なくとも伸に対して自分は自分の父親のことを語ったことはないというのに。
当麻はなんとも言えない顔をして、くしゃりと顔を歪めた。
「……やっぱ、敵わない。お前には」
「…………」
伸はおだやかな表情を浮かべたまま少し首をかしげた。
そんな仕草のひとつひとつが愛おしくて、当麻は誤魔化すようにくしゃりと前髪を掻き上げた。
「そうだな。オレ、多分クソ親父のこと嫌いじゃない。オレはきっとあの人にとても良く似ているんだ。没頭しだすと周りが見えなくなるところとか、自己中なところとか。オレの中にあの親父の血が流れていることをオレはとてもよく理解している」
「…………」
「あの人が何を必要としているかもわかる。オレもきっとあの人と一緒に居ることを苦痛だと思わないだろう」
探るように言葉を綴る当麻を見つめながら、伸はふわりと微笑んだ。
「そんなもんだよ。親子っていうのは」
「……そうかな……うん……そうだよな」
「…………」
「きっと……そうなんだよな。すっかり忘れてたけど、きっとそういうものだったんだよな」
ぽつりとそうつぶやいた当麻の横顔を、伸はただ黙ってじっと見つめていた。

 

前へ  次へ