不在という名の存在 (19)

何も考えられなかった。頭の中が真っ白で。
どうして此処にいるのかとか。
戻ってくるのはもう少し先の話じゃなかったのかとか。
帰ってくるなら何故連絡しなかったのかとか。
ドイツ行きの話はどうなったのだろうかとか。
何もかも。
そんなことすら、何も考えられなかった。
「……当麻!!」
ただ、そこに居ると言うことが信じられなくて。
これは、夢なのじゃないかと思えて。
早く捕まえなければ、消えてしまうような気がして。
この手で触れて確かめなければ、すぐにいなくなってしまうような気がして。
「……当麻……!!」
まるで翼の生えた小鳥のように伸は当麻の元へと駆け寄り、その腕をのばして当麻の身体を抱きしめた。
「……し……伸……?」
ふわりと海の香りが広がる。
懐かしい匂い。温かな腕。柔らかな栗色の髪が揺れて、当麻の頬をなでた。
「……伸……」
驚いた表情のまま、それでも当麻は無意識にそっと伸の身体を抱きしめ返した。
腕の中にいる愛しい人の温かなぬくもり。
それだけが至上の幸福。
「伸……?」
「……あっ、ご……ごめんっっ!!」
とたんにハッと我に返った伸が、無理矢理当麻から身体を引き剥がして真っ赤になって俯いた。
人目もはばからず公園の中で、まさか自分の方から当麻に抱きつきにいくなんて、普段の伸からは考えられない行動だ。
自分の行動が自分で信じられなくて、伸は慌てて当麻から目を反らし更に後ろに一歩退いた。
「あ……あの……まさか、君が来てるなんて……聞いてなかったから……」
「…………」
「ごめん……その……びっくりして……だから……」
「…………」
「秀の奴、何も言わないで……きっと僕を驚かそうとしたんだろうけど……その……まさか、まんまと罠に落ちるなんて思ってなくって……えっと……」
しどろもどろの言い訳が伸らしくなくて、当麻は嬉しそうに笑みをこぼした。
「伸……」
「だから……その……」
「ただいま、伸。逢いたかったよ」
「…………」
伸がそっと顔を上げた。まだ、僅かに頬が赤く染まっている。
久し振りに見る伸は、やはりとても愛おしくて。
本当に、愛おしすぎて。
「オレ、帰ってきたよ。お前に逢うために帰ってきた」
「……えっ……?」
「まだ何処へも行かない」
「と……当麻……だって……」
話しかけた伸の口を指で塞ぎ、当麻は再び笑みをこぼした。
戸惑いの中に隠された、僅かな喜び。
ちらりと垣間見えた本当の心。
この表情が見たかった。
それで充分。
これさえあれば、何もいらない。
「当麻……?」
「伸、オレ、色々考えたんだ」
伸が続きの言葉を促すように小首をかしげた。
「オレ、今まで生きてきて、今回の事ではじめて親父の目をきちんと見たような気がする」
「…………」
「今まで、オレにとって親父は遠い場所に居る人で、あるのは血の繋がりだけで、心の繋がりじゃないって、なんかそんなふうに思ってた」
「…………」
「だから、きっと離れてたら、離れてるってことだけで、想いも絆も全部、風化してしまうもんだと思ってた。今回、親父の誘いに乗って大阪へ帰ったのは、その風化しちまうだろう関係を、あと少しつなぎ止めて、時間に余裕が欲しかったんだ。オレがガキだって証拠だよな」
くしゃりと顔を歪めて当麻はやけに子供っぽく笑った。
「だから、親父がドイツへ行こうって言った時、これを断ったら、今度こそオレ達親子はもう親子の関係じゃ無くなるって思った。一種の強迫観念だよ。これじゃ。でも、そうじゃなかったんだ」
「そうじゃない……?」
当麻は愛おしそうに伸を見つめた。
「だってさ、離れてたって、オレ達は親子だったんだ。離れてるからこそ、親子だったんだ。明日にはきっとあの人は海を越えて日本を離れる。現実的にオレ達の距離は離れるけど、オレ、今はあの人が何を思って、何を考えて、どう生きたいのか理解できる。離れれば離れるほど、親父の存在を感じることが出来るんだ」
「…………」
無言のまま、伸は小さく頷いた。
どんなに離れていても。
どんなに離れていても。
それは、そばに居ないということではないのだ。
「うん、当麻」
ふわりと伸が笑った。
きっと、そうなのだろう。
きっと、そういうことなのだろう。
「僕ね……正直言うと、君から電話を受けた時、置いて行かれるような気がしたんだ」
「…………」
「置いていかないでって、昔、ずっと心の中で叫んでいたことを思い出した」
「…………」
「逢いたくても逢えない人を思って、恐怖に身体中支配されていた頃を思い出した。どうかしてた」
ふわりとした笑みを浮かべながら伸はそう言った。
「ちょっと考えれば分かることだったんだ。君は僕を置いていったりしない。僕たちは何も変わらない」
一言一言を噛みしめるように伸は言葉を綴った。
「何処にいても変わらない。そんな関係を作れるように、強くならなきゃ。何処にいても変わらない。変わらず、そばに居るんだ。いつも」
「そばに……?」
「うん」
いつも。どんな時も。
そばにいる。
たとえどんなに遠くに離れていても。
きっと、この先、お互いの距離がどんなに離れることがあっても。
そばにいる。
ずっとずっとそばにいる。
ずっとずっとずっとそばにいる。
いつか、そんなふうに思える時がきっとくる。だから、その時までは。
「愛してるよ。伸」
伸はそう言った当麻に対して、ただ一言。
「おかえり」
とだけ、そっと言った。

 

――――――「遼ー!! こっちこっち」
「秀! 征士!!」
2人分の荷物を抱え、遼が秀の家である中華飯店に着いたのは、伸が公園へ走って行ってから10分ほどした頃だった。
遼の到着前に店に事情を告げ仕事を早上がりさせてもらっていた2人は、店の外でずっと遼が来るのを待っていた。
「久し振り! 元気そうだな」
「お前もな」
軽く挨拶を交わし、秀は遼の手から荷物を受け取った。
「んじゃ、これはオレの部屋に運んでおくよ。今日は2人ともオレの部屋に泊まるだろう」
「……秀、いくらなんでも、あの部屋に更に2人は無理だと思うぞ」
征士のもっともな言い分に、秀が眉根をよせる。
「じゃあ、今日はじゃんけんか何かで二部屋に別れるか? でも、それは勿体ないなあ……」
どうも秀はどうしても全員一緒に過ごしたいらしい。
「……じゃあ、全員そろってからみんなで相談すればいいよ」
明るく遼が言うと、それもそうだなと秀が大きく頷いた。
「……そういえば伸は? ちゃんと行ったか?」
遼が店の中を窺いながら、聞く。
「ああ、ついさっき、一足先に行かせた」
「そっか……良かった」
ほっと安心したように遼は息を吐いた。
「今回だけは悪く思うなよ、遼。ちょっと最近伸の奴、まいってたから」
「うん。だろうと思った。当麻の奴、全然伸に連絡しようとしないもんだから、オレの方が焦っちまったよ」
「……あいつら二人とも天の邪鬼コンビだからな」
「そうそう」
軽く笑い声を上げた遼の表情は少し寂しそうだが、後悔はしていない様だった。
「……強いな、遼は」
ぽつりと征士が言った。遼はそんなことないと首を振る。
いつか来る別れの日。
この数日間は、まるでその予行演習であるかのようだった。
不本意ながらバラバラに過ごすことになったこの春休み。
これは、居ないという現実に慣れる為の、誰かが仕組んだ試験なのかも知れない。
でも、そんな試験、今はみんなで落第しよう。
もう少し時間をくれたら、その時間の分だけ、強くなるから。
もう少しだけ強くなるから。
離れていても変わらないように、強くなってみせるから。
そして、そのいつかが来たら、ちゃんと羽ばたいてみせるから。
何処までも遠くへ。羽ばたいてみせるから。
だから、今はもう少し。
もう少し、此処に居させてください。
「……じゃあ、オレ達も行こうか。桜の下で、もう一度出逢うために」
「ああ」
秀の言葉に、力強く遼が頷いた。

FIN.      

2005.1 脱稿 ・ 2005.05.21 改訂    

 

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