不在という名の存在 (16)

「本当に良かったのか? 私まで押しかけて来てしまって……」
そう言って、困ったように征士は部屋の中を見回した。
結局、成り行き上、征士も秀の家に泊めて貰うことになり、部屋をどうしようか相談したとたん、秀は当たり前のように自分の部屋にもう一式、征士用の布団を運び込んだ。
その結果、足の踏み場も無いほど狭くなってしまった部屋は、どう見ても身体を休めてくつろげる場所とはとうてい言えない様子になってしまった。何しろ、誰かの布団の上を渡らなければ自分の寝る場所までも行けそうにない程なのだ。
「やはり、この部屋に布団三組は少々狭くないか?」
すまなさそうにそう言って、なかなか部屋に入ってこようとしない征士に、秀はおおらかな笑顔を向けた。
「平気平気。せっかく来てくれたのに、お前だけ他の部屋に押し込めるなんて嫌じゃないか。それとも一人部屋が良かったのか?」
「そんなことはないが……泊まらせていただく私達はともかく、お前はこの家の住人なんだから……」
「その住人であるオレが、お前にここにいて欲しいって思ってるんだから、それでいいんだよ」
ニッと笑って、秀は早く入って来いと征士を手招きした。
「それに、考えてみれば、お前と同室で休むってこと、ほとんどなかったからなー。たまにはいいじゃん」
「確かにそうだね」
秀の隣で、伸も頷いて征士が座る場所を空けようと、身体を脇にずらした。
「秀の寝相はかなり悪いんで、それを覚悟の上なら、問題ないんじゃない?」
「お前なー! 泊めてやってる恩人に対して、その言いぐさはなんだよ」
「僕は事実を言ったまでだよ。秀」
楽しそうに笑いあう2人の様子に、ようやく安心してか、征士はおとなしく伸の隣に腰を降ろした。
「んじゃ、今日は久々の再会を祝して宴会とするか!」
驚いて目を丸くする2人を尻目に秀はそう言って、早速酒を取りに行くため、立ち上がった。
「秀、明日も店の手伝いはあるのだぞ。分かってるのか?」
「分かってる分かってる。ったく、ちょっと飲んだくらいでどうにかなるお前等じゃねえくせに……何良い子ぶってんだか……」
「おいっ!」
慌てて止めようとする征士の手を振り払い、秀は鼻歌を歌いながら、部屋を出て階下へと向かった。
「……ったく。相変わらずだな。あいつは」
呆れたように征士が言うと、隣で伸がくすりと笑った。
「嬉しいんだよ。君が来てくれて。だって、あそこまではしゃいでる秀は久し振りなんだから」
「そうなのか?」
「うん。そりゃそうだよ。一応大丈夫だとはいえ、お母さんが入院しているのは事実なんだし、色々精神的にもあるんじゃないかな?」
「……だったら、別に私が来たからといって、何も事態は変わらないのではないか? 私は伸のような戦力になるとも思えんし」
「バーカ」
わざと目を覗き込むような体勢で、伸は大声で言った。
「君の存在そのものだけで、充分救いになってるの。それくらい自覚してよね。いい加減」
「…………」
ほんの僅かに表情を歪めて、伸は征士に指を向けた。
「君の代わりは誰にも出来ない。君は君自身でありさえすればそれだけで、それは秀の救いになる。違う?」
「…………」
「……ねえ」
「……恐らく……違わ…ない……」
ふわりと伸が笑った。
何が特別で、何が他と違うのか。そんなことは分からない。
だが、確かにそれは特別で、他と違って。
なによりも特別で。
ふと、心配になって、征士はじっと伸の目を見つめ返した。
「……何? 征士」
征士の目がやけに心配気なので、伸は不思議そうに小首をかしげる。
「どうかした?」
「……お前は、大丈夫か?」
「…………!?」
伸の表情が僅かに強ばった。
「そういうお前の救いは、今、遠い彼の地にいる。お前は大丈夫か?」
「………秀がしゃべった?」
上目遣いに伸が征士を窺い見た。征士は多少躊躇しながらも、そうだと言って頷く。
「……で、秀は何て?」
「お前は天の邪鬼だからと……」
「あっそ……」
伸は困ったように俯いた。
「……あのね……征士」
「何だ?」
ふっと笑みを浮かべて伸は征士に向き直った。
「僕ね。来年家を出るよ」
そして、伸はさらっとそう言った。
「……家を……柳生邸を?」
「うん」
「それは……」
「実は、東京の大学を探そうと思ってるんだ。少なくとも小田原からは通えないだろうから」
「…………」
確かに伸には、そう言ったことを考えておかしくない時期が来ていたのだろう。
自分達より一学年上にいる伸は、今年で高校3年生になる。
大学進学にしても、就職にしても、そろそろ具体的に考えなければいけないのだ。
「いつから、そんなことを考えていたんだ? 伸は」
征士の問いに、伸はくすりと笑った。
「考えてたのは少し前から。話したのは君が最初」
「…………」
「そして、決心したきっかけは、当麻のドイツ行きの話を聞いてから」
カタリと音がして秀がそっと顔を出した。手には台所から持って来たコップと紹興酒の瓶を抱えている。
伸はちらりと秀を見て、ふと笑みを浮かべた。
「秀だっていつか此処に戻ってくるんだろ?」
「…………」
「みんな、そうやっていつかそれぞれの地に戻っていく。そのことを僕は思い出した」
「…………」
つまり、それがタイムリミットなのだ。
秀はこの間伸が言っていた言葉を思い出し、小さく唇を噛んだ。
「僕ね……ずっと、秀や遼が羨ましいなあって思ってた」
「…………?」
「だって、君達には将来のビジョンがきちんと見えてるじゃないか。すごいなあって。僕は秀と違って家を継ぐことを良しとしなかった。そのことについて後悔はしていないけど、でも、そのおかげで僕は随分自分がフラフラといい加減な男だって気付かなくちゃいけない羽目になった。したくないことが決まっていても、したいことが決まらないんじゃ、どうしようもないなあと思って」
「…………」
「だから、本気で将来のこととか考えようと思った。流されて生きるんじゃなく、ちゃんと自分の足で歩けるように。一人で立っていられるように」
「…………」
「そう思ってたのに。この間、当麻が遠くへ行ってしまうって聞いて、僕が最初に思ったことは、置いて行かれるってことだった。そう思ったとたん、自分の考えがバカバカしく思えて……」
「……伸……」
「思えて、泣きそうだった。最悪……」
いつもいつも。
戻って来ない彼の人を待ち続けて。待って、待って、待ち続けて。
心まで放棄した、過去。
「最悪でいいじゃねえか。別に一人で立つ必要なんかないだろう」
秀は酒瓶を抱えたまま部屋の中に入ってきて、伸の隣に腰を降ろした。
「人ってのは支え合ってこそ、人なんだ。国語の授業で習わなかったか? 人って漢字の作られた意味」
「…………」
「言ったろ。ちゃんと聞いてやるからって」
「そうだ……ね」
ふっと笑みを浮かべて伸はトンっと征士の肩に顔を埋めた。
「……伸?」
「実は、ちょっと……寒い。だから、今だけ、肩を貸してくれると嬉しい」
「…………」
征士は黙って伸に肩を貸してやった。
安心したようにひとつ息を吐き、伸がそっと目を閉じた。
やはり、少しだけ寒かった。

 

前へ  次へ