不在という名の存在 (15)

「……!?」
突然、横浜中華街の中華飯店に現れた美丈夫に、一瞬店内がしんと静まりかえった。
メニュー表を小脇に抱えたまま、伸が嬉しそうに入口まで駆けつける。
「征士! 来たんだ。秀もおかえりなさい」
「おうっ、ただいま」
買い出しの荷物を伸に渡しながら、秀がにこっと笑う。
「そっか、合宿って昨日までだったんだね。でも、終わったばかりで疲れてるだろうに。来るとしても明日以降だと思ってたよ」
「私も最初はそのつもりだったのだがな。ちょっと気が変わったんだ」
「気が? どうして?」
「……色々とな」
「ふーん」
言いながら伸はまじまじと征士を見上げ、くすりと笑いを洩らした。
「なんか、征士に中華飯店って似合わない」
「そ……そうか?」
「うん。なんかね」
端正な顔つきは、どちらかというと淡泊な日本食が似合いそうで、なんとなく、油を多く使う中華というのは、征士とは相容れない気がする。
店内にいた人間も同じ事を考えているのだろうか、何故か皆、テーブル越しにこちらをちらちら見つめている視線が多い。
「じゃあ、オレ達、征士の荷物置きに一旦家に行ってからすぐこっちに戻ってくるよ。それまでに征士用のウェイター服出しておいてくれると助かる」
「了解」
軽く頷き、伸は秀から預かった荷物を抱えたまま、厨房へと駆けていった。
「…………」
「……どう見る?」
伸の背中を視線で追いかけながら、秀がちらりと征士を見上げた。
「……そうだな。奴はきっとドイツへは行かないだろう」
ポツリと征士は言った。秀は興味深そうにくるっと視線を回す。
「その根拠は?」
「あの状態の伸を置いて、奴が何処かへ行くというなら、お前も遼も黙ってはいまい。もちろん私もだ」
「…………」
「そして、誰より奴自身がそんなこと出来ないことを知っている」
「にゃるほど。じゃあ、オレとまったく同意見ってことだな」
大きく秀が頷いた。

 

――――――埃のたまった窓のサッシを拭き終え、遼は満足気にマスクを取った。
「こんなものかな? 結構綺麗になったじゃないか」
「そうだな」
枚方の羽柴家のマンションは今日売りにだされる。
立地条件や売買希望価格を見るに、希望者はすぐ現れるでしょうと、昨日下見に来た不動産の担当員が太鼓判を押してくれたらしいという事を父親に聞き、当麻は少し複雑な顔をして頷いていた。
そして、今日は部屋の大掃除の日。
手が離せない父親の代わりに、遼は泊めてくれた御礼にと言って、部屋の掃除の手伝いを志願した。
当麻と一緒に、朝から掃除道具一式を抱え、枚方のマンションに来た遼は、何とも言えない顔をして、その部屋を見渡した。
当麻の部屋は生活感のない部屋だった。申し訳程度の衣類と、食器や寝具一式。冷蔵庫にはもちろん食料はなにひとつ入ってない。電源も落としたままのようだ。
だが、その空間は、何だか胸が締め付けられるほどの寂寥感で満ちていた。
此処は、当麻にとっての過去の居場所。
目に付くものは、まだ書棚に立てかけられたままになっている、当麻が子供の頃に使っていたのだろう教科書やノートの類。
埃をかぶっている本の背表紙を見て、遼はまるで過去へタイムスリップしたような感覚に捕らわれた。
そして、同時に理解する。
この空間には過去の当麻がまだ居るのだ。
自分達に出逢う前の、長い長い時間を過ごした当麻の過去が、そのままの形を留めて此処にある。
「やっぱり寂しいな。此処が人手に渡るっていうの」
当麻の気持ちを代弁するかのように遼が言った。
当麻は肯定も否定もせずに、黙って洗い終わったぞうきんや掃除用具をまとめると、、缶コーヒーを遼に手渡した。
「ほら」
「あ、サンキュ」
礼を言って受け取り、遼はこくりとコーヒーを飲む。
「此処を売ったら、もう大阪に帰って来ることもなくなるのか?」
遼の言葉に当麻は小さく頷いた。
「そうだな」
実家の家がなくなるというのは、どんな感覚なのだろう。
遼だって、山梨の実家にはほとんど帰っていないのだし、遼の父親も家を空けることが多い生活をしているのだから、状況は、当麻の家ととても似通っているはずだ。
違いと言えば、遼の父親は世界各地の何処へ行っても、拠点は山梨の家と決めていて、必ず帰ってくるからと言っていることだ。だから、家を手放す話などは遼の父親の口からは出たためしがない。
帰るべき場所。
今、こうやって家を離れて安心していられるのも、きっと自分には心の何処かに帰るべき場所が確保されているからという安心感からなのだろう。
では、このあと当麻は。
当麻はどうなるのだろう。
「……なあ、当麻」
「ん?」
「……ドイツ、行くのか?」
「…………」
遼の言葉に当麻は驚いて遼を見た。
「遼?」
「行くのか?」
「……い、行かないって言ったじゃないか」
何故か少し焦って当麻は答えた。遼はそうじゃないと言いたげに首を振る。
「今の話じゃないよ。いつか」
「…………」
「いつか、行っちまうのか?」
「…………」
当麻がゴクリと唾を飲み込んだ。
「お前、言ってたじゃんか。ドイツに行くこと自体に抵抗はないって。嫌じゃないって」
「遼……」
「それに、当麻は、親父さんのことが嫌いだとか、一緒に暮らしたくないとか、そんなこと思ってるわけじゃないし、だったら、オレ達にもお前を止める権利はないわけだ」
当麻はどう反応していいか解らず、じっと遼を見つめていた。
「お前の親父さんだって、きっとお前のことを考えて一緒に行こうって言ったんだ」
「オレのことを考えて?」
「うん」
はっきりと遼は頷いた。
「親父さん言ってたじゃないか。お前、変わったって。きっと親父さん、今でもお前は一人で寂しがってんじゃないかって思ってたんだよ。絶対。だから、お前を連れて行ってやりたかったんだ。連れて行って、一緒に暮らして、一人じゃないって思わせてやりたかったんじゃないかって……」
「今まで、何も言ってこなかったってのにか?」
多少皮肉を込めた口調で当麻が言うと、遼は仕方ないなあといった顔で小さく肩をすくめた。
「だから、それは言い出すきっかけとか、色々あったんじゃないか?」
「…………」
「ずっと、言おう言おうって思ってても、なかなかうまく言えなかったり、タイミングを外しちまうと、ずるずる時間だけが過ぎちまったり……で、今回ようやく一大決心をして、思い切って声かけてみたって……そんな感じがした」
「…………」
「だって、お前が行かないって言った後、なんだかすごく安心したような表情してたよ。なんだ、大丈夫なんじゃないかって。お前はもう一人なんかじゃないんだなあって、そう気付いて、ようやく安心したんだ。きっと」
「…………」
子供の頃、此処を逃げ出したかった。
寒くて、寒くて。
もしかしたら、あの父親は、そんな自分の気持ちを知っていたのだろうか。
知っていたけど、どうすればいいか分からなくて。そして、今まで時間が経ってしまった。
「だとしたら、すんげえ不器用な奴じゃないか」
「うん。そういうところ、お前と似てる」
「…………」
悪気のない笑顔を向けられ、当麻は困ったように頭を掻いた。
「ったく……」
「ま、だからオレがあんなこと言っちまったのは、オレの我が儘。だってお前に黙って居なくなられたらオレが困るから」
「なんで?」
「勝ち逃げなんて卑怯だと思わないか?」
当然の如く言い放った遼に、当麻はあんぐりと口を開けた。
「なんだよ、勝ち逃げって」
「勝ち逃げは勝ち逃げだよ」
「オレ、お前と何か勝負事してたか?」
遼はひどく不満そうに口を尖らせた。
「勝負じゃないよ。オレが一方的に追いかけてるだけだけどさ。でも、悔しいじゃないか」
「追いかけてる? お前がオレを?」
遼の意外な言葉に当麻は思わず首をかしげた。
照れているのかどうなのか、遼は当麻から顔を逸らし、俯くとつぶやくように言った。
「……今のオレにとっての超えられない壁はお前なんだよ、当麻。だから、今、居なくなられたらオレが困る」
拗ねたように唇を尖らせ、遼は言葉を続ける。
「今のままじゃ、オレ、お前との距離が全然縮まらないままゴールを見失っちまう。これじゃ不戦敗だ」
「…………」
強くなる。そう誓った。あの人に。
亀の歩みでも、いつかうさぎに勝てるように。
いつか。
「不戦敗って……オレが居なくなった場合、オレの試合放棄なんだから、それは不戦敗じゃなくて不戦勝じゃないのか?」
「いいや、不戦敗だ」
遼は真っ直ぐな目をして当麻をじっと見上げた。
「だって、今のオレじゃ伸の寂しさを支えきれない」
「……!」
いつか強くなる。超えてみせる。
でも、きっとそれは今じゃない。
今はまだ、弱いままで。だから。
「遼……」
本当に、相変わらず真っ直ぐに人を見る奴だなあと心の中で舌打ちをしながら、当麻は小さくため息をついた。
「……確かに。今はまだ、オレも試合放棄するわけにはいかないよな」
そう言って、当麻は子供をあやすようにポンポンっと遼の頭を叩いた。
子供扱いされたことに、多少不満そうな顔をしながらも、遼もくすりと笑った。

 

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