不在という名の存在 (14)

「悪い。決めた。やっぱりオレ行けねえわ」
そう言って、当麻はようやく父親へと目を向けた。
「当麻。一時的な感情で物事を決定するんじゃない」
ゲンイチローが思わず眉間に皺を寄せる。
「別に一時的感情じゃないよ。オレも結構混乱してたのは確かだけどさ」
くしゃりと前髪を掻き上げて当麻は苦笑した。
「オレ、ずっと迷ってた。なんで迷ってんのかわからないくらいに迷ってた。ホント、混乱していた証拠だよ」
「当麻……」
「ホント、オレらしくない。もう少しで一番大事なものを見落とす所だった。これじゃ、何の為に記憶を受け継いできたのか分かんねえよ。情けない」
ゲンイチローが何を言ってるんだと言った表情で当麻を見る。
当麻は相変わらずの苦笑を浮かべたまま、小さく肩をすくめた。
「オレは、あんたの…父さんのこと嫌いじゃない。此処の研究所員のみんなとも思ってたよりうまが合った。ドイツに行くことは嫌じゃない。……だから、困ってたんだ。嫌な理由が何一つないんだから」
「だったら、何故」
「だってオレは約束したんだ。あの人に」
きっぱりと当麻は言った。
「約束?」
当麻は力強く頷いた。
そう。約束。
そばにいて護ってやれないあの人の分まで、かわりに彼が倖せになるように、誰よりも誰よりも倖せになるように。
そのことだけが自分の真実であるように。
「当麻……?」
「父さんが言ったように、枚方の部屋を処分しちまったら、確かにこの大阪はオレの帰る場所じゃなくなっちまう。居場所が無くなって根無し草になっちまったオレが行ける場所なんて、もう何処にもなくて、だから、あんたについて行くも正解のひとつなのかなって……あいつも行けなんて言ってくれるもんだから。だから本気でどうしていいか分からなかった」
当麻はすーっと息を吸い込んで、ほっとしたように表情を和ませた。
「でも、考えてみればオレにはまだ居場所は残ってたんだ。やっと辿り着いたオレ達の居場所。そこにいていいんだって、こいつらが言ってくれる限り、おれはまだそこに居る」
「……当麻」
「もう少しだけ、そこに居る」
「…………」
「やっぱ駄目だよ。いくらあいつが行けって言っても。駄目だよ。だって、あいつはまだ、本当に本気で倖せに笑ってはくれない。まだ悪夢を見ている。だから……」
誰よりも大切な、愛しい人。
「だから、オレは少なくとも、あいつに何も告げずに行くことなんかできない」
「…………」
「絶対、それだけはやっちゃいけない」
ふっと笑みを浮かべ、ゲンイチローはそう言った息子を見つめた。
「お前、変わったな。少し」
「そうか?」
「いつの間にか、お前は、オレの知らないところでちゃんと自分の大事なものを見つけていたんだな。安心したよ」
「…………」
「お前の居場所はこちらでも確保しておく。気が向いた時にいつでも来ればいい。その時まで待っているから」
「親父……」
ふと遼に向かって微笑みかけ、ゲンイチローはゆっくりとその場を去っていった。
遼は詰めていた息をゆっくりと吐き、不安そうにもう一度当麻を見上げた。

 

――――――「…………」
中華街へ向かう南門通りの手前、母親の病院を覗いて、帰りについでに買い出しをし、店へ戻る途中だった秀は、両腕に荷物を抱えたまま目をまん丸に見開いて立ち止まった。
「……あ」
瞬きをすれば消えてしまうのではないかとでも思っているのか、秀はじっと目を開いたまま目の前に立つ懐かしい顔を凝視する。
「……来て……くれたんだ。征士」
「ああ」
秀の言葉に、征士の端正な顔がふっと和んだ。
「合宿は?」
「終わってすぐ飛んできた。私にも何か手伝えることがあればと思って」
「…………」
「というのは言い訳だな。お前の顔が見たくて来た」
「…………!」
かぁっと秀の顔が赤くなった。
取り落としかけた荷物を慌てて抱えあげ、秀は真っ赤な顔のまま照れたような笑顔をみせる。
「お前、それかなりすごい口説き文句だぞ。自覚あるか?」
「……?」
きょとんとした顔で征士が小首をかしげる。
「何か妙なことを言ったのか? 私は」
「ああ、自覚ないならいいよ、別に」
「……?」
「何でもない。来てくれて嬉しいよ。助かる」
秀は本当に嬉しそうにニッと笑った。
「荷物重いだろう。半分持つぞ」
「ああ、サンキュ」
差し出された征士の手に、秀は遠慮なく荷物を半分預ける。
荷物が軽くなった分と同じだけ、心まで軽く弾んできたように思えた。
「そういえば、合宿はどうだった? 楽しかったか?」
「ああ、そうだな。鷹取先輩は厳しい人だが、本物の剣士だ。あの部長の元でなら安心して稽古に励める」
「そっかー。その先輩もお前のこと随分気に入ってるみたいだったもんな。良い合宿だったんだろう」
一度、剣道場前の廊下で言葉を交わした鷹取の鋭い眼光を思い出し、秀は小さく肩をすくめた。
「そっちはどうだ? 毎日忙しいとは聞いていたが」
「まあ、それなりにな。でも伸が手伝ってくれたおかげで、随分助かった」
「そうか」
歩きだす秀に歩調を合わせて並んで歩きだした征士は、初めて来た横浜の風景を物珍しそうに眺め回した。
「そういえば、征士ってこっち来るの初めてだっけ?」
「ああ、横浜は初めて来た。中華飯店に入ったこともないし」
「だったら今日は美味い御馳走食わせてやるよ。オレん家は中華街でも美味いって評判の店なんだぜ」
「確かにお前の実家の店は老舗らしいな。建てて随分経つんだろう」
「まあね。結構古いっちゃあ古いよな。だから馴染みの客も大勢いるぜ」
ニッと笑う秀の笑顔につられたように、征士もふっと笑みをこぼす。
「……今回の件で、お前の地元に来る機会ができて良かった」
「………?」
「お前がどんな街で育ってきたのか、一度見てみたかったのだ」
「征士……?」
2人の歩調が僅かに遅くなった。
「どんな環境がお前を育み育ててきたのか、この目で見たいと思っていた。お前が見てきた景色を見て、お前が聞いてきた音を聞き、お前が感じていた空気を感じてみたかった。お前が見ている全てのものを、私も見て、知っておきたい」
「…………」
「あの頃と同じように、同じものを見たいと……そう思っていた」
同じものを見て、聞いて、感じて。
記憶を共有したい。
出逢わなかった頃の、お互いを知らなかった頃の空間をひとつずつ埋めていくように、記憶を共有したい。
「征士」
「ん?」
「……あの……さ……オレ……」
「…………」
立ち止まったまま、秀はじっと征士の顔を見つめた。
征士も黙ったまま立ち止まり、秀を見つめ返す。
しばらくの間、そうやってお互い声を発することなく佇んでいた2人は、夕方5時を告げるチャイムの音が近くの山下町公園から聞こえてくるのを聞いて、慌てて再び歩きだした。
「やべえ、そろそろ帰んなきゃ。店が忙しくなる時間帯だ」
「そうだな。私も手伝えることがあれば手伝うが、何をすればいい?」
「んじゃー、ウェイターかな? いい客寄せになるぜ、きっと」
「客寄せ?」
「ああ、中華飯店には不似合いの超美形ウェイター。良い宣伝になる」
大口を開けて笑いながら秀はそう言って、タタッと征士の前に回り込み、立ち止まった。
「征士、いつか……さ」
「…………?」
「いつか……オレを……」
秀の言葉が途切れると同時に、征士がふっと笑みを見せた。
「いつか、お前に私の産まれた仙台の街を案内しよう」
「…………」
「来てくれるか?」
「……喜んで」
くしゃりと顔を歪ませ、秀は破顔一笑した。
夕陽の中のすみれ色の瞳は、泣きそうな程綺麗だなと、秀は改めて思った。

 

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