不在という名の存在 (13)

「どうだ。決心はついたのか?」
庭に面した白い外壁にもたれ、ぼんやりと空を見上げていた当麻の元へ来て、ゲンイチローは手にした缶コーヒーを差しだした。
「ほら」
「これは賄賂か?」
「そういう発言をするなら、金を徴収するぞ」
「冗談だよ」
にこりともせずに当麻は父親の手からコーヒーを受け取った。
「……で?」
「考え中」
そっけなく答え、当麻は受け取った缶コーヒーのプルトップに指をかける。
ゲンイチローは腕を組み、当麻を見下ろして小さく肩をすくめた。
「……それより、あの部屋、いつ売りに出すんだ?」
「いちおう、今日不動産屋には話をつけてきた。近日中には下見に来るだろうから、それまでに部屋の中を片して明け渡せる状態にしなければならんな」
「…………」
「家具は明後日まとめて処分するから、それまでには出しておきたい荷物を分けておいてくれ」
「了解」
頷きつつ、当麻はコーヒーを飲んだ。
砂糖入りの缶コーヒーのはずなのに、やけに苦く感じる。
「駄目だ。やっぱ不味いわ」
「なんだ、ここのメーカーのものは嫌いか?」
「いや、そういうわけじゃない……」
別に嫌いなわけではないのだが、本当に美味しいものを知ってしまったから、ついつい比較してしまうだけなのだ。
苦笑しつつ、当麻は缶コーヒーを再びクチに運んだ。
「……そういえば、部屋を売りに出すこと、おふくろには言ったのか?」
ふと思い出して聞いてみると、ゲンイチローは意外そうな顔をしてそう言った息子を見下ろした。
「連絡だけはしておいたが」
「何か言ってたか?」
「特には。第一あの部屋を先にでていったのはみゆきのほうだ。今更あいつが何か言う必要はないだろう」
「…………」
そういったふうに割り切れてしまうのは、やはり2人が大人だからなのだろうか。
それとも2人にとって、あの部屋はもう、思い出の詰まった場所でも何でもないということなのだろうか。
だとしたら、それは少し寂しい気がする。
当麻はやるせない表情で膝を抱え直した。
「とりあえず部屋を明け渡した後、すぐ発とうと思っているんだが、お前も準備だけはしておけよ」
「……準備って、オレはまだ考え中だって言ってるだろ」
キュッと唇を噛みしめた当麻を見て、ゲンイチローは呆れたようにため息をついた。
「何を気にしているのか知らんが、そんな不安がることも心配することもないだろう。お前のことだ。ドイツに行けば向こうの生活にもすぐ慣れるだろうし、そこがお前の帰る場所になるんだから」
「……帰る場所……か」
ぽつりと当麻は父親の言葉を繰り返した。
「高校中退が気になるなら、向こうの学校に通えばいい。日本より自由な校風の学校はごまんとあるぞ。案外あっちの学校の方がお前の性に合っているんじゃないか?」
確かにそれはそうかも知れない。当麻は小さく頷いた。
ドイツで父親と一緒に暮らす。
向こうの学校に通い、たまには父親の手伝いもして。そのうち一緒の研究所に勤務して。
なんだか当たり前の親子のように生活する自分があまりにも想像できなくて、当麻は苦々しげに笑みをもらした。
当たり前の親子。
そんな言葉をもしかしたら自分はずっと欲していたのかも知れない。
独りが寒くて寒くて仕方なかった頃から。
ずっと、そんなことを考えていたのかも知れない。
「そうだな……もしかしたら、それもありなのかも知れない……ドイツは確かにオレにとって魅力的な場所だ。あっちに行ったら、きっとオレはそれなりに倖せな生活をおくれるのかも知れない……」
「……ドイツ? ドイツって何だよ。どういうことだよ当麻……」
「…………!?」
突然割り込んできた声に、当麻ははっとなって口をつぐんだ。
まさか。
慌てて振り返った当麻の目に、真っ青な顔色をして立ちすくんでいる遼の姿が飛び込んでくる。
「り……遼!?」
大きく目を見開いた遼の手から、ドサリと荷物が地面へ落ちた。
遼は信じられないと言った顔つきで、小さく震えていた。
「……どういうことだよ。今の話、何だよ」
「あ……いや、その……」
遼は強ばった表情のまま当麻に近づいて来る。思わず立ち上がり、後ずさりをしかけた当麻は、すぐ後ろが壁の為、動くことも出来ず、ごくりと唾を飲み込んだ。
「お前……遼…なんで此処へ……」
「突然訪ねて驚かせようと思ってたんだけど……でも……何だよ、今の話」
「…………」
「何だよ……」
「当麻、この子は?」
ゲンイチローがいきなり現れた見知らぬ黒髪の少年に、不審気な目を向けた。
遼も一瞬、探るようにゲンイチローに目を向ける。
「こいつは遼。今、オレがお世話になってる小田原の家で一緒に住んでる仲間だよ。遼、これがオレの……」
「親父さんか?」
「ああ」
短く当麻が頷いた。遼は改めて、目の前に立つ長身の男を見上げた。
白衣を着た細身の男。射抜くように遼を見つめ返してくるその男の顔は、確かに言われてみれば、どことなく当麻に似ているかも知れない。
当麻に例の手紙を見せて貰ってから、会ってみたいとは思っていた。
思っていたけど、でも。
遼はまじまじと穴の開くほどゲンイチローの顔を見据え、次いで堪えきれず口を開いた。
「こんなやり方、卑怯だ……」
「遼?」
「卑怯だよ。こんなふうに、まるで騙すように当麻を呼びだして……そのまま連れて行くなんて……」
「お……おい、遼……」
じわりと遼の目に涙が滲んできた。
「卑怯だよ。こんなふうに当麻を連れて行かれちまったら……オレ……」
「…………」
「オレ達……どうすればいいんだ……」
乱暴に服の袖で涙を拭い、遼は拳を震わせて俯いた。
「オレ……まだまだ当麻に教えてもらいたいことが山ほどある。当麻に教えてやりたいことが山ほどある。それなのに……」
当麻とゲンイチローはじっと瞬きもせずに遼を見つめていた。
「それに……当麻、お前、解ってんのか? こんなふうに急にいなくなるってことが、どういうことか解ってんのか?」
当麻がハッとして目を見開いた。
「当麻…お前、こんな急に……急に消えたら……同じ事の繰り返しじゃないか……」
「……繰り…返し……」
遼の大きな瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
そのとたん、泣くことすらしなかった水凪の顔が目に浮かんだ。
烈火を失った、あの頃の水凪の。

 

――――――「…………?」
動かしていた手を止めて、ふと伸が窓の外の青空を見上げた。
「どうした? 伸」
秀が気付いて声をかける。
「何かいたのか?」
「あ、ううん。今、風が……」
「……風?」
「風が通りすぎた」
「…………」
ここは室内。エアコンも空気清浄機も何も稼働していない。窓も閉めたまま。風の通りすぎる空間はないはずなのだが。
そんなことを思って奇妙な顔をした秀を見て、伸はふっと寂しそうな笑みを浮かべた。
「本当だよ。今、風が通った」
伸はそっと目を閉じる。
ようやく伸の言葉の意味を理解して秀はポンと手を打った。
「当麻か!?」
微かに伸が頷く。
「……そっか……当麻か……」
遠い彼の地で、当麻が伸のことを思っているのだ。きっと。
「奴……お前に、めちゃくちゃ会いたいって言ってるだろ」
「…………」
伸は何も言わず、ゆっくりと目を開けた。

 

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