其処にある未来(9)

「……!?」
自由な方の右手で、いきなり引きずり倒され、征士は鷹取に組み敷かれた姿勢になった。
「これでもまだ、同じ事が言えるのか? 伊達」
「…………」
征士は答えない。
抵抗する気もないのか、両手両足を投げ出したまま微動だにしないでいる。
先程の雨で少し濡れた前髪が額に張り付いているのをそっと手で払いのけ、鷹取は征士の頬に触れた。
ピクリと征士が強ばったような反応を示した。
「なんだ。やっぱり嫌なんじゃないか。無理して我慢することないぞ」
「無理は……していません。手が……少し冷たくて……それだけです」
驚いて一瞬手を引っ込め、鷹取は手を自分の首元に当てた。
確かに、少し指の先が冷たい。
そのまま征士を見下ろしていると、征士はやはり抵抗ひとつしないまま、じっと鷹取を見つめていた。
今の姿勢。押さえていた右手からは解放され、ギプスをはめたままの左腕など、簡単に払いのけられるだろうに。
何故、動かない。
何故、されるがままになっている。
ここまで来ても尚、本気だと思っていないのか。
それとも。
それとも。試されているのは自分の方か。
くすりと鷹取が笑った。
「……先輩?」
「これで最後だ。オレは本気だ」
「……はい」
「逃げるなら今のうちだぞ」
「私に、逃げるつもりはありません」
「何故。オレはお前に酷いことをしようとしてるんだぞ」
「……いいえ」
はじめて、征士が首を横に振った。
「今、先輩がしようとしている行為は、酷い事とは違います」
「…………」
「酷い行為というのは、想いが伴わない行為のことだと聞きました」
「…………」
「だから、これは違います」
「…………」
「あの時とは違う」
「……あの……時?」
「…………」
ほんの僅か困ったように征士が視線を逸らせた。
「伊達。あの時とは……なんだ? お前、まさか」
「…………」
「まさか……」
誰もが足を止めて振り返るだけの美貌の持ち主。
自分達とは違う人生を歩んで来たのだということは、先日の騒動で知ったが。
それでも、まさか、そういった経験があるなどというのは、さすがに想像していなかったのに。
「……お前、本当に……?」
征士が微かに首を振った。
「違う……のか?」
「少しだけ……違います。恐らく。先輩が想像しているのとは」
「…………?」
「以前……と言っても、遥か昔のことですから」
遥か昔。
それは、つまり。伊達征士として生を受けるよりも更に昔、ということか。
「……はい」
鷹取の無言の問いかけに、征士はコクリと頷いた。
「あの時の私は、何の力も覚悟もない子供でした。自分が言った事が、どう自分に返ってくるのか考えもしなかった浅はかな子供でした。だから、あれはその報いだったのだと。今ではそう思っています」
「……じゃあ……今は?」
「覚悟はあります。いえ、覚悟とは、少し違う。私は……」
「…………」
「もしかしたら、私は、そう言われることを望んで、待っていたのかも知れない……と」
「…………え?」
征士の手が伸び、鷹取の頬にそっと触れた。
「私には何の力もありません。伸のような癒しの手はもとより、器用な事など何も出来ない。だから、私に出来ることなど何もないのだと思っていました」
頬に触れた征士の手は、ほんのりと温かかった。
「私は嬉しかったのです。私にも出来ることがあるのだと知り、とても嬉しかったのです」
「………お前……」
「貴方が私に望むことは、たぶん、当麻や遼が伸に望むことと同じです。そばにいて、触れて、それが傷を癒す手段なのなら。私の手で、私の身体で貴方の傷を癒せるなら、私は喜んで貴方に何でも捧げます。私は……」
「伊達、ちょっと黙れ」
静かに鷹取は征士の言葉を遮った。
「え……?」
「お前、今日はちょっとしゃべりすぎ」
「……しか…し……」
「それ以上続けるとふさぐぞ」
「何…を……?」
「決まってる」
そう言って鷹取は己の唇で、かすめるように征士の唇をふさいだ。
「悪いな。さすがのオレも、それ以上続けられたら理性が飛ぶ」
「先…輩……」
征士の言葉を遮るために、鷹取はもう一度征士の唇に自分の唇を重ねた。
そして、今度はそのままゆっくりと深く押し付ける。
静かな口付けは、とても柔らかくて温かかった。ジンと身体の中心が熱くなる。
やがて鷹取は優しく征士の頬を撫でると、名残惜しそうにゆっくりと唇を離した。
そして、にやりと笑う。
「お前って、案外策士だろ。それとも天然か?」
呆れたようにそう呟き、鷹取は征士の肩を抱えるように抱き起こし、そのままきつく抱きしめた。
「でも、さんきゅ」
「……先輩?」
「願いが叶って、ちょっと癒された」
「……願いとは……?」
抱きしめていた身体を離し、鷹取はいつものように笑った。
「思ってたより、お前もオレに惚れてくれてるみたいだしな。完全な一方通行じゃないってことが分かっただけで、結構倖せなんだ」
「…私は……」
「でなきゃ、黙ってキスされたままになんかしないだろ?」
「……!?」
耳元で囁かれ、今までの冷静さが嘘のように、征士の頬が真っ赤に染まった。
その表情があまりにも愛おしくて、鷹取は照れ隠しのように、征士の頭をぐしゃぐしゃに掻き回した。
「だから、お前、それ反則」
「……な……何が、ですか」
「分かんなけりゃいいよ、もう。やっぱお前はただの天然だ」
「……はぃ?」
しばらくの間、鷹取はそのまま笑い続けた。
事故以来、はじめて込み上げてきた本当の笑いだった。
そして、気付くと、いつの間にか、嵐は何処かへ過ぎ去っていた。

 

――――――「で、オレはなんでお前等ん家に向かってなきゃいけないんだ?」
柳生邸へ向かうバスの中。これ見よがしに愚痴る鷹取の隣で伸と征士は目を見合わせて笑い合った。
「そりゃ、君ん家へ行くのも、君に来てもらうのも、考えてみれば同じかなと思ったから、だよね」
「おい」
「君ん家へ行って2人分ないし征士を入れて3人分作るのと、家へ招待してまとめて6人分作るのとを考えたところ、おまけに付いてくる約3名分の非難や残念そうな顔を見ることを考慮に入れて比較検討したところ、こっちのほうに天秤が傾いたってわけ」
「比較検討って……どういう基準だよ」
いつからいたのか、校門の所で、ずっと鷹取と征士を待っていたらしい伸は、ようやく校舎から出てきた二人を見つけ、そのまま引きずるようにバスに乗り込ませた。
先日の押しかけ女房ぶりといい、存外強引な性格だったのかもしれない。この毛利伸という奴は。
そんなことを思い、呆れたように嘆息し、鷹取はそれでもふっと笑みを浮かべた。
そうなのだ。
確かに、どこかで呆れてもいたし、なんて奴だと思ったことも嘘ではない。
それでも、そういった伸の態度を自分は案外嫌いではないのだということも、事実だったりするのだ。
なんだか不思議な感じだった。
「大丈夫。帰りは僕か征士が送っていくし、なんなら家に泊まってもOK」
「いや、さすがにそこまでは……」
「遠慮は無用です。何処までもお供いたします」
伸と鷹取の会話に割り込むように入ってきて、そう言い切った征士の言葉に、鷹取は呆れたように肩をすくめた。
「なんか、自分付きの小姓を手に入れた気分だ」
小姓という言い回しが、鷹取にも征士にもやけに似合っていて、思わず伸はくすりと微笑んだ。
2人の間にどんな事があったのかは知らないが、鷹取からも征士からも、昨日までの重い感じが消えて、なんだかスッキリしたふうに見える。
そして、鷹取が一旦出した退部届けを取り下げ、本来の引退日である来月まで、剣道部に籍を置くことを決めたのだということも先ほど聞いた。
もう試合は無理だろうが、遊び程度であれば、そのうち竹刀も握れる程には回復するだろう。
今は、それで充分。
それ以上望んだら罰があたる。
望むことは、笑顔。
今、この瞬間、自分の目の前にいる人の笑顔を見ること。
それが、願い。
それだけが、願い。
バスの揺れが、不思議といつもより心地よく感じられるような気がした。

 

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