其処にある未来(8)

鷹取が剣道部顧問に退部届けを手渡したのは、翌日のことだった。
朝、登校したその足で、鷹取は真っ直ぐに職員室へ行ったのだという。
だが、顧問教師の配慮なのかどうなのか。征士がそれを知ったのは、放課後の部活動が始まってからだった。
夕方、部室で副部長にそのことを聞いた剣道部一同は、一瞬声もなく立ちつくした。
「まさか……そんな。だって軽い怪我だって言ってなかったか? 主将は」
「そうだよ。だからすぐに退院もしたし、今日から学校にも来てるって」
「オレ……ギプスが取れたらすぐに復帰するもんだとばっかり……」
口々にそんなことを言い合った後、部員の一人が鋭い目で征士を睨み付けた。
「お前は知ってたのか? 伊達」
「……!?」
ギクリと征士の表情が青ざめて強ばった。
「そう言えば、主将が怪我したのって、お前ん家の近くだったって聞いたぞ」
「家は別方向なのに、なんで主将そんな所にいたんだよ」
「もしかしてお前の家に行ってたのか? 鷹取主将」
「…………ぁ……」
皆に詰め寄られ、征士は返す言葉もなく壁に背中を預けるように退いた。
「説明しろよ。伊達」
「どういうことなんだよ!」
「お前等、いい加減にしろよ。そいつを責めるのは筋違いだぞ」
ガラリと扉を開けて入ってきた鷹取は征士を庇うように立ち、部員達を見回した。
「主将!!」
「それにお前等忘れてないか? オレ達三年生は本気で進路のこと考えなきゃいけない時期に、もう入ってるんだぞ」
「……あ……」
夏休みも終わり、とっくに受験体制に入っている進学組は多い。
かくいう剣道部も、来月、三年生追い出し試合という名目の対外試合を最後に、三年生の引退が決まっていた。
「今月末にやる予定だった引継ぎを来週あたりに繰り上げてもらうことにしたから。そん時は顔だすよ」
「そんな……鷹取主将!」
「さすがのオレもあと数日で完治ってわけにはいかないから、自動的に今度の対外試合は欠場。そしたら、今辞めようが、あと少し残ろうが同じ事だろ。だったら今の方がキリがいいって思っただけだ」
「じゃあ……腕は……」
「お前等が心配することはないよ。何も」
そう言って鷹取はいつもと変わらない笑顔を見せた。
「どっちにしてもあと数週間だったんだから、それがちょっとだけ早まったって思えばいいんだよ。それともお前等、そんなにオレにしごかれたいのか?」
「いや……それは……」
鷹取はとても良い先輩ではあったが、ただ優しいだけの主将ではない。
無茶なしごきこそないが、それでも稽古の厳しさに定評があったのは確かだ。
「大丈夫。そんなに心配しなくても、暇なときは気分転換がてら様子見に来てやるから」
「本当ですか?」
「おう。そん時は心おきなくしごいてやるよ。足腰立たないくらいにな」
「うわぁ……それは……ちょっと……」
部員達は苦笑いしながら、征士を取り囲んでいた輪をほどき、各々の支度を再開すると、剣道場へと散っていった。
「……さてと。じゃ、お前も早く道場行けよ」
征士とはほとんど目を合わせないまま、鷹取はそう言って部室から出て行こうとする。
あまりにもあっさりとしたその態度は、まるで皆の追求から征士を救ったのもただの偶然であり、本当は声をかける必要もないくらい征士の存在を気に止めていないということを主張しているかのようだった。
「せ……先輩!!」
一瞬遅れつつ、慌てて征士は鷹取の後を追うように部室を飛びだした。
猛スピードで走りでもしたのか、鷹取の背中が思った以上に遠く、征士は駆けだした。
「先輩! 待って下さい!!」
征士の呼びかけが聞こえていないはずないのに、鷹取の歩みは止まらない。
「先輩!!」
「…………」
「鷹取先輩!!」
征士がやっと鷹取の背中に追いついたのは、すでに部室から随分と離れた中庭だった。
「…………」
ようやく鷹取は足を止め、ゆっくりと征士を振り返った。
「……なんだ。伊達。まだオレに何か用でもあるのか?」
「どういう事です。退部届けなんて」
「…………」
「……どうして……」
「理由は言ったはずだ。来月辞めるのも、今辞めるのもそう大差はない」
「あります!」
人の言葉を滅多に遮ったりしない征士が珍しくも声をあげた。
「先輩は……規律を重んじる方です。たとえどんな状況であろうと、何かを途中で辞めたりなどしない。出来ない」
「お前、人の話聞いてなかったのか? 居たって無駄だからオレは……」
「無駄じゃない!」
まるで。
まるで一言声を発するだけで、身体中に激痛でも走っているのかと思うほど。
血が滴り落ちて来ないのが不思議なほど。
征士の言葉のひとつひとつが苦しげに聞こえた。
「無駄じゃ……ない。もし本当に無駄だと思っているのなら、そう思わせてしまった原因は私にあります」
「…………」
「腕の痛みも、竹刀を握れない苦しさも、見ているしか出来ない悔しさも、すべての原因が私にあるなら、私は何をすればいいですか」
静かに息を吐きながら、鷹取は肩越しに捉えていた征士の姿を、真正面に移動させた。
「何をすればいいですか」
真正面から見下ろして気付く。
ここ数日で、征士の頬が極端に痩けてしまっていること。
顔色も悪く、いつもの凛とした覇気の欠片も感じないこと。
いつでもどんな時でも、真っ直ぐだった心が、行き場を失って立ち止まってしまっていること。
「何でもします。貴方が望むことなら、何でもします」
「…………」
「貴方の前で土下座すれば、あなたが楽になるというなら、何度でも私は土下座します」
「…………」
「剣道を辞めろというなら辞めます。腕を折れと言うなら折ります。何でもします」
どうすればいいか分からない。
本当に、どうすればいいか分からないのだ。
恐らく征士は本当に、同じ苦しみを感じればいいのであれば、自分で自分の腕を切り落とすことだって厭わないだろう。
そのほうがいい。
まだ、そのほうが救われる。
つい昨日聞いたばかりの伸の言葉を鷹取は思いだしていた。
「教えてください。私は何をすればいいですか」
「…………」
「貴方が望むことなら、たとえそれがどのような事でもいい。何でもします」
「何でも?」
低い鷹取の呟きに、一瞬征士の身体が強ばったように堅くなった。
「……何でもするのか? お前は」
「…………はい」
俯いていた顔をあげ、征士は正面から鷹取を見あげた。
遠くで微かに雷鳴が聞こえる。
台風でも近づいているのだろうか。
「……本当に、何でもするんだな」
「はい」
「じゃあ、犯らせろよ」
「……!?」
「何でもするんだろ?」
今度こそはっきりと稲光が目に映り、追うように雷の低い轟きが聞こえた。
「武士に二言はないよな。伊達征士」
「…………」
やがて小馬鹿にするように鷹取が鼻で笑った。
「なんで何も言わない? やっぱり、オレが冗談でしたとでも言うと期待してんのか? それともこんな所でそんな事出来るわけないと思ってるのか?」
「……ぁ……」
「ま、それもそうか。何でもっつったって、さすがに男が自分の身体売るなんて考えるわけないよな」
小馬鹿にした表情のまま、鷹取はくるりと踵を返した。
「……せ…何処へ」
「こんな所にいつまでも突っ立ってるわけに行かないだろう。一雨来そうだし」
「……あの……」
「いいよ、別に。お前に期待なんぞしてねぇから。プライドの高いお坊ちゃんが、何でもなんて出来るわけないことは分かってたからさ」
「……違う……」
「何でもなんて言うもんだから、本気かどうか試しただけだし」
「違う!」
あまりに必死な征士の声に、さすがに鷹取は足を止めた。
「違う……違います……」
「……何が」
「…………」
「何が、違うんだ?」
「少し……驚いただけです」
「驚いた? 何に? 驚きじゃなくって、オレがこんな事言うなんてって軽蔑しただけだろ?」
「まさか」
それこそ心外だと言わんばかりに目を見開き、征士は回り込むように鷹取の正面に立った。
「驚いたのは、自分に……です」
「……え?」
「私は……貴方を軽蔑などしていません。むしろ……」
「…………」
「むしろ……」
下から覗き込んでくる紫水晶のような瞳が、触れるほど近くにあった。
思わず手を伸ばしそうになる。
その時、とうとう今度は頭のすぐ後ろから、大きな雷の音が響き、同時に雨が降り出した。
二人して空を見あげると、真っ黒な雲が頭上低く覆い被さるように広がっていた。
「やべ。とにかく移動するぞ」
「……あ、はい」
手近の校舎に走り込み、鷹取はそのままスタスタと廊下を歩きだした。
部室でも、剣道場でもないその方角に、征士が戸惑ったように声をかける。
「先輩……何処へ……?」
「とりあえず人目の無いところへ行く。嫌なら途中で消えろ」
「……え?」
立ち止まったのはほんの一瞬。
征士は、小走りで鷹取の背中に追いつくと、そのまま一定距離を保ちつつ、ためらうことなく鷹取の後を付いていった。

 

――――――「ここは……?」
「秘密の隠れ家。っていうにはちょっとしょぼいけどな。ここの倉庫はもうほとんど使われてないから隠れるにはもってこいなんだ」
「隠れる……?」
「っつーか、昼寝だな。鍵は壊れてるからいつでも入れるし、中から支え棒すれば、外からは開けられないし、そもそもここは旧校舎の一番端だから、誰も近くにこないんだよ」
建て増しで余所に立派な物が出来たため、使われなくなった倉庫。
空き教室がほとんどという旧校舎の更に奥に位置するこの場所に、わざわざ足を運ぶ者は、生徒も先生も含めていないだろう。
「なので、ちょっとサボりたい時とか、時間を潰したい時に重宝してんだ」
そう言いながら、鷹取はどさりと広げたマットの上に寝ころんだ。
もっと埃が立つかと思っていたが、案外空気は綺麗なままだ。
古い倉庫特有の寂れた臭いもしない。空気の入れ換えが出来ている証拠だ。
もしかしてマメに掃除でもしているのだろうか。
こうしてみると、確かに、羽布団とまでは言わないが、それなりに寝心地は良いのかも知れない。
「結構いいだろ。此処。なんならお前も使っていいぞ」
「…いえ…私は……」
「ああ、お前は授業サボったりしないか。じゃあ、あいつに教えてやれよ。あの天才児」
「……当麻?」
「そ。今の時期はいいけど、この後寒くなってきたら屋上はキツいぞ」
「…………」
たまに当麻が屋上で昼寝をしていることまで知っているのか。この人は。
情報通というか千里眼というか。
「ま、オレだって何でも知ってるわけじゃないけどな」
まるで征士の心を読んだかのように、鷹取はそう言って苦笑した。
「だいたい、お前がなんで今此処にいるのか、分かってないし」
「……そ……それは……」
「言ったよな、オレは。嫌なら消えろって」
「…………」
「さっきのあれ、オレは冗談で言ったつもりはないぞ」
鷹取の声が鋭くなった。
「本気で、オレに対して、何でも出来るわけじゃないなら、さっさと消えろ。これが最後通告だ」
「…………」
じろりと睨まれても、征士はその場を動こうとしなかった。
「もしかして、お前、此処まで来て、オレがそんなことはしないと思ってるのか?」
「いいえ」
きっぱりと征士は言い切った。
「貴方が本気であることを疑ってなどいません」
「…………」
「それでも、私は此処にいます」
「…………」
「貴方のそばに居ます」
倉庫の窓硝子に雷鳴が響いた。

 

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