其処にある未来(7)

「うわっ! めっちゃ美味♪」
「ホント?」
手放しでの鷹取の感激の声に、伸は安心したようにふっと笑った。
「でも、なんでいつものと味が違うんだ? これってふつうに市販のルー使ってんだよな?」
大盛りのカレーをスプーンですくい上げ、鷹取は不思議そうに首を傾げてみせた。
伸も笑いながら一口カレーを頬張り、味を再確認する。
「そうだね。今日は時間もそんなにかけてないし、市販のものしか使ってない。ま、それでも3つくらいブレンドしてみたけど」
「……ブレンド? あ、だから何種類もルーがあったんだ」
「そう。まだそれぞれ残ってるから、次は別の配合で試してみるとまた違った味になると思うよ。香辛料もいくつかそろえたし」
伸の言葉に鷹取は奇妙な表情で更に首を傾げた。
「どうせどれもカレーだろ? そんなたいした違いはないんじゃないのか?」
伸は笑いながら小さく首を振った。
「確かに大きな違いはないよ。注意していないと見落とすくらい微妙かもしれない。でも何もしないより、少しでも複雑になったほうが楽しいし、面白いと思うんだ」
「面白い? 美味しいじゃなく?」
「うん」
にっこりと伸は頷いた。
「なんていうのかな? ほんのちょっとでいいんだ。ちょっとだけ何かを足したり引いたり、火の強さや時間を変えたり、下ごしらえしたり、そういうちょっとした違いだけで、いろんなものが複雑になるじゃない。それがなんか楽しい」
「それって料理っていうより、プラモデルとか作ってる感覚とか?」
「あ、それ近いかも」
「なるほどね〜」
感心しながら、鷹取はもう一口カレーを頬張った。
確かにいつもと違う複雑な味がする。
いつも何かしら物足りないと思っていたのは、やっぱり味が単純だったからなんだろう。
「にしてもお前、ホント男にしとくには惜しいなあ。マジで嫁に欲しくなる」
「何言ってるんだよ。ったく。それに君の言い方だと欲しいのは嫁じゃなくって家政婦さんだろ」
「そうとも言う」
真面目くさった表情で言い切った鷹取の言葉に吹き出しそうになりながら、伸はようやく本題に入れたとばかりにスプーンをおいて、正面から鷹取を見つめた。
「実は、冗談抜きで、そのことを相談しようと思って今日は来たんだ」
「……そのこと?」
「うん」
鷹取の表情から笑みが消えた。
「そのことって、なんだ」
「端的に言うと、それのこと」
そう言って伸は目の前のカレーの皿を指差した。
「どういうことだ、それは。お前、うちに通う気なのか? 家政婦として」
「家政婦ってわけじゃないけど、夕飯作りにくらい、しばらくの間来ようかなあって」
「…………」
「もちろん君の左手がある程度回復するまでってことだけど」
「どうして」
「……どうしてって言われても」
「責任感じてるのか?」
探るような視線に、伸は少し困ったように肩をすくめた。
「……それも……ある」
「気にしなくていいって言わなかったか?」
「聞いたよ。もちろん。でも、やっぱりあの日、僕が誘わなければ君はうちに来なかったわけだし、征士だって、君を招待して欲しいって僕に言わなければって思ってるはずだ」
「…チッ……」
苦々しげに舌打ちをして、鷹取が俯いた。
「なんだよ、それは」
「こういう言い方でいいのか分かんないけど。むしろ……そう思ってたほうが楽なんだよ。僕等」
「楽……?」
「そう……だね」
「それってつまり……何か? 今回のことはお前等の所為だってオレに言わせたいのか?」
声の鋭さに一瞬伸がビクリと身体を竦ませる。
「お前は、オレに非難されたいのか? なじられたいのか?」
「君が……そうしたいのなら……喜んで」
一言一言を噛みしめるように伸は言った。
「君に出来るのなら、僕をなじってくれて構わない」
「いい加減にしろよ!」
ついに鷹取がバンッと座卓に右手を叩き付けた。
「お前等にそうやって同情されるたび、こっちは虫唾が走るんだよ」
鷹取の鋭い目が、射抜くように伸を睨み付けた。
「……知ってるか? そんなふうに言えるのはな、自分には関係ない相手だからなんだよ。親父達が事故った時もそうだったよ。可哀相だねってオレに同情の眼を向けるのは、どいつもこいつも自分達は関係ない位置にいれる奴らばっかりだった。それが証拠に、実際オレを引き取らなきゃいけなくなった親戚は、明らかに迷惑そうな顔してたよ。表面だけは、いつまでも居ていいのよなんて言ってたけど、内心早く出ていってくれって思ってたのなんかまるわかりだったんだ」
握りしめている鷹取の拳が血の気を失って青白くなった。
「お前等だってそうだよ。オレは他人だ。お前等とは違う。お前達は何かあっても、死んでも次の世があるんだろうけど、オレは違うんだよ。親父もおふくろも、この腕も!」
そう言って、鷹取は伸の目の前にギプスで固められた左腕を突きだした。
「この腕はもう元には戻らないんだ。お前等みたいに、今がダメなら次の世で挽回しようなんて考えることも出来ない。オレにとっては今が唯一の、たったひとつだけの、今なんだよ」
「…………」
「オレには、もうこの次はないんだ。分かってんのか、お前等は、それを」
「うん……分かってる」
「…………」
「分かってる。だから僕は此処に来た」
「…………」
「ごめんね」
鷹取が突きだしていた左腕をゆっくりと降ろした。
「ごめんね」
鷹取の言葉のひとつひとつが、剣のように伸の心に突き刺さっている。
でも、そのほうがまだマシだと。何も出来ないより、受け止めるという事が出来るだけ、やはりマシなのだと。
傷みの中に微かに疼く別の感情を静かに伸は呑みこんだ。
「悪い……オレ、何お前相手に八つ当たりしてんだろ」
俯いて座卓に突っ伏してしまった鷹取を見つめ、伸は微かに微笑んだ。
「僕の方こそ、ごめん。辛いこと、たくさん言わせてしまった」
ゆっくりと鷹取が顔をあげた。
「で、謝りついでにこんなこと頼むのは気が引けるんだけど、今の言葉、そのまんま征士にも言ってくれないかな?」
「……は?」
困ったように表情を歪め、伸は拝むように両手を顔の前で合わせた。
「最初はどうかなって思ってたんだけど、やっぱりその方がいいと思うんだ」
「お前、何言ってんのか自分で分かってないだろ」
「そんなことはない。分かってるよ」
「オレ、今、勢いに任せて結構酷いこと言った自覚があるぞ」
「うん」
「それを伊達にもって……オレにあいつを傷つけさせたいのか?」
「いいや。その逆」
ふわりと伸が笑った。
「確かにキツいこと言われて結構凹んだんだけど、でもその方がまだマシなんだ」
「その方がって、いったい何と比べてんだよ」
「ずっといいよ。無関心でいられるより。傷みでも苦しみでも何でも、ぶつけてもらった方がどれだけ救われるか」
「…………」
「特に征士にはね」
「……どういうことだよ」
ようやく鷹取の表情から刺々しさが消えた。
居住まいを正すように姿勢を直し、鷹取は伸の方へ僅かに顎をしゃくり、話の続きを促した。
「君に、こんなこと言うのは情けなくてしょうがないんだけど、実は今、僕達の誰も征士に触れないんだ」
「触れない?」
「……うん」
「それは……物理的にってことか?」
「物理的にも精神的にも……だよ。征士が頑なになった時は誰も彼に近づけない。声をかけることすらためらってしまうんだ」
確かに、初めて出逢った頃の征士の頑なさは、自分もよく覚えている。
少しずつ慣れてきて、少しずつ表情を読めるようになってきて、少しずつ見方が変わった。
けれど。
「……あいつなら大丈夫なんじゃねえのか? 太陽」
「……秀?」
「そう」
鷹取の指摘に伸はふうっと肩を落とした。
「正直に言うと、僕等の中で今一番征士に触れないのは他の誰でもない秀だよ」
「……どうして?」
「たぶん、怖いんじゃないかと思う」
「怖い? 傷つくのがか?」
「違う。傷つけるのが……だよ」
触れることで相手を傷つけてしまうかもしれない恐怖。
恐らく、秀以外の誰にも本当の意味で理解することは出来ないであろう恐怖。
「なんでまた。ちょっと触れたくらいで傷ついたりしないだろう。あいつは」
「だとは思うんだけど、でも、駄目なんだよ」
「だからって、オレにどうしろって言うんだ? どっちにしても、オレに出来ることなんかねえぞ」
「君は自分を過小評価しすぎだよ」
「おれは部外者だ」
「そんなことない。前に言っただろう。征士はすごく君のこと慕ってるって」
「だからってなあ……」
「残酷なこと言ってるのは分かってる。辛いのも苦しいのも痛いのも、僕等じゃない。むしろ君だ。でも、それでも僕は今の状態の征士を見ていられない」
「…………」
「ごめんね。君にこんなこと頼むのは筋違いだってことも分かってるし、酷いこと言ってるってことも分かってる。でも、征士を今の状態から救い出せるのは君だけなんだよ。僕にも秀にも、他の誰にも出来ない。君にしか出来ない」
「おまえ、言ってること無茶苦茶だぞ」
呆れたように鷹取は息を吐いて頭を抱えた。
「……おまえは奴を救いたいんだよな?」
「うん」
「それで、オレにやって欲しいことは、あいつをなじって酷いこと言って傷つけることって。かなり矛盾してるぞ」
「うん。それも分かってる。矛盾してる。でも、それがたぶん、今の征士を救う最善の手段なんだ」
「おまえさ……実は結構すげえ性格だろ」
「だと思う」
ためらいなく言い切った伸に、鷹取は今度こそ本気で呆れた表情になった。
でも、不思議とさっきまでの嫌なもやもやは消えているような気がした。

 

――――――「首尾は上々? 上手くいったのか?」
そう聞きながら当麻は伸の隣にすとんと腰を降ろした。
「……どうだろ。よく、わかんない……」
呟くようにそう言って、伸は小さく溜息をついた。
「……後悔してるのか?」
伸は小さく首を振る。
「そうじゃない。けど……」
「……けど?」
「自分は本当に無力なんだなあって思い知らされた気がする」
そう言いながら伸の細い指が握っては開くという動作を繰り返す。
「僕は、心の何処かで慢心していたのかも知れない。なんとか出来るって。自分の周りにいる人達くらいなら、ちゃんと護って、癒してあげられるんだと。そんなことを思ってた」
伸の力。癒しの手。
「何て狭い範囲なんだろう……」
「…………」
俯く伸の横顔を、当麻はじっと見つめていた。
考えることは同じ。
どうやったら、大切な人達の笑顔を取り戻せるのか。
今の自分に何が出来るのか。
「それでもお前は偉いよ。自分に何か出来ることはないかって、色々考えたんだろ? 飯作りに行くなんて、お前じゃなきゃ思いつかない事じゃねえか」
「それは……それくらいしか出来ないから」
そう言って、伸はもう一度握りしめた自分の拳を見つめた。
伸の持つ癒しの力は、鷹取のような”他人”には効かないのだ。
自分でそう言ったはずなのに、そしてそれは間違ってなどいないのに。
それでも、言わなければよかったと、ふとそんな後悔の念が当麻の心に過ぎった。
「そう言えば……正人の野郎には効くのかな?」
急に思いついたように当麻が言った。
不意打ちのように告げられたその言葉に伸の心臓が一瞬トクンと鳴る。
「正人にって……癒しの力がってこと?」
「ああ」
当麻が頷くと、少し不安気に伸は俯いた。
当麻、遼、征士、秀には有効であろうこの力は、果たして正人にも通用するのだろうか。
そう言えば、正人の位置付けは何処にくるのだろう。
今でこそ、烈火の影響で変わったとはいえ、もともと正人は、鷹取と同じ側にいた人間だった。
今まであまり考えたことはなかったが。
もし。もしも。
考えただけで、心が竦む。
「ま、試してみりゃいいか」
ぶっきらぼうとも言えるような口調で当麻が言った。
「試してって……簡単に言うけど、どうやって?」
「んなの、オレが奴を呼びだしてボコボコにしてやるから、その後効くかどうか試してみればいいんじゃねえのか?」
伸が一瞬戸惑ったような奇妙な顔をした。
「……ボコボコ? 君が、正人を?」
「おうよ。実験のためだ。まさか止めたりしねえよな」
「…………」
「これで奴を叩きのめす正統な理由が出来たってわけだ。なんか気分いいねえ」
眉間におもいっきり皺を寄せて、伸は当麻を睨み付けた。
「当麻、もしかして、サシの勝負で正人に勝てるとか自惚れてる?」
「……!?」
ギクリとなって、当麻は一歩退くように腰を浮かせた。
「……何、あいつ、そんなに強いのか?」
「……まあ、それなりに?」
「それなりって、どの程度だよ」
「そうだね。中学の頃までの記録しか知らないけど、そうとう強いかな」
「……マジか?」
「うん。中学の時やってたバスケ、今も続けてるだろうし。俊敏性は折り紙付き。腕相撲だって、実は僕、一度も正人に勝ったためしないんだよ」
「……そう……なのか?」
「さすがに泳ぎは負けなかったけど、それ以外は、全然。いつもほんの少し上を行かれて悔しかったなあ……」
「……へぇ……」
懐かしい中学時代。
そう言えば、部員の中で一番早くダンクシュートを決めれるようになったのは正人だった。
得意そうにコート内を駆け回る姿は、今でもはっきり覚えている。
伸がそんなことを考えていると、目の前で当麻が酷く嫌そうに大きな溜息をついていた。
「どうしたの? 当麻」
「お前さぁ……なんで正人の事考えてる時、すっげえ倖せそうなんだよ」
「何か問題あるの?」
「…………」
伸の気分を紛らわせるためとはいえ、やっぱこの話題は止めておけばよかったかも。
そんな事を思いながら、当麻はもう一度溜息をついて肩を落とした。

 

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