其処にある未来(6)

「すまないが、今日はこれで失礼する」
夕食にほとんど手をつけないまま、征士はそう言って二階へと上がっていってしまった。
せっかく少しでも征士の食が進むようにと、和食の献立にしたのに、だ。
「やっぱ駄目か」
伸の真向かいで秀が困ったように溜息をついた。
順番では今日の夕食当番は秀だったので、本当は麻婆豆腐を作るはずだったのだが、急遽和食へと変更したのだ。
「朝もほとんど食ってなかっただろ。あいつ」
「昼もだよ」
伸の隣で遼も俯いたまま箸を置いた。
「昼になっても弁当開けてなくて、どうしたんだって聞いたら、食欲がないから代わりに食ってくれって弁当箱押しつけられて」
「ああ、だから遼が2人分持って帰って来てたんだね。征士の分も遼が食べたの?」
帰宅したとたん、遼は拗ねたような表情で、伸の前に2つ、空の弁当箱を置いたのだ。
「だって、残して捨てるわけにいかないだろ。伸が作ってくれたのに。昼休み終わるギリギリまで征士にちゃんと食べろって言ったんだぞ」
「分かってるよ」
頷きつつ、伸は小さく溜息をついた。
遼の言葉にも耳を貸さないとなると、これはそうとう重症だろう。
昨日、鷹取の見舞いから戻ってきて以来、征士は誰とも口をきこうとせず、必要最低限の会話以外はずっと押し黙ったまま部屋に籠もっていたのだ。
しかも今日は、朝の稽古もしていなかった。
征士が、理由もなく朝の自主稽古をサボるなど、初めてのことだ。
「授業中の様子はどうだったんだ?」
秀の問いにも遼は困ったように首を振った。
「もともとから口数多いわけじゃないから、周りから見たら普段通りに見えたんじゃないか?」
「他の奴らじゃなくて、お前にはどう見えたかってこと聞いてんの」
「それは……」
「秀、遼を追求したって何も出てこんぞ。感じてるものはオレ達全員同じだ」
当麻が読んでいた新聞から目を上げ、ちらりと秀を睨んだ。
秀は小さく舌打ちをして、再び箸を取りあげる。
秀が食事を再開するのを見届けて、次に当麻は新聞をたたみながら伸に眼を向けた。
「伸、やっこさん、いつ退院だって?」
「明日らしいよ。霧島先生に聞いたから間違いないと思う」
「腕の状態については何か言ってたか?」
「しばらくは通院してリハビリの方法を教わるらしいよ。手を握ったり開いたりは比較的すぐに回復するだろうから日常生活についてはそんなに心配しなくていいって。もちろん左利きだってことで、右利きの人よりは色々大変だろうけど」
「征士もそのこと……?」
「ずっと聞いてた。でも何も質問しないで黙って俯いてるんだ。なんかもう見てられなくて」
誰の所為でもない。
征士が責任を感じる必要などもちろんない。
それは鷹取自身が言ったとおり、事実なのだ。
あの時、誰も、そろそろ帰る時間だとか、何時のバスがあるとか、そういった話題はしなかった。
あのバスに乗ったのは鷹取自身が決めたことだし、誰もあのバスが事故を起こすなど考えていなかった。
考えていなかった。予感も予兆も何もなかった。
だから。
あの事故をこの中にいる誰かの所為にする必要なない。そう思って。
自分の所為でなければ、心の負担はないものだと思っていた。
でも、そんなのは嘘だった。
少しも心は軽くならない。むしろ重くなった。どうしようもないくらい重くて。
お前の所為だとはっきり言われた方がまだましだったのだ。
自分の所為ではなかったこと。そのことが逆に征士を追いつめている。
何も出来ないということが、何より苦しい。
何も出来ない。何もしてはいけない。
出来ることなど、何もない。
「好きの反対は嫌いじゃなく、無関心ってことだな。例えは悪いが」
当麻の呟きに、秀が無言で頷いた。

 

――――――さすがにこれは少々でしゃばり過ぎなのかもしれない。
そう思う心がなかったわけではなかったが、それでも伸は踏み出した足を引っ込めることが出来なかった。
鷹取の住むアパートの前。二階までの階段を上がるのに10分。部屋の前で5分、迷いに迷った伸は、それでも意を決してインターフォンを押した。
「ほーい」
部屋の中から鷹取本人の声が聞こえた。
「誰だ? 新聞の勧誘ならお断り……」
言いながらドアを開け、鷹取はその場で驚いて動きを止めた。
「毛利……?」
「あ、あの、こんにちは」
僅かに引きつった顔で、伸は大判の茶封筒を持った手をあげた。
「休んでた間のノートとプリント類、預かってきたんだけど」
「…………」
一瞬奇妙な表情を見せた鷹取は、それでもドアを全開にして伸を部屋の中へと招き入れた。
今日の昼、鷹取は無事退院をし、この部屋に戻ってきていたのだ。
腕にはギプス。リハビリ開始は一週間後、ギプスが取れてからということらしい。
そして、学校へは明日から登校するという連絡を入れていた。
ちょうど職員室で偶然その話を聞いた伸は、鷹取のクラスの学級委員や担任と相談の上、結果、一人で鷹取のアパートへ来る事にしたのだ。
ひとつの決心をして。
「へぇ……」
「何?」
「いや、ずいぶん片付いてるなあと思って」
「あんまりモノをため込まない主義だからな。ごちゃごちゃしてるの嫌いなんだ」
そう言って通された鷹取の住む部屋は、小さめのキッチンと広い和室のある1Kタイプの部屋だった。
こざっぱりと片づいた、とても鷹取らしい部屋。
座椅子や座卓はモノトーンのカラーで統一され、大きめの本棚には、参考書や辞書に混じって少年らしい漫画や小説が少々。
ただ、その棚の一番上の箇所が不自然に空いているのを見つけ、伸は思わず部屋の隅に眼を向けた。
そこにあったのは、今まさに片付けられていた最中と思われる、賞状や楯、トロフィーの類。
慌てて目を背けたが、一際大きくて立派な楯に書かれていた”少年剣道大会”の文字ははっきりと伸の目に焼き付いた。
少年大会ということは、小学校か中学か、そんな幼い頃からずっと鷹取は剣道を続けていたのだ。
まさか捨てるとは思いたくないが、目にとまる場所から遠ざけようと思って棚から移動させようとしていたことは間違いはないだろう。
「……毛利?」
鷹取がキッチンの所で立ち止まってしまっている伸に不審気な目を向けた。
「どうした?」
「あ、いや、その……ごめんね、突然押しかけて」
伸は誤魔化すように笑顔を向けた。
「今日退院したって学校で聞いたから。ちょうどいいかなって思って」
「別にいいけど……っていうか、同じクラスでもないお前さんがどうしてプリント持ってオレん家に来てるのかは謎だけどな」
「あ……それは、僕が申し出たんだ」
「わざわざ? うちの学級委員に押しつけられたんじゃないのか?」
「別に押しつけられてはいないよ。どちらかというと進んで立候補したって感じ」
「へぇ〜」
面白そうに軽く肩をすくめ、鷹取は伸に座布団を勧めると、自分も座卓の向かいに腰を降ろした。
「何のもてなしも出来ないけど、ゆっくりしてってくれ。あ、麦茶でよければ飲むか?」
そう言って再び立ちあがろうとした鷹取を手で制し、伸は上目遣いに伺うように鷹取の顔を覗き込んだ。
「よかったら、麦茶は僕が用意するよ。だからあとでちょっとキッチン借りていいかな?」
「……へ?」
そこまで来て鷹取はようやく伸が手に持っていたのが、プリントの入った茶封筒だけではないことに気付いた。
「毛利……それ……」
伸の手には、大振りの白いビニール手提げがある。
しかも正面に印字されている文字は、鷹取も良く知っている近所のスーパーのロゴだ。
「そこのスーパーでちょっと食材仕入れて来たんで、冷蔵庫使わせてもらっていい?」
「……食材……?」
伸が掲げ持っているビニール袋には、ちょっとどころではない量の食材が詰め込まれている。
「肉じゃが、好きだよね? あと、何日か保つように、カレーも作っておくんで食べて」
「……え?」
「温めるだけですむから楽でしょ。カレー」
「って、おい」
「あ、他の料理がいいなら、リクエスト聞くよ」
「おい!」
思わず立ち上がり、鷹取は伸を睨み付けた。
「どういうことだよ」
「食べたくなかったら捨てていいから。僕も自分が押しつけがましいことしてるっていう自覚はあるつもりだし」
「…………」
「左手、使えないと料理も出来ないだろう。君が困ってるんじゃないかと思って」
「……同情か?」
「そのつもりはないけど、そういう言葉でしか納得できないなら、そう思ってくれて構わない」
「…………」
はっきりと言い切った伸の言葉に、鷹取は絶句してしまい、次の言葉を出せなかった。
「とりあえず傷みやすい食材もあるから、冷蔵庫には入れさせてもらうね。あと、お鍋は何処?」
「…………」
「大丈夫。気に入らなければ食べなくていい。さすがに目の前で鍋ひっくり返されるのは嫌だけど、そのまま腐らせたらあとが大変だから、嫌なら僕が帰ってから捨ててくれる?」
「毛利……どうして……」
「あと、お醤油とか砂糖はある? 調味料類はあると思って買ってこなかったんだけど、もし足りないなら今からまた買い出しに行ってこなきゃ」
「醤油は、流し台の下の棚にある」
食材を冷蔵庫へ入れていた伸が手を止め、鷹取を見あげた。
「砂糖は食器棚。右が食器で左に塩とか砂糖とか、調味料が入ってる。あと、みりんは冷蔵庫の野菜室。鍋は大きなやつが2つあるから、肉じゃがもカレーも同時に作れる。ま、最近あんま使ってないんで、汚れてるかもしれないけど」
「……分かった。有り難う」
「あと、作ってくれるならひとつだけ聞いて欲しいことがある」
「……何? 何か他にリクエスト?」
「いや。お前が作りたいものを作ってくれて構わない。ただ、作ったら、お前も一緒に食ってから帰れ」
「…………」
伸が驚いて目を瞬いた。
鷹取は呆れたような、照れたような笑顔を見せて、小さく肩をすくめた。
「知らないだろ。ひとりで食う食事は味気ないんだ」
鷹取の笑顔に、ようやく伸も安心したように笑みを洩らす。
「そういうことなら了解。あとで家に電話だけ入れさせて」
「OK」
それが合図であったかのように、鷹取は流し台の下から鍋を2つ取り出しコンロに乗せると、伸が作業をしやすいようにまな板や包丁、材料を並べだした。
「にしても久しぶりだな。まともに料理した飯食うってのは」
「え? いつも何食べてるの?」
「レトルトとか、総菜買って帰ったり、めんどくさい時は弁当屋ですますし。まあ簡単なサラダだの味噌汁だのくらいはつくれっけど。あ、得意料理は野菜炒め。つってもキャベツともやしと肉を塩胡椒で炒めるだけ」
「なるほど。まさに男の料理って感じだ」
「お前が特殊すぎんだよ。男のくせに」
そう言って鷹取はニヤリと笑った。
「にしても、さっきは押しかけ女房かと思ったぞ。ってか今の状況ってまさにそれだよな。お前が女だったらここで押し倒してるとこだ」
「……なっ!?」
「冗談、冗談。でもホントもったいないよな。お前絶対いい嫁さんになるのに」
「あのねー」
「10年後もひとりだったら、オレがもらってやろうか?」
「いい加減にしろ。ったく、誰も彼も人のこと嫁、嫁って。人権侵害だよ」
「なんだ。オレ以外でもそんなこと言った奴がいるんだ」
伸がグッと言葉に詰まると、鷹取は面白そうにニヤニヤと笑いだした。
「なるほどね。もしかして、そいつは、オレみたいに冗談じゃなく、本気のプロポーズだったりして」
「……!?」
「あ、図星か。さては言った奴ってあいつだろ。木村正人」
「…………もしかして君、いらない勘ばっかり鋭いって言われたことあるだろ」
「あるよ」
そんなふうにさらっと言ってのけるのが鷹取の鷹取らしいと言われる所以なのだろう。
ふうっと息を吐いて、伸は正面から鷹取を見あげた。
「ねえ、鷹取」
「タカでいいよ」
「じゃあ、タカ。勘の鋭い君の事だから、とっくに気付いてると思うんだけど」
「…………」
一瞬だけ目を伏せ、伸はすうっと息を吸い込むと再び顔をあげて真っ直ぐに鷹取を見つめる。
「今のままじゃ、征士が壊れる」
鷹取の表情がすっと引き締まった。

 

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