其処にある未来(5)

「あの人、左利きだったんだってな。知ってたか?」
秀はそう言いながら、伸に珈琲を手渡すと、ベッドの上に腰を降ろした。
伸は両手でカップを支えながら、小さく首を振る。
「今日征士に言われて初めて知った。秀は? 知ってた?」
「オレは……昨日知った」
「昨日?」
「左手で箸持ってたからさ」
「……あぁ」
さほど注意して見てなかったから見逃していたが、そう言われれば、昨夜、鷹取は左で箸を持っていたのだろう。
「……よく見てたんだね」
「そりゃ……まあ。気になるから」
「気になる……?」
伸が首を傾げると、秀は慌てたようにブンブンと頭を振った。
「それより……様子はどうだったんだ? 行って来たんだろ。病院」
「あ……うん」
結局あの後すぐに伸達は病室を追い出され、鷹取と話をすることはなかった。
鷹取はすぐに目を閉じてしまったので、霧島医師が鷹取が目覚めていたことに気付かなかった所為だ。
とにかく今日はこれから検査だし時間もないので、明日にでも改めて見舞いに来てあげれば。
そう言いながら、なかば強制的に病室から追い出し、霧島は伸達を帰宅させた。
「ホントに寝てたのか? 寝ぼけてたとか?」
「たぶんわざと寝たふりをしたんだと思う」
「……だろうなぁ」
伸の考えに秀も同意を示す。
2人は同時に腕を組んで、小さなため息を洩らした。
「癒しの手は万人には効かない……か」
そう言われた瞬間、征士はどう思っただろうか。
そして、鷹取はいつから目を覚ましていたのだろうか。
すべて聞いていたと仮定して、当麻のあの言葉の意味を理解したのだろうか。
「あの人、賢いからなぁ……」
秀が重く呟いた。
「でも、本当に駄目……なのかな?」
恐る恐るといったふうに伸が口を開いた。
「試してみる価値はあるんじゃ……」
「無理だろ」
伸の言葉をスパッと遮って秀は言い放った。
「当麻が駄目だって言ったんなら、駄目だろ。やっぱ」
「…………」
あまりにもストレートな秀の言葉。
伸は小さく頭を振って俯いた。
これが熱血や青春を売りにしている少年漫画の世界だったら、やってみなけりゃわからないだろ、とでも言えるだろうに。
やっぱり。本当に無理なんだろうか。
絶対に駄目なんだろうか。
ほんの僅かの期待も持ってはいけないんだろうか。
そんなことをつらつら考えている自分に腹が立ってくる。
こんなもの優しさでも何でもない。
これはただの優柔不断者の足掻きでしかない。
どうしようもなくて、伸は唇を噛みしめた。

 

――――――翌日の放課後、図書室で熱心に分厚い本を広げている征士の姿を見かけ、伸は足を止めた。
本のタイトルは見えないが、開かれているページには、腕の部分の筋肉や骨の絵が描かれている。
ということは、もしかして医学関係の書籍だろうか。
「……征士……?」
そっと声をかけてみると、征士は少し驚いた表情で顔をあげた。
「伸……? どうして?」
「あ……僕は図書委員の仕事」
「委員をしていたのは去年のことではなかったか?」
あっさり指摘され、伸は苦笑した。
「よく覚えてるね。実は今日は代理なんだ。本来の当番が急用が出来たから替わってくれないかって」
「……そうか」
「そういう征士は? 部活どうしたの?」
征士が部活を休むというのは、かなり珍しいことである。
それこそ夏休み、映研部に付き合っていた時期を除けば、初めてかもしれない。
「今日は全員で先輩の見舞いに行くということで休みになったのだ」
「なるほど……で、君は一緒に行かなかったの?」
「…………」
伸の問いに征士は少し俯いたままパタンと本を閉じた。
「……私は……あとから行くと言って、皆には先に行ってもらった」
「……そう……」
閉じられた本のタイトルを見て、伸は自分の予想が当たっていた事に気付く。
「それ、医学書?」
「……ああ。だが、駄目だな、知りたいことはほとんど載っていない」
「そりゃ、高校の図書室の蔵書なんてたかが知れてるしね」
家庭の医学程度の書籍に、専門的な情報が載っているとは思えない。
「そうだな。それに知ったからと言って、私の力でどうにか出来るわけでもないのに」
「らしくないよ。そういう投げやりな言い方」
「でも事実だ」
「……征士……」
どうすることも出来ない。それでも、何かせずにはいられない。
征士の心の焦りと葛藤。それと同じものは自分の中にもある。
伸はじっと自分の手を見つめた。
ゆっくり握って開いてみる。
虚しさだけが心に広がったような気がした。
「征士……」
「なんだ?」
「僕も……一緒に行っていいかな? お見舞い」
「……構わないだろう。私には止める理由も権利もない」
「だかららしくないって、そういう言い方」
呆れたように肩をすくめ、伸は返却本の整理をするためにカウンターへと戻った。
「これ済ませたら上がって良いって言われてるから、ちょっとだけ待っててね」
「了解した」
征士が棚に本を戻すため立ちあがったのが、伸の目の端に映る。
いつでも、どんな時でも、征士は凛としていたという印象しかないのに。
今日は瞳も髪の色も表情も、いつもと違い燻っているように見えた。

 

――――――征士と伸が鷹取の病室の前まで来た時、中からは楽しそうな笑い声が響いていた。
「お前等、あんま笑わすなよ〜」
ひときわ大きな笑い声をあげているのは鷹取のようだ。
剣道部一同がそろって見舞いに来ているのだから、病室内もそうとう賑やかなのだろう。
ほんの少し拍子抜けして、反面、とてもとてもホッと安心して、伸はガラリと扉を開けた。
「……お、人魚姫!?」
伸が声を発するより先に、一番入り口近くにいた剣道部員のひとりが伸に気付いて驚きの声をあげた。
同時に室内がざわりとどよめく。
「来てくれたんだ。2人とも」
大勢の剣道部員の中心から声が響く。伸の後ろに立つ征士の身体が緊張して強ばったのが感じられた。
「ありがとな」
そう言ってベッドの上から鷹取が右手をあげた。とたんにザッと入り口からベッドまでの道が開く。
「なんだか、モーゼになった気分だ」
まだ征士が少し躊躇しているのに気付き、伸は先に室内へと足を進めた。
そして、そのまま皆が開けてくれた隙間を通り、鷹取のベッド脇まで辿り着く。
「少しは元気そうで安心した」
「おかげさまで。心配かけてすまなかったな」
ベッドの上から伸を見あげてにやりと鷹取が笑った。
いつもと変わらない笑顔。
に見えた。
少なくとも伸には。
「にしても美人が2人並んでるとやっぱ爽快。良い眺めだぁ」
「……なっ!?」
相変わらずの鷹取の軽い口調に思わず声をあげかけた伸の真後ろでドッと笑いが起きた。
「ホントですよ、主将。でも、伊達があとから来るってのは知ってましたけど、なんで毛利先輩まで一緒に?」
「主将、いつの間に人魚姫とお近づきになったんですか!?」
「ずるい!!」
最後の叫びは伸のすぐ真横に割り込むように入ってきた背の低い少年の口から飛び出したものだった。
思わず伸が声のした方へ顔を向けると、その少年は真っ赤になって隣の部員の背中に隠れるように引っ込んだ。
「ははっ、憧れの人魚姫を間近に見れて照れてやんのこいつ」
少年の周りでヤジが飛ぶ。
もしかして、この辺りがまさに、伸オンリー版の人魚姫制作を熱望した奴らだろうか。まったく。
「こらこら、姫はオレの為に此処に来てくれたんだから、ちょっかい出すなよ、お前等」
騒ぎを止めるわけでもなく、むしろあおり立てるような事を言う鷹取を思わず伸が睨み付ける。
「それに、こいつはもうお手つきだから、手を出しても無駄だぞ」
「……!?」
今度こそ真っ赤になって絶句した伸を鷹取は面白そうに見あげていた。
「……な……何を……」
「ということだから、お前等は遠慮しろ」
しっしっと手で振り払う真似をする鷹取の隣で、伸は目を白黒させている。
「それに、せっかく両手に花状態になったんだから、お前等は邪魔、邪魔」
「ちぇーっ」
文句を言いながらも、ベッドの周りに群がっていた剣道部員達はそれぞれ荷物を手に帰り支度を始めていた。
なんだかんだ言って鷹取の言葉には逆らえないらしい。
「じゃ、また明日来ますね、主将」
「何言ってんだ。明日には退院してるよ。怪我は軽いんだから」
「あ、そうか」
「じゃあ、今度は学校で」
「おう、学校で」
最後の部員が去ったのを見送って、伸は鷹取に向き直った。
「鷹取……今の……」
「ああ言っとけば悪い虫はつかないだろ」
「そうじゃなくて……」
「別にオレのものだなんて嘘言ったわけじゃないんだし」
「そのことじゃなくって、今……」
「……?」
「今、軽い怪我って……」
ほんの一瞬だけ鷹取の表情が引き締まった。
だが、鷹取はそれを誤魔化すように首を振ると、伸から視線をそらした。
「そのとおりだろ。軽い怪我だよ……剣道やってさえいなけりゃな」
「…………!」
言葉をなくした伸を通り越し、鷹取の視線が征士へと向けられる。
と、その眉がふとひそめられた。
伸が思わず振り返ると、征士は深く頭を垂れた姿勢のまま止まっていた。
「どういうつもりだ?」
低い声で鷹取が呟いた。
「何故、頭を下げる?」
「……申し訳……ありませんでした」
ほとんど聞き取れないほどの小さな声。征士は頭を下げた姿勢のまま動こうとしなかった。
「何故、オレに謝る?」
鷹取の呟きが、ほんの少し鋭さを増す。
ピクリと征士の肩が震えた。
「……それは……」
「自分が招待した所為だとでも思ってるのか? 違うだろ?」
「…………」
「招待に応じたのはオレの意志だ。あの時間に帰ることも、あのバスに乗ることを決めたのもオレ自身だ。オレの行動は誰にも誘導などされていない。お前はそのことを誰よりも知ってるじゃないか」
「…………」
「そうだろ?」
征士の身体が硬直する。
「それとも、オレにお前の所為じゃないから……とでも言って欲しいのか?」
「……!!」
空気に亀裂が入ったのかと思った。
それは、心が傷つく音だった。
征士は顔もあげられないまま、相変わらず同じ姿勢を維持し続けている。
まるで鋭い刃物が全身に向けられ、少しでも動いたらその刃が身体を差し貫きでもしそうなほどだ。
いや、実際に今、征士の心の真ん前には刃物が突き立てられているのだろう。
「……あ…………」
声を発することがためらわれるような空気の中、伸は、ゆっくりと鷹取に顔を向けた。
「あの……鷹取……手を」
そして、手を差しだす。
「鷹取……手を……」
最初、鷹取は不思議そうな顔をして伸を見あげていたが、突然ハッとしたように視線を背けた。
「手を……」
「いいよ。遠慮する。」
鷹取は、伸の差しだした手を拒否するようにシーツの下へと自分の腕を隠した。
「……でも」
「オレは他人なんだろ? 無理だよ」
初めて征士が顔をあげた。すがるような目で伸を見る。
鷹取はため息のような長い長い息を吐くと、意を決したように真っ直ぐに伸を見あげた。
「悪い。勘弁してくれ」
「でも、もしか……」
したら。そう言いかけた伸の言葉は鷹取の鋭い目と遮られた右手によって止められた。
「期待したくないんだ。」
「…………」
「ほんの僅かでも期待しちまったら、それが駄目だった時、お前を恨む気持ちに歯止めが利かなくなる」
「…………」
「だから……勘弁な」
そう言って、鷹取は笑った。
微かに、笑ったのだった。

 

前へ  次へ