夢の跡地 (5)
「今……何時だ?」
「午後3時よ」
「……そうか……」
「……地下競売は……?」
「中止になったわ」
さっきからこれで何度目だろう。
クラピカは目覚める度に同じ事を尋ねてくる。センリツは律儀にそれに答える。何度も何度も。
そして、ある程度の情報を聞き出すと、クラピカはまた眠りにつく。
今日は朝からそれの繰り返しだ。
それでもクラピカが覚醒する間隔は短くなってきたし、意識がある程度はっきりしている時間も、昼を回ってからはかなり長くなってきていた。
「心音も随分しっかりしてきたし、きっともう大丈夫よ。順調に回復しているわ」
「ああ」
頬にかかった金糸の髪をそっと払ってやり、オレは冷やしたタオルをクラピカの額に乗せた。
もう大丈夫。
これでこのまま熱が下がってくれれば。
下がってくれれば、クラピカは今度こそちゃんと目覚めるだろう。
だが。
「でも、記憶が混乱してるのね」
センリツは再び眠りについたクラピカを見つめながら小さくため息をついていた。
「時間の感覚もおかしくなってるわ。さっきはまだ5日だと思いこんでいたし」
「そうだな」
記憶の混乱。
昨夜、結局、一瞬覚醒したかと思えたクラピカは、あの後そのまま再び眠りに落ちていた。
脱水症状はまだ軽度だったおかげか、特に吐き気なんかもなかったようで、ある程度の水分補給でクラピカの状態は安定したようだった。
そして、今も。オレの目の前でクラピカは眠っている。
記憶の混乱か。
つまり、こいつの中に昨日の出来事は記憶として留まっていないってことだ。
昨日の出来事。
つまり、昨夜のあのことも。
「……何かあったの? 昨夜」
「…って………えぇぇぇえっ!?」
突然そんなことを聞いてきたセンリツにオレは思わず必要以上に反応してしまった。
「なっ? 何……何で、んなこと……」
「あ、いえ、別に、ちょっと心音のリズムが乱れてる様な気がしたから何かあったのかと……」
「ななな……何もないって」
「そう」
それ以上、特に追求せず、センリツは再び視線を眠るクラピカへと向ける。
オレはほっと胸をなで下ろしかけ、ふと気付いた。
あれ?
確かこの人って、心音で嘘を言ってるかどうか分かるとか言ってなかったっけ?
ってか、言ってた。
言ってただろうが。
オレは思わず自分の胸に手を当てた。
動悸が速い。これは乱れてるなんて程度で済まされるレベルじゃない。
ってことは、これじゃセンリツじゃなくても、オレが嘘ついてるのなんか丸わかりじゃねえか。
「…………」
でも、だったら何でセンリツは何も言ってこないんだ?
センリツはもうオレの方には目を向けず、クラピカの額の布を変えてやったり、頬や首筋の汗をふいてやったりしている。
気にしてないのか、気を遣ってくれているのか。
たぶん、後者だ。
オレはため息をつき、髪をクシャリと掻き揚げた。
昨夜のこと。
何もなかった。なんてことは口が裂けても言えない……よなあ。
それが証拠にオレは結局、あの後、一睡も出来ずに朝を迎えたんだから。
一睡もせず。オレはクラピカの寝顔を見ていた。
そして、自分がしてしまったことを後悔していた。
「…………」
確かに、寝不足の所為で冷静じゃなかったことは認める。
歯止めが利かなかったことも、理性が働かなかったことも、寝不足が原因と考えてもおかしくない。
でも。だからって。
そんなこと言い訳にならないだろう。
クラピカは弱ってた。
身体も心も弱ってた。
まだ意識も朦朧として、冷静な判断を下せる状態じゃなかった。
だから、オレは。
もしかして、今なら。
今なら。
そう思っちまったんだ。心のどこかで。
最低だ。
それは、男として最低の行為だ。
オレは、クラピカの意識が朦朧としていることにつけ込んだ。
クラピカが元気であれば絶対に出来なかったことを分かってて、つけ込んだんだ。
やっぱ、最悪……だよな。
「レオリオ。私、ちょっと出てくるけどいいかしら」
「……え?」
センリツがそう言って突然立ちあがった。
「あ、何処へ?」
「ボスがね。クラピカの状態が良くなったら出来るだけ早めに合流して欲しいって昨日言ってたのよ。この状態ならもしかしたら明日にでも発てるかもしれないから、チケットの手配とかしておこうと思って」
「……あ、あぁ……そうか」
そうだった。クラピカはすぐに此処から行っちまうんだった。
「本当は、もう少しゆっくり休ませてあげたいんだけどね。そうもいかなそうなのよ」
「ああ、そっちも大変らしいしな。それにクラピカ自身がきっと起きたとたんに出発するって言い出すだろうぜ」
「じゃあ、夕方にでも一度連絡入れるわね。クラピカのことよろしく」
「わかった」
「ちゃんと話をしてあげて」
「……え?」
オレは驚いて振り返ったが、センリツはもう部屋を出ていってしまっており、姿は見えなくなっていた。
もしかして。
センリツは全部お見通しなんじゃないだろうか。
オレが嘘をついていたことはもちろん。
何を隠していたのかも。昨夜、いったい何があったのかも。
「………………」
あり得ない……ことじゃないよな。
オレは再び深く深くため息をついた。
でも、話をする、って何を?
だいたい、クラピカが昨夜のこと全部忘れてるんだったら、それで終了にならないか?
わざわざ蒸し返してどうする。
それに、もしクラピカが昨夜のことを思いだしたらどうなる。
クラピカは、自分が女だということをオレが気付いてるなんて思ってもいないだろう。
だとしたら、オレの行動は奴の理解の範疇を超えてる。
許す許さないなんてもんじゃねえぞ。
「…………」
ちょっと怖い想像をしてしまったじゃねえか。くそう。
クラピカは眠ってる。
もう何も覚えていない。
だから、何もなかった。
オレ達の間には何もなかった。
そうしたら、オレ達は今までどおりの仲間でいられる。
何もなかったことにして、今まで通り仲間としてつき合える。それがいい。
そのほうがいい。
でも。
本当に、そのほうが……いいんだろうか。
「レオリオ……?」
「クラピカ? 気付いたのか?」
「…………」
クラピカはまだぼうっとした目で、ぐるりと部屋の中を見回していた。でも、さっき目覚めた時より、ずいぶんと意識ははっきりしているみたいだ。
「今は9月6日の午後3時半。地下競売は中止になって、お前等のボスは帰郷した。体調が戻ったらセンリツと一緒に合流して欲しいってさ。で、センリツは今チケットの手配に出かけてる。ゴンとキルアは今日から始まってるサザンピースオークションへ行った。他に聞きたいことは?」
「いや……ない。大丈夫だ」
そう言いながらクラピカがゆっくりと身体を起こそうとしたので、オレはとっさに手を出してクラピカの背中を支えてやった。
とたんに、オレの手に電撃が走る。
クラピカの身体に触れた瞬間、昨夜のことが頭をかすめたんだ。
抱きしめた細い肩。触れた唇の柔らかさ。
「……悪い!」
「……?」
思わず手を引っ込めちまったオレにクラピカが不審気な目を向ける。
「どうした?」
「あ……いや。急に起きて大丈夫か?」
「ああ。随分と眠ってしまっていたようだが、もう大丈夫だ。熱も下がった」
「ホントか?」
今度は注意しながら、オレはそっとクラピカの額に手を当てた。
すると、オレの手が触れた一瞬、クラピカが身を固くしたような気がして、結局オレはすぐさまクラピカの額から手を離しちまった。
クラピカが戸惑ったような目でオレを見る。
ったく。何やってんだ、オレは。これじゃ完全に不審者じゃねえか。
「9月6日か……。私は2日近くも眠っていたのだな」
独り言のようにクラピカが呟いた。
「飛行船の中でぶっ倒れたんだぜ、覚えてるか?」
「……なんとなく……いや、すまない。実はほとんど覚えていない。ゴンとキルアが戻ってきたところまでは記憶にあるんだが」
ってことは、その後の記憶は全部飛んでるってことか。やっぱり。
「蜘蛛の大将が行っちまったのは?」
「……なんとなく」
「ヒソカのことは? 結局あいつ、戦わずに帰ったんだぞ」
「ああ……そういえば……」
少しずつ記憶を辿るクラピカは、少し首を傾げた姿勢で中空を見つめている。
こうしてみると、こいつは女なのだと、改めて感じた。
そうなんだ。こいつの仕草や表情は、明らかに少女のそれなんだ。
しかも、ハンター試験の最中より、微妙に女っぽさが増している。
それもそうだ。
クラピカの年齢を考えると、どう気を付けても、男の振りが出来るのはあと数年が限界だろう。
そのうち誰もが気付く。
気付いちまう。
「クラ……」
「レオリオ」
「はい?」
無意識に名前を呼びかけたところをタイミング良く遮られて、オレは文字通り飛び上がった。
「な、なんだよ?」
慌ててしまったことを必死で誤魔化してみるが全然うまくいかない。
でも、クラピカはそんなオレの態度のおかしさには気付かなかったみたいで、特に気にした様子もなく、オレに向かって深々と頭を下げた。
「色々迷惑をかけてしまったようだな。すまない」
さらりと金糸の髪が揺れる。
「それから、本当に有難う」
微かに微笑んだクラピカの瞳は、どこまでも澄んだ空の碧。思わず見とれている自分に気付く。
「あ、いや……そんな。よせよ御礼なんか。何しおらしくなってんだ。いくら女でも似合わねえぞ。」
「…………!?」
しまった。
見ると、クラピカが引きつったような顔でオレを見ていた。
「……あ……」
やっちまった。とうとう。
いくら油断してたからって、なんでよりにもよってこんな時に。
どうしよう。
いや。ちょっと待て。
大丈夫。
大丈夫……かも知れない。
今ならまだ間に合うんじゃないだろうか。
なんちゃって。とか何とか言って誤魔化して。
何でもなかったことにして。
何もなかったことにして。
ほら。
誤魔化せよ。言葉を間違えたって。
ちょっと間違えただけだって。
オレは何も知らないから。何も気付いてないから。
だから、今まで通り。
今まで通り、仲間として、男同士の友情を。
友情を。
「……んなこと出来るか」
「……え?」
出来るわけない。
なかったことになんか出来るかよ。
確かにあったんだから。
抱きしめた細い肩も、華奢な身体も、柔らかかった唇も
全部。
全部本当のことだ。
そして。
オレの気持ちも。
こんなにも抑えが効かなくなったオレの気持ちも。
なかったことになんか絶対出来やしねえんだよ。
「クラピカ! お前のことが好きだ!」
「…………!?」
鳩が豆鉄砲を食ったような表情っていうのは、まさにこれだというような顔でクラピカが大きく目を見開いた。
「あ……いや、違う。そうじゃなくて……って、いや、違ってはいないんだけど、オレが言いたいことはそれじゃなく……いや、もちろんそれも言いたかったことなんだけど、それだけじゃなくってだなあ……」
「レ……レオリオ……?」
「だから、オレはお前のこと……違う……いや、違うんじゃなく……好きなのはマジなんだけど、そうじゃなくって……」
「レオリオ、落ち着け。頼むから頭を整理してから話してくれ」
片方が混乱するともう片方はどうも冷静になれるらしい。
って、違う。
冷静になられちゃ困る。
「オレはお前が女だって知ってるぞ」
「…………」
さすがにクラピカは息を呑んで言葉をなくした。
「知ってるんだ」
「…………」
俯いたクラピカの肩が震えていた。これは怒りの所為か、見破られた悔しさだろうか。
クラピカが低い声で呟いた。少しだけ責めるような口調で。
「いつから……知っていた」
「…………」
「私のこと……いつ気付いたんだ……?」
「……ハンター試験の最中……だな」
「……正確には?」
「第4次試験。ゼビル島。しばらく2人だけで行動した時があったろう?」
「…………」
俯いたままクラピカが唇を噛んだ。
何かを思案しているんだろうか。
「で? お前はどうする? オレの口を塞ぐのか?」
弾かれたようにクラピカが顔をあげた。
「そ……そんなこと、出来るわけないだろう!」
脅えたようにクラピカは叫ぶ。
「お前は私を何だと思ってる」
「……何って……」
「性別がバレた程度で、私が、大切な者をこの手にかけるとでも思っていたのか?」
澄んだ碧の空に緋色の炎が揺らめいた。オレはゴクリと唾を飲み込む。
揺れる炎の緋色は、真っ直ぐにオレを責めていた。
「それはない……な」
「…………」
「確かに、それはねえよな。オレの聞き方がマズかった。謝るよ」
オレは素直に頭を下げた。
「言い方を変える。もし、お前がこのことを誰にも話して欲しくないんなら、オレはずっと黙ってる」
「レオリオ」
「それこそ一生だって黙っててやる。だから」
「……だから?」
「オレの前でだけは、隠し事はなしだ」
「…………」
「いいな。クラピカ」
「…………」
ゆっくりゆっくりと時間をかけてクラピカが頷いた。
つかえていた胸の凝りが取れたような気がして、オレはほうっと息を吐いた。
秘密はひとりで抱え込むものじゃない。
一蓮托生。
オレがいるから。
だから、オレも一緒に抱えさせて欲しい。
そして、もう少しだけ甘えて欲しい。
それは贅沢な願いなのかもしれないが。
それでも。
ただ、そばにいて、この華奢な身体と、脆い心を支えてやりたいと。
それだけ。
それだけ叶って欲しいと、オレは心から思っていた。