CROSSING (5)

体育祭の準備の為、通常の部活動は早めに切り上げろとの生徒会からの御達しの為、いつもより早めに帰宅した征士は、玄関の扉を開けたところで、眉をひそめて立ち止まった。
「…………?」
なんとなく家全体に緊迫した空気が流れているのは気のせいだろうか。
静かに扉を閉じ、まず居間を覗いてみる。
誰も居ない。鍵があいていたということは、誰かは帰ってきているはずなのに、姿が見えないと言うのはどうしたことだろう。
不審に思い、2階へ行こうと階段を上りかけたところで、キッチンから何かをひっくり返したような盛大な物音が聞こえてきた。
「……!?」
伸は今日遅くなるのと言っていたので、今日の夕食当番は誰か他の者だったはずだ。
また、何か失敗でもしたのだろうか。
慌てて鞄を投げ出し、征士は急いでキッチンへと走った。
「どうした! 何をやった!?」
バタンとドアを開けると、キッチンの中には真っ白な煙がもうもうと立ち込めておりその煙の中心で遼が激しく咳き込んでいた。
「遼!?」
「あ……征士。おかえり」
涙を滲ませながら、遼が顔を上げ征士を見た。
手には大きめの両手鍋がひとつ。ガスコンロの火はすでに消されていたが、炒めるか何かしようとして失敗したのだということは容易に想像できた。
「何をやったのだ」
さっと換気扇をつけ、征士は遼の手の中の鍋を覗き込んだ。
「い…いや、ちょっと……」
鍋の底には黒焦げになった何かの残骸がこびりついている。
「遼……これは?」
「あの……」
よくよく目を凝らしてみるとどうやらこの煤けた物体は玉ねぎらしい。征士はキッチンテーブルに広げられた料理本と他の材料を見まわしてひとつため息をついた。
「何を作ろうとしていたのだ?」
「夕食」
「それはわかっている。何の料理を作ろうとしていたのかと聞いたんだ」
「…………」
バツが悪そうに口をへの字に曲げ、遼は広げられた料理本の方を指差した。
ページに載っている写真は、美味しそうな煮込み料理である。
「ビーフストロガノフ?」
「……ああ」
名前は聞いたことがあるが、実際に作ったことはもちろん無い。
遼だってそうだろう。
「何故このような難しそうなものに挑戦したんだ」
言外に己の力量をわきまえろと言っているようなものである。征士の視線を避けるようにうつむいて、遼は焦げ目のついた鍋を洗いだした。
「たまにはいいかなと思って。今日は結構早めに帰って来れたから時間あったし、伸は遅いって言ってたからきっと疲れて帰ってくるんだろうなあって思って…だから……」
「…………」
「いつもいつも悪いじゃないか。伸はどんな時だって手抜きなんかしない美味しい料理を作ってくれるのに、オレ達が当番になったとたんにまともな料理を何にも作れなくて。温めるだけで良いっていう冷凍食品とか、出来合いの惣菜とか、そんなのはオレだって食べたくないし、第一いつも頑張ってくれてる伸に失礼じゃないか」
「…………」
「せっかく伸に楽させてあげるために始めた当番制がさ、こんなことじゃ全然駄目だって。オレ達だってちゃんとやれるようにならなきゃ駄目だって、そう思って……」
「それで、その結果か」
「…………」
悔しそうに遼は唇を噛みしめた。
「玉ねぎを焦付かせた原因は何だ」
「……バターの入れ忘れ」
「なるほど」
料理の本には、確かに深めの鍋にバター大さじ1を熱してから、玉ねぎを炒めろと書いてある。
征士はフッと笑みを浮かべ、遼の黒髪をくしゃりと掻き回した。
「少し待っててくれ。鞄を置いて着替えてくるから」
「征士?」
「2人でやれば、多少難しくても何とかなるだろう」
「……!」
遼の顔にぱあっと笑顔が広がった。
純粋で真っ直ぐで。いつも一生懸命で。
そんな遼をみていると、どうしようもなく手を差し伸べてやりたくなる。
幸せになって欲しいと。
いつも笑っていて欲しいと。
そんなことを心の片隅で願っている自分がいる。
征士はのそのまま無言でキッチンを出ると、鞄を置きに急いで2階へと上がって行った。

 

――――――玉ねぎは3mmくらいの厚さにスライスしてということだったが、とても出来そうにないので、5mmから1cmで妥協。
マッシュルームはあらかじめスライスしてある缶詰を使用。
牛肉は書いてある量より少し多めに用意して塩こしょうして小麦粉をまぶす。
少し塩が多すぎたかもしれないが、そこのところはご愛嬌。
鍋に今度はきちんとバターを溶かしてから玉ねぎを入れて炒め、それからスープの素、ざく切りトマト、トマトジュースをいれる。
2人で料理本を見ながらひとつずつ慎重に間違えないように作業を進める。
ただし、火を使うので焦げ付かせないように細心の注意を払いながら。
「やっぱ、伸ってすごいかも」
ぐつぐつと煮立ちだした鍋の中身を覗き込みながら遼が感心したようにつぶやいた。
「こんだけやるので、オレめちゃくちゃ神経使って疲れたのに。伸は毎日こんなことしてたんだなあ」
「まあ、伸の場合、料理は趣味だとも言っていたから、私達よりは多少気楽にやっているとは思うが、確かに尊敬に値するとは思う」
征士も感心したように腕を組み、ようやく美味しそうな匂いをさせだした鍋の中を覗いた。
「ちょっとは美味しいものが出来てればいいなあ」
「そうだな。味は伸の足元にも及ばない出来だろうが、それでも何とか食べられるものが出来たのではないか?」
「何が出来たって?」
2人がじっと鍋を覗きこんでいる後ろから、ふいに伸の声が聞こえた。
「伸?」
驚いて振りかえると、伸が不思議そうな表情をして、鞄を肩に首をかしげていた。
「おかえり、伸。夕食はオレ達で作ったからすぐ食べられるぞ」
ぱっと笑顔を浮かべ、遼が嬉しそうに伸の元に駆け寄った。
「遼が? 作ったの?」
「ああ。」
「へえ、頑張ったね。美味しそうな匂いが廊下まで届いてたよ。何作ったの?」
「ビーフストロガノフ。」
「ビーフ…?」
意外そうな顔をして、伸はコンロの上の鍋をまじまじと見つめた。
「ホントに?」
「ああ」
「……すごいじゃない」
キッチンの椅子に鞄を置き、伸は鍋の方へ駆け寄ると、美味しそうな匂いを漂わせている鍋の中を覗き込んだ。
「すごいすごい」
そっと中身を掻き回し、伸は更に嬉しそうな笑顔になる。
「ちょっと味見していい?」
「ああ」
言いながら遼がさっと伸の手に小皿を渡す。
伸はにっこりと笑いながら小皿を受け取ると、スープを注いで口をつけた。
「どうだ?」
恐る恐る遼が聞く。
伸は舌の先で転がすようにスープを味わい、満足気な笑みを浮かべた。
「ん。美味しいよ」
「……やったぁ!」
遼と征士が嬉しそうにパンッと手を打ち合わせた。
「随分頑張ったんだね。とても美味しく出来てる。すごいよ2人とも」
「ホントに?」
「うん。ちゃんと本を見ながら分量とか計ったんだろう。火の通りも悪くない」
「最初はさ、玉ねぎが焦げちまって大変だったんだ。征士が手伝ってくれて何とか形になったんだけど、それまではどうなることかと思う出来の悪さで……」
「へえ」
嬉しそうに伸に報告を続ける遼を微笑ましげに見つめながら、征士はトンと壁にもたれて腕を組んだ。
「何かの漫画にあったよね。好きな男の子に食べさせようと一生懸命主人公の女の子が料理する話。確かその時のメニューがビーフストロガノフだったような」
「ああ、オレもそれ読んだ。秀に借りたんだ。その漫画」
「そっか、そうだ。秀の本だったよね」
「あん時、なんか美味そうだなあって思ったんだ」
「だから作ってみたかったの?」
「そうだよ。どうせ単純だなあとか思ってるんだろ」
「そんなことないよ」
「顔がそうだって言ってるぞ、伸」
「そんなことないない。あ、そうだ、最後の仕上げに生クリームいれると美味しいよ。まだ冷蔵庫に少し残ってたはずだから入れようか」
「本当か?」
「うん。どうする? 入れる?」
「もちろん」
嬉しそうに冷蔵庫を開け、遼が伸に生クリームを手渡した。
倖せで穏やかな光景。
本当に、遼の倖せそうな笑顔を見ていると心が和む。
この笑顔を見ているだけで、自分までもが充分な程倖せな気分になってくるのが感じられる。
ずっとずっと、この穏やかな空気に包まれていられたら、とても楽なのだろうと。
楽なのだろうと思う反面、心が少し痛くなる。
この時間が永遠ではないことがわかるから。
決して永遠ではあり得ないことがわかるから。
伸の心も、遼の心も、そして、当麻の心も。
「なんか騒がしいな。どうしたんだ?」
征士の心の声が聞こえたのか、その時、当麻がぬっとキッチンに顔をだした。
「あ、当麻おかえり。今日はオレと征士で夕食作ったんだ。すぐ食えるから運ぶの手伝ってくれよ」
「わかった。了解。じゃあ、あっち片付けてくるよ」
さっと濡れ布巾を手にすると、当麻はキッチンを出ていった。
征士も一瞬躊躇したあと、当麻を追ってキッチンを出る。
追ってきた征士を気遣うふうもなく当麻はスタスタと居間へ向かい、ダイニングテーブルの上に乗っていた本をソファの方へと移動させ、テーブルをふきだした。
「当麻」
「何だ」
「いつ帰って来ていた?」
「さっきだよ。何で?」
「……いや、別に」
自分は何を当麻に聞こうとしていたのだろう。
小さくため息をついて征士が当麻に背を向けると、その背中に向かって当麻がぽつりと言った。
「倖せそうだよな」
「…………?」
「空気に入っていけないって、ああいうのを言うんだろうな」
「当麻?」
「…………」
当麻はそれ以上何も言わずに黙ってテーブルをふき続けた。
とたんに心が痛くなる。
すっと当麻から視線をそらし、征士は今度こそ踵を返し居間を出ていった。
廊下にでると、ちょうど部屋に鞄を置いてこようと伸がキッチンから出てきた所である。
征士はじっと伸を見つめたあと、つぶやくように言った。
「時々思う。お前が二人居ればいいのにと」
「……えっ?」
「何でもない。ただの戯言だ気にするな」
「征士……?」
伸が表情を曇らせると、征士は本当に何でもないと、再度言い聞かせるように言ってキッチンへと戻っていった。
伸は征士の背中を見送ったあと、2階へ向かう階段に足をかける。
自分が2人いれば。
それは何の為に。
答えを聞くのが怖い気がして、伸は居間を振りかえって小さくため息をついた。

 

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